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1. 旅人よ躊躇うな


「誰か! 誰かいないか!」


 およそ常人が近寄るとは思えない密林の奥深く、唐突に一軒家が姿を表す場所がある。木々が作り出す陰影が濃くなる夜半だった。切迫した男の声が響き、木戸が激しく打ち鳴らされる。近くで重量のあるものが飛び立つ音がして、騒音の主が身を竦め、沈黙が降りた。程なくして、取っ手を乱暴に引っ張る音が夜のしじまに響く。押しても引いても開かない戸から手が離れ、窓に周ろうと足を一歩引いた時。ギィイイ、と軋む音をさせて戸が開いた。男は固まり、ぽっかりと口を開けた真っ黒い空間を凝視する。その視線に応えるように、ぽぅ、と淡い灯りが一つ浮かび上がる。フードを目深に被った何者かが、そこに居た。男は引き攣れた息を呑んで一歩下がる。


「おや、火急の用があったのではないのかい」


 フードの影で、誰かが薄らと笑った。その声は低いが、女のものであるようだった。灯りは手元から口元辺りを照らす程度の大きさで、女が卓上に頬杖をしているようなのは判るが、女の全容も、室内の様子もはっきりと見えない。他に生き物の気配は窺えないが、不用意に足を踏み入れてはならないと男を怖じさせるに十分な空気が漂っている。もう一歩後ずさると、その振動を捉えたかのように足元の草が淡く発光した。月明かりも届かない暗闇を、ここまで誘導してくれた不思議な現象だ。だからこの先にいる女が本当に女なのか、人ならざるものでは無いのか、大いなる不安を呼ぶ。希望の光か魔窟への誘いか判然とせず、道中も不安しかなかった。だが、引き返すならどうぞとでも言うように素っ気無くも感じる発光は、この先の女に、男に対する悪意が無いことを示しているようにも思えて、踏み止まる。


「す、少しでいいんだ。水と食糧を分けてくれないか」


 意を決して発した声は上ずっていた。


「それだけでいいのかい。血の臭いがするよ」


 男は黙った。男は怪我をしていた。にも拘わらず、ここまでの道程で獣に襲われることもなかった。もしやこの女の加護だろうかと思い至るも、善意と受け取るには理由がない。獲物が無事に届くように仕掛けを施したという方がしっくりくる。足元を見た。発光は消えていない。正面を見る。女は卓に着いたまま、少しも動いていない。恐る恐る口を開くことを選択する。


「薬と包帯もあれば分けて欲しい」

「何を担保にする」


 男は再び息を呑んだ。それはそうだ。こんなところに居を構える怪しい生き物が、無償で人助けをするわけがない。


「今は何も持っていないんだ。野盗に遭って……俺だけ命からがら逃げてきた。頼む! 無事人里に出られたら礼に望む物を用意するから!」

「何を言う。持ってるじゃないか。ここまでお前を運んで来た足。傷口を押さえる手。もの言う口に呼吸する鼻、私を映す瞳、私の声を聞きとる耳」


 男は青ざめた。これは人を喰う魔物か何かか。じり、と無意識に下がる足元に発光が広がる。


「対価を払えなかった場合に寄越すものを選びな」


 つまり対価はこの身ではない。それに気付けば、男の冷えていた肝が少しばかり熱を取り戻した。


「た、対価は」

「お前たちの通貨で良い」


 男の胸中にどっと安堵が広がった。価値観が同じなら、女は人であるのかもしれない。


「は、払う! 勿論払う!」

「担保は何にする」

「た、担保は………耳だ、耳にする!」

「いいだろう。おいで」


 女の声が慈愛にも誘惑にも聞こえる。男の喉仏が大きく上下する。近付かねば物の受け渡しができないことは解ってはいるが、勇気のいる行為だった。恐々と戸口を潜り、屋内に足を踏み入れる。嗅いだことのない匂いがした。草花なのか、木の香なのか。判別しようと吸い込むと、少し頭がぼんやりとする。いつの間にか女の真正面に足を踏み出し、差し伸べられた白い両手の間に頭を差し出していた。


「違えたら聴覚をもらおうね」

「え」


 産毛が女の指の感触を感じようとした瞬間、爆発的な熱量が耳を襲い、男の視界は暗転した。



 気付いたら男は山道に出ていた。朝焼けが木々の間から薄らと見える。夢を見ていたのかと思ったが、荷物を奪われた筈の男の背には、簡素な皮の背嚢があった。中身を確認すると、干し肉や漬物などの保存食一式と、水、傷薬に包帯、獣避けの鈴まで入っていた。飾り気のない木の小箱を見つけると、説明を受けていないのにそれが対価を入れる物だと判る。そして何より、耳が熱を持っている。触れて確かめた形に異常はなかったが、約束を違えるなと主張するようにそこだけ熱い。女の文言を思い出す。


『聴覚をもらおうね』


「耳じゃ、なかったのかよ……!」


 耳殻のつもりだった。それならもし失っても、多少集音に難は出るかもしれないがそれだけだと思っていた。五感のうちの一つを失う恐怖に、奥底にあった踏み倒そうという気持ちを急激に失う。最後に見た女の赤い唇が、笑った形で脳裏に浮かんだ。







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