チャプター5
〜ルーヴェンライヒ邸 エルザの私室〜
ドア越しに、遠慮がちなノックが聴こえた。間違いない。これはエルリッヒのものだ。
来た! 先ほどアリーツェから報告を受けた時から待ち遠しくて仕方がなかった。この数分間が、どれほど長く感じたことだろう。つい嬉しくなって、ドアに駆け寄った。
「エルリッヒさん!」
元気よくドアを開け放ち、来客を歓待する。エルリッヒは戸惑うことなく挨拶を返した。その所作は、どことなく洗練されており、一瞬平民であることを忘れてしまう。
「エルザさん、お久しぶりです」
「さ、入って入って」
エルリッヒを部屋の中に招き入れると、そこからどうして良いか分からず、戸惑ってしまう。
「あの……」
「エルザさん、ご無事で何よりでした。このお屋敷は、本当に無事みたいですね。よかった」
エルザの様子を見かねて、エルリッヒはその手を取り、無事を喜んだ。屋敷の様子を見て無事を確信したが、こうして直接顔を見て、手に触れると安心感は段違いだ。
あぁ、本当に無事でよかった。
「エルリッヒさんこそ! 街がこのような事態になっているというのに、わざわざ私の無事を確認するために?」
「そうです。こんな時だからこそですよ!」
握った手の温かさが嬉しい。しかし、街の状態を考えれば、いつどうなるかもわからない。今無事だからといって、自分が屋敷を後にした直後に魔物が襲ってくるかもしれないのだ。安心は今一時のものでしかないことを実感していた。
「あの、エルリッヒさん。私、こんなところで見ていていいのでしょうか。先ほどから、そんなことばかりが気になってしまって。貴族の立場なのに、皆さんよりも大きなお金を動かす力があるはずなのに、こんなにも無力で」
「エルザさん……」
握ったままの手に力が込められていく。それだけ切実なのだろう。自分にできるアドバイスなど本当に大したことではないだろうが、それでも何か言葉を求められている以上、何か言葉をかけてあげなければ。そんな気になった。さて、何を言おうか、伝えようか。
「今は、エルザさんが無事でいることが一番なんじゃないかって思います。例えば、このお屋敷なら焼け出された人が避難するのには十分です。お金があれば、そういう人たちを支援することもできます。でも、それは魔物の脅威が去った後の話。だから、そのために無事に生き残ることが今は大切なんです」
「エルリッヒさん……」
魔物を追い払った後にしかできそうなことが思いつかないと悩んでいたが、そのために「今」生き残るということの意味など、考えたこともなかった。そうか、そういう見方もできるのか。エルザは目から鱗が落ちるようだった。
「後、単純にお友達としてエルザさんに怪我でもされたら、私は悲しいです。だから、私のためにも元気でこの難局を乗り切ってください。こんなんでアドバイスになるのかわからないけど……」
「いいえ、十分です! そうですよね、魔物と戦ったり避難指示を出したり、そういうことは私じゃなくてもできるし、私がしゃしゃり出ても事態を悪くするだけですものね。無事に生き残ることを優先することにします! とは言ったものの、このお屋敷もいつまで無事でいられるか……」
エルザもわかっていた。この屋敷が無事なのは、大通りやお城から離れているからこそだ。とはいえ、いつまでも無視されている保証はない。最後まで狙われないようにしたり、狙われた時にどうすればいいのかなんて、考えたこともなかった。
「そうですねぇ……こればっかりは魔物次第ですよね。だから、とりあえずできるだけ外に出ないように気をつけてください。どうやら、魔物は空から襲ってきていますから、見つかりでもしたら、途端に狙われちゃいます」
セオリーに則った話を繰り広げるも、食料が尽きれば買い出しに行かなければならないだろうし、井戸は屋敷の外にあるだろう。そのような状況で「外に出るな」というのもいささか酷な話ではあった。だが、地上からなら、南からならいざ知らず、北側から空を飛んで攻めてきている相手なのだから、気をつけるよりほかはない。何しろ、今この瞬間も屋敷の上を多数の魔物が飛び交っているのだ。
「食料や水の蓄えは大丈夫ですか?」
「それは……確認しないとなりませんね。他に気をつけることはありますか?」
本来なら、エルリッヒも”こういうこと”にはあまり詳しくない風を装っていなければならないのだが、緊急事態には構ってなどいられない。持ちうる限りの知識と、思いつく限りのアイディアを授けたかった。だから、ぐるりと部屋を見回して、何か思いつかないか考えてみた。
「他に……う〜ん、そうですねぇ。他にあるとすると、やっぱり消火でしょうか。エルザさんもご存知の通り、魔物の炎や魔法で燃やされてしまった家があります。このお屋敷も、狙われたら例外にはなりません。だから、すぐに消し止めるだけの準備はしておいてほしいんです」
「わかりました。難しいかもしれませんが、消火用の水の準備と、すぐに消しに行けるだけの身のこなしですね!」
身のこなしというのは少し違うような気がしたが、今は細かく突っ込んでいる場合ではない。それよりは、ほとんど女性しかいないこの屋敷を守るものがいないことの方が問題だった。もし魔物が直接攻めてきたら、どう守るというのか。残念ながら、自分はずっとこのお屋敷にはいられない。魔物を撃退することを考えてしまうし、これ以上怪しまれないよう避難する必要もあるかもしれない。
「後最後に、このお屋敷には警備の人はいますか? みたところ、全然そういう人はいないようですけど」
「それは、私も案じているところです。魔物が襲ってきたら、誰も戦うことができません。自分の身を守ることすら難しい娘たちがほとんどです。エルリッヒさんは、そのフライパンは護身用ですよね? でも、うちの使用人たちは、多分そんな機転も利かないと思うんです。もちろん、私自身もですけど。どうしたらいいでしょうか……」
このフライパンはあくまでも近接武器の代用品だし、こんな代物を扱える人間がいるはずもなく、まして一つしかない。これを置いていくわけにもいかず、ここでもまた八方塞がりになった。
「う〜ん、これは困りましたね。せめて、武器でもあればいいんですが……いや、あっても心得がないと自分が怪我をしかねませんし……」
「そうですよね。武器だけなら、先祖伝来の宝剣や、陛下から賜った記念の剣などがあるようですが……エルリッヒさんの言う通り、そんなものを扱えるものはここには……」
悩んでいても始まらない。だが、非力な女性がほとんどだとわかると、おそらく無抵抗にやられてしまうだろう。わざわざ街の北側を重点的に攻めてくるほどの魔物が統率をしているのだから、貴族の娘をその手にかけることの意味は、十分に理解できるだろう。
「あの、前回はどのくらいで魔物はいなくなったか、わかりますか? 前回の時、私はちょっと街を離れていたので知らないんですけど……」
「え? あぁ、それは……半日くらいだったと思います。魔物がいなくなった時、教会の鐘が鳴り響いていましたから、はっきりと覚えています」
半日というのは魔物の侵攻としては短すぎる。圧倒的な力で攻め滅ぼすか返り討ちにあうかでもすれば短期決戦にもなるだろうが、それほどの戦力差はなかったはずだ。やはり、前回は威力偵察に近いものだったのだろう。
「エルザさん、聞いてください。一つ、思いついたことがあります」
「一体なんでしょう……」
戸惑うエルザを前に、エルリッヒは話を続けた。
〜つづく〜