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桜の樹の向こう側には

作者: 横原梅

 桜の樹の下には屍体が埋まっている、といったのはある有名な作家だという。桜の樹の下に屍体なんて埋まっていないのだ。でも、どうしても。腐敗した屍体から流れ出た水晶のような液体によってもたらされているであろう、あの美しさが、嫌いだ。


 桜の花びらが風に吹かれて、青い空を心地よさそうに舞う。そしてそのまま、小さな池の水面へと舞い降りた。桜はすぐに散ってしまう。だから嫌いなの。なんだか寂しくて、儚くて。

『×××』

 誰かが、私の名前を呼ぶ。うるさい。お願いだから、私の名前を呼ばないで。喉元に突きつけられた見えない硝子の破片がわずかに皮膚を裂くような気がした。


 近所の公園は市内では少しだけ有名な桜の名所らしい。でも、こんな早朝には花見をする人はいない。ゴールデンレトリバーのハナコに半ば引っ張られるように私は公園へ足を踏み入れた。

「ちょっとハナコ、待ってよ」

 ハナコが家に来て早半年。あのころから大分成長したように思えるけれど成犬と比べるとまだまだ小さい。ハナコは少しばかりやんちゃだからこのまま大人になったらどうしよう、と少しだけ心配になる。でもまあ、その時はその時、と思ってしまっている私もいるのだけど。

 公園に入ってからもハナコは私のことを強引に引っ張っていく。いつもはよっぽどのことがない限りこんなに強引ではないのだけれど、今日はいつもとは違う。まるでどこかへと連れていこうとしているように。ずんずんと進んでいくにつれて嫌な予感がしてきた。少しだけ、ほんの少しだけ息が苦しくなる。だめだ。このまま進んでしまったら。


『桜ちゃん』


 貴女が名前を呼ぶ声がする。


 昔は大好きだったのに。私と同じ名前の、あの花が。


「桜」

 そう名づけてくれたのは私の大好きなおばあちゃんだった。両親が共働きだった私は、小さい時はいつも、白くてピンクのリボンをつけたちいさな猫のぬいぐるみと共におばあちゃんの後をついてまわった。優しくて、お料理上手で、裁縫が得意で、そろばんも弾ける。自慢のおばあちゃん。そんなおばあちゃんに病気が見つかったのは今から六年ほど前のこと。何も知らなかった私は、一番近くにいながらも、ただ弱っていくおばあちゃんを見て、手伝うことしか出来なかった。

 少しずつ弱っていくおばあちゃんを見ながらも、どうしたらいいか分からなかった前の秋、突然おばあちゃんが倒れた。原因は癌だった。白だらけの病室で、どうして教えてくれなかったのと怒鳴った私に、おばあちゃんは小さく震える声で「ごめんね」と言った。ごめんね。その言葉が何を指しているのか分からなくて、気がつけば私は病室を飛び出して、病院の前にいた。オレンジ色の秋桜が揺れていた。ぼんやりと、花壇に咲く花たちを眺めながら、ごめんね、の意味を考えていた。病気になってごめんね? 迷惑をかけてごめんね? 黙っていてごめんね? でも、どれに対するごめんねも当てはまっているようにも感じられたし、どれでもない気がした。でも、私はその言葉に返す言葉を知っている。

 電気がつけられていない病室には、うっすらと闇が入りこんでいた。その中で鼻をすする音がする。私は無遠慮に病室の電気をつけた。ベッドの上には驚いた顔のおばあちゃん。今まで、おばあちゃんの泣いた顔なんて見たことがなかった。きっと私を悲しませたり寂しい思いをさせないためなんだろうな、と思った。

「桜ちゃん……」

 おばあちゃんの声はまだ、震えていた。

「おばあちゃん、ごめんね」

 そう言って抱きしめるとおばあちゃんも小さく、ごめんね、とささやいた。おばあちゃんの体はあたたかくてどうしてか涙が溢れていた。


 空からはひらりひらりと紅や黄色に色づいた木の葉が舞い落ちる。おばあちゃんの体調のよさそうな良く晴れた休日の朝、私はおばあちゃんと散歩をしていた。散歩といっても、もうおばあちゃんに歩くほどの力はなくて。からからと、私は車いすを押した。

「桜ちゃん」

「なあに、おばあちゃん?」

「春になったらさぁ、桜を見に行こうね。お家の近くの公園の」

「おばあちゃん、あそこの公園の枝垂れ桜、好きだよね」

「うん、好きだよ」

「じゃあ一緒に見に行こうね。約束だよ、絶対ね」

「約束ね」

 そう言って私達はまるで幼い頃にしたかのようにゆびきりをした。おばあちゃんの膝の上には、黄色いイチョウの葉っぱが三枚乗っていた。


 冬になる頃に、おばあちゃんの意識がなくなった。まるで眠っているかのようだった。最近は少し体を動かすだけでも痛い痛いと言っていたけれど、もう、痛くないのかな。ここ最近でさらに痩せたおばあちゃんの手をぎゅっと握った。おばあちゃんの手はあたたかかった。

それから二日後の寒い日、おばあちゃんは、娘夫婦と孫に見守られながら、静かに天国へと旅立っていった。おばあちゃんを呼びとめようとする声だけが、病室に響いていた。おばあちゃんとの最後の会話は、意識がなくなる前日の「また明日ね」だった。


亡くなった後、病室の引き出しから一冊の手帳が見つかった。臙脂色の分厚い手帳は、おばあちゃんが気まぐれにつけていた日記らしかった。おばあちゃんは必死に戦っていたのだ。たった一人、誰の助けもなく。抵抗するでもなく、諦めるでもなく。ただ、ひたすらにその運命を受け入れたのだ。自分の人生を必死に生きようと。

最後に、おばあちゃんらしい、けれども少し乱れた字で、私あての手紙が書かれていた。

『桜ちゃんへ

 今年の春、見に行った桜、とてもきれいだったね。

 見に行く約束守れなくてごめんね。

 あなたの成人式や結婚式の晴れ姿、とっても見たかったけれど間に合わなさそうです。

 見に行くっていったのに、ごめんなさい。

今までありがとう。

桜ちゃんが孫の中で一番かわいいよ。

桜ちゃんは私の自慢の孫です。』

おばあちゃんと過ごした十七年間がフラッシュバックするかの如く思い出されていく。もっと一緒にいたかった。成人式の振り袖姿見るって言ったじゃない。結婚式も行くって言ったじゃない。

先に逝く人はいじわるだ。約束をするだけしていって自分は破るのに残った人たちには守らせようとするのだから。だから桜なんて見に行ってやらないし、成人式も出ないし結婚だってしない。


そう決めたはずだったのに。


私は認めたくなかったんだ。現実と向き合うのが怖かったんだ。貴女が死んだなんて。

枝垂れ桜の向こう側に貴女がいる気がした。

『桜ちゃん、来てくれたのね』

 だってハナコが勝手に引っ張っていったんだもの。

『約束、覚えていてくれた?』

 もちろん。忘れるわけないでしょう。

『枝垂れ桜を見たら、私を思い出してね』

 うん。嫌でも思い出すよ。

『桜ちゃん、ありがとね』

 ううん、こちらこそありがとう。ありがとう。


 突然、強い風が吹いて、目の前が桜で覆われる。吹雪いていた桜がゆっくりと地面に落ちてきて、視界がやっと開けた。何度見ても、枝垂れ桜の向こうに貴女はいない。


 貴女がつけてくれたこの名前も、同じ名前のあの花も、私は好きでいようと思う。

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