16. 戦略的撤退
「退去理由は消滅したな」
「何すっきりした顔してんの」
剣を鞘に納めたマドックに、ルガルカは疲れた目を向けた。肌艶すら良く見えるマドックが癪に障る。
「俺との暮らしはそんなに都合が悪いか? 俺はルゥルゥ殿の生活を楽にする役に立つ男だろ」
「それ幼児期の愛称だから呼ばないでくれる」
ルガルカは否定できず溜息をついた。
「名前を知らない」
「いいから呼ぶな」
「ルゥルゥ」
ルガルカは頭を抱えた。マドックはこの手のことで引く気がないのだ。
「………………ルガルカ」
ルガルカが心底渋々、苦慮の末といった体で絞り出すと、マドックは嬉しげに笑みを広げる。
「俺が好みだって?」
ルガルカは舌打ちを堪えた。
「ガリィの言うこと真に受ける程、浅い付き合いだってことでいい?」
「何度か一緒に仕事をしただけだからな、よくは知らん。殺しの依頼を受けられる程度の仲だ」
「それは胸を張るところなの」
嫌味もまるで刺さらず、ルガルカが投げやりな横目で見やると、マドックは思いの外真面目な顔をしていた。
「何が引っかかっている。昔の男のように、戦場から帰らないことか」
「戦地に心を置いてきた奴に心砕く馬鹿馬鹿しさを知ってんだよ。あんたもそういうんなら、無責任なことすんのやめな」
マドックを好ましく思う気持ちはある。だがそれは淡いもので、関わり合いのないところでの幸せを、痛みなく願える程度のものだ。ルガルカには悲恋に時を費やす趣味はない。一時の癒しのために利用されてやる気もないのだ。
追い払うように軽く片手を振って家に歩む背を、マドックの声が追ってくる。
「俺はその男とは違う。戦に出てたのは大事なものがなかったからだ」
「私がその大事なものになれるとでも?」
吐息で笑ったルガルカの声音は素っ気ない。
「……卑下じゃないから質が悪い」
マドックは渋面になり、足を止めた。ルガルカのそれは事実に基づく分析で、悟りに近いと見てとったのだ。ルガルカが反応せずにいると、マドックが溜息をついた。
「俺がそいつを殺してやればよかった」
「………いろいろおかしいけど指摘したほうがいい?」
「いやいい、解ってる。だがそいつの所為で俺も信用されないんだ。そう思ったって仕方ないだろう」
「もうこの話は終わり。諦めは平穏への近道だよ、お互いにね」
ルガルカが不毛を感じて締めくくると、それからマドックは大人しくなった。いつものようにルガルカの用事をこなし、見回りや狩りに出る。その間にルガルカはマドックの旅支度をしていた。応えられない以上、思わせぶりは良くない。マドックは自分を追い出すための準備を見ても何も言わず、森を抜けるに十分な物資を詰めた背嚢をあっさり受け取った。
朝靄がすっかり引いて、日の光が木々の合間から覗く頃、ルガルカは作業場の地面に茣蓙を敷き、煮詰めた魔草を天日干しすべく並べていた。其処に影が伸びて振り返ると、旅装を整え背嚢を肩に引っ掛けたマドックが立っていた。
「戦に行ってくる」
散歩に行ってくる程度の軽さだった。ルガルカは片眉を持ち上げたが、そうかい、と気の無い相槌を打って屈めていた腰を起こす。
「死にに行くんでも、楽しみに行くんでもない。あんたを手に入れに行くんだ」
「……何言ってんの?」
結局はこの男もそういう男だと納得しかけた分、ルガルカは言葉の意味を解しかねて、眉を顰める。
「そこから戻ってくれば、多少は信じられるだろう」
ルガルカのマドックを見る目が丸くなった。そうしてみてもそこにあるのは真顔で、冗談の類を言っているような雰囲気ではない。
「馬鹿なの?」
ルガルカは唖然として、それ以外の言葉が浮かばなかった。
「必要なのは事実の積み重ねだ。違うか」
確信を持ったマドックの力のある眼差しに、ルガルカは顔を歪める。
「……やめなよそんなことに命懸けんの」
「金の為より遥かに懸け甲斐がある」
「そんなことされても嬉しくない」
「喜ばせる為に行くんじゃないからな」
ルガルカは閉口した。ルガルカの意思を必要としない場所でなされた決定に、ルガルカが何を言っても影響するわけがない。
「あんた大分、色々、おかしいよ」
「まともだと言ったのはその口じゃなかったか」
ルガルカの呆れにマドックは軽く笑った。その余裕が腹立たしくて、ルガルカは睨みあげる。
「ルガルカ」
きつい視線を物ともせず目元を和らげたマドックは、片手を伸ばしルガルカの頬を包んだ。ルガルカはその手首の内側に手を添えて、次の動作を警戒する。
「戻ってきたら迎え入れてくれ」
親指で頬の輪郭をなぞっただけで、マドックの手は離れていった。