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10. 過去は過去


 ルガルカが戸を開けると、其処には膝を抱えて座っている英雄がいたので、戸を閉めた。閉める寸前に見えたぱっと上がった顔は、安堵の表情ではあったが心なしか憔悴していた。髭が剃られておらず革鎧も着たままだったから、あの状態で不安な一夜を過ごしたのかもしれない。些かなり良心が咎めるが、一夜くらいでどうにかなる男でもあるまいと、戸の向こう側の気配を注意深く探る。


「魔女殿、良かった。無事だな」

「正気に戻った?」

「…と、思う」


 心許ない返答だが切迫感がなくなっていたから、ルガルカはそっと戸を開けて廊下を覗く。ルガルカがまだ少し薄れているからだろう、立ち上がって高い位置になった灰色の瞳に、探るような色が残っている。


「昨日はどうかしていた、すまない。迷惑をかけた」

「じゃあ睡眠と食事とった後でいいから、昨日の獲物運んでくれる」


 丘に放置されたままの食料がある。ばつの悪い顔をしているので、仕事を言いつけた方が気も楽だろうとルガルカが告げると、はっとした英雄が、瞬時に重大任務を与えられた男の顔になった。


「直ぐ行く」


 本当に直ぐに家を出ていきかけたので、ルガルカは慌てて後を追い、道中口に入れられるように干し肉と水筒を持たせた。昨日の獲物は全て運ぶのに何往復も必要で、時間も体力もいる。途中で倒れられても、ルガルカでは運ぶのに骨が折れるのだ。自力で歩行していてほしい。

 ルガルカは食事をし、喫煙をたっぷりして身体の薄れをすっかり取り戻すと、街に飛んだ。



 先代から付き合いのあるパン屋には、ルガルカの家への転送用の箱を置かせてもらっている。小麦粉や食用油などの買い溜めしたい重量のある物を、そこに持ち込み転送するのだ。

 ルガルカが子供の頃、既に大分年嵩だった看板娘のペニナは、今は総白髪の御隠居だ。腰も曲がり、背も低くなった。


「あれ、ルゥちゃん、ジョセフ君帰って来たのかい? 良かったねぇ」


 ペニナが朗らかに発した言葉に、ルガルカは不意打ちを喰らったかのように動きを止めた。


「だってほら、買い物がジョセフ君いる時と同じ量に戻ったじゃないか。やっぱり男の子はね、いっぱい食べるものね」


 にこにことルガルカの抱える小麦粉の袋の量を指摘するペニナに、悪気はない。ただ良いことがあったようで嬉しい、というだけだ。


「か、母ちゃん! その話はっ…店番ありがとう! ちょっとミルの様子見てて!」


 慌てたのはペニナの息子、オーランで、ぺニナを片手で抱え上げられるくらいには逞しい親爺だ。その大きな手で優しくペニナの背を押し、奥の居住空間へと誘う。


「ごめんなルゥちゃん、母ちゃんちょっとボケてきちゃってて」

「そんな気遣わなくても大丈夫、もう昔のことだよ」


 ジョセフという男と魔女の家で暮らしていた事実はないから、ペニナはおそらく、先代が健在だった頃のことと混同している。腫れ物を触るような扱いをされる方が居心地が悪いのだと含めると、オーランは弱ったように頭を搔く。


「昔ったっておめぇ…」

「今度から別の店でパン買うかなぁ」

「ガリィちゃん来てるのかい」


 ルガルカが新しくできたパン屋のある方向を見ると、オーランは気遣わしげな様子を改め、話題を変えた。

 ガリィというのは、ガリンダという、先代の元でルガルカと共に育った姉妹弟子のことだ。後継者争いを期待していた先代は残念がっていたが、自由奔放なガリンダと平穏を好むルガルカは、どちらが出てどちらが残るか争うことなく決まった。そういうわけで二人は特に仲違いはしておらず、偶に里帰りのようなこともあるのだ。だから買い物が増えても誤魔化しはきく。


「まあそんなとこ。ミルってのは? 孫でも生まれた?」


 ルガルカはにっこり微笑んで、袋を抱え直した。


 購入した物を転送箱で送れば、ルガルカは身軽に街を歩ける。店を出ると、日が暮れかけて西の空が赤く染まり、建物や人々の影が長く伸びていた。まだ人通りの絶えない大きな道を、横道に逸れる。日暮れに開店準備の始まる夜の店が多く集まる区画へ続く道。早々と呑んだくれたい連中を誘うように、酒場が幾つか開いていた。

 ルガルカは以前もこの通りに通っていた時期がある。帰らない確信がありながらも、ジョセフの行きつけの店の様子を見に行っていた。帰りを期待してのことではなかった。馴染んだ景色に足りないものがあるのを、極当たり前の事として受け止められるように少しずつ気持ちを整理して、不安定な心を落ち着かせようとしていただけだ。似た境遇の男達の話に耳をそば立てて、少しずつ自分を納得させていった。それが外からは諦めきれず帰りを待っているように見えていて、心配をかけていたのだろう。今こうして足を踏み入れても、彼の人を探そうなどという気持ちにはならない。戦闘職の人間が多く集まる場所故に、英雄に関係した噂も集まり易く、それが目当てだった。深入りしたくないとはいえ、巻き込まれる可能性はあるのだから、情勢は把握しておきたかった。

 適当な酒場に入ろうと向かった先に、見知った優男がいた。


「姐さん! 最近よく会えるね! これはもうそろそろ結婚したらいいって事なんじゃないかな!」


 セスだ。


「全くそんな事はないけど、ちょっと一杯付き合ってくれる」

「勿論!」


 肉体的には頼りなさそうでも、連れがいるのといないのとでは絡まれ具合が違う。ただの男除けと解っていても、セスは嬉々としてルガルカと酒場に入る。

 ルガルカはざっと店内を見渡して、客の大部分が戦闘職であることを見て取ると中に進んだ。装備品がまちまちの傭兵と思しき一団が囲んでいるテーブルと、同じ制服で統一された騎士の一団が囲むテーブルがあり、ルガルカは傭兵達の近くのカウンター席を選んで腰を落ち着けた。軽めの酒を頼み、話しかけてくるセスに生返事をしながら耳をそばだてる。男達は仕事の愚痴や猥談で盛り上がっていた。ちびちびと中身を減らしていた杯が空になり、目当ての話は聞けぬかとルガルカが腰をあげようとした時だった。


「英雄の話、聞いたか?」

「ああ、隣国に拠点移したんじゃないかって話だろ」

「確かか」

「それらしき奴を見たって話がある」

「頼りねぇなぁ」

「でも最近ここらで姿見ねぇからな」

「長期休業って話だろ」

「休業してたって煙みてぇに消えるわけじゃあんめぇ」

「休業は前振りか」

「有り得る」

「俺もそっち移るかなぁ」

「えっなんで」

「英雄と一緒に仕事した方が生存率上がるからだよ」

「俺はこのままでいいかな」

「英雄とやり合うことになってもいいのか」

「そこはそれ、英雄の首とったら名が上がるだろ」

「うわ自信家だな」

「っへ、英雄ったって老いには勝てんよ、後何年かすれば俺でもいけるかしんねぇ」

「今無理ならまだくっついてればいいだろ」

「それもそうだな」


 傭兵連中が大移動しかねない話の流れに、ルガルカの口から呆れとも感心ともつかぬ息が漏れた。


「こりゃあ適当な鎖で繋ぎ止めたくなるわけだ」


 世界は職業軍人を増強する流れになっているとはいえ、まだ傭兵の力に頼っている。いざ戦となれば、傭兵をどれだけ確保できるかで勝敗が左右されることもあるのだ。


「そりゃね。俺としてもどっかの国に定住してもらった方が、情勢読みやすくて助かるんだけどなー」


 商人としても注視しているらしく、セスも同じ席の会話を拾っていたようで、ルガルカの呟きに的確に反応した。ふと騎士達の方を見ると、傭兵達の方を見て顔を見合わせ、表情を曇らせている。傭兵達の声は大きかったから、彼らにも聞こえていたようだ。


「明日中にここらの騎士団にも噂行き渡るねぇ。士気下がりそー」


 それを見たセスが言い、ルガルカは目を瞬いた。


「騎士には関係ないだろ」

「いやいや、なんたって英雄だからさ。憧れてる連中も多いのよ。宝剣受け取ってるからいずれは同胞に、って期待もあるだろうしねー」


 英雄は王からの賜りものを煩しそうにしていた。ルガルカには少なくともイアチフ王に仕える気はないように見えたが、実態を知らねばそんなものなのかもしれない。


「縁談断ってるとか言ってなかったかい。爵位受け取らない代わりに受け取ったとか、その程度のもんなんだろ」

「あー、所詮は平民だもんな。全部は断りきれなかったとか、ありそう。英雄にゃ、権力欲とかないのかね」

「さあ」


 恐らくその手の欲はないだろうと目するルガルカは、肩を竦めて席を立った。

 その後も何軒か回り、家に帰り着いたのは月が大分高くなった頃だった。家からは灯りが漏れていて、それは僅かなものだったが、真っ黒な森の中では一際目立ち、上空からだと尚更見つけ易い。ここ数年、月明かりだけが頼りだったから、ルガルカは少し懐かしい気持ちになった。

 滑空する黒鳥の形が、地面に降り立つに合わせて縦に長く伸び、長靴を履いた足で着地する。風をはらんだ黒いローブの裾が遅れてそれを隠した。家に入ろうと歩み寄った先で、勢いよく戸が開く。鼻先を掠めた風圧に仰け反ると、灰色の目と目が合った。


「あっ、危ないだろ」


 もう少し進んでいたら、ルガルカは顔面を強打するところだった。英雄は決まり悪げに眉を下げる。


「すまん、出かけていたんだな」


 さっとルガルカの全身に目を走らせたので、ルガルカは英雄の所業の所以に思い至った。昼間は通り道として教えていた川岸沿いの人除けを一部解除すべく途中まで同行していたが、出かけることは告げていなかった。ヌフォークの影響からは脱しているから特に必要はないと思っていたのだが、心配していたらしい。ルガルカは少しばかり面映くなり、そう感じた事に苦味が浮いた。






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