チャプター30
〜竜の紅玉亭〜
みんなと別れて自宅に戻ると、何をするでもなくまっすぐ二階に上がり、自室に入った。
「……よいしょっと」
おもむろに身につけていたドレスを脱ぐと、それをクローゼットにかけた。下着姿に成ってみると、着衣の締め付け以上に心が軽くなった。本当に、自由になった気がする。憧れのドレスだったし、ある程度の自由は認められていたけれど、何しろ濡れ衣での軟禁生活だ、いい気分ではない。それに、何度着ても窮屈で着なれない。物理的にも、精神的にも。だから、こうして自室で脱ぎ放った今、ようやく自由の身になれたんだという思いで満たされる。
その、憧れではあったけど束縛の象徴でもあったドレスを、少しの間見つめる。
(あーあ、自分には似つかわしくないよね、こんな立派な衣装なんて……それでも……)
少し自嘲気味に他の衣服と見比べると、下着姿のままベッドに腰掛け、深いため息をついた。
「はぁ〜っ!」
それは、ここしばらくの疲れを吐き出すかのようであり、お城で吸った庶民には勿体無い空気を吐き出しているかのようでもあり、あるいは今回の一件で浴びてしまった、人間の醜い一面を吐き出すようでもあった。兎にも角にも一件落着、今はただ、疲れていた。
「これから、どうなるんだろうなぁ……」
夕暮れ時の、何もない天井を見上げながら、小さく呟く。今まで通りの日常がそっくりそのまま帰ってくるなんて、そんな虫のいい話はまずないだろう。だからと言って、この近辺のみんなは、危険人物として扱うようなこともないはずだ。だから、腫れ物に触るような態度で接してくることはなく、少しだけ遠慮がちに接してくるか、非日常をはらんだ存在に興味を持って接してくるかのどちらかだろう。
その想像が明日からの日常と比較してどれだけ正しいのかはわからなかったが、今はただ、この街で平穏に暮らすことを模索するしかない。もちろんそれは、この身で実感した「魔王の脅威が今まで以上に迫っている」ということへの対処も含めてだったが。
「とにかく、疲れた……今日はもう休もう……」
さすがに下着のままではいられないので部屋着を着込むと、髪を下ろしてから一階に降りた。このまま寝てしまってもよかったが、やはり何か少しくらいは食べておきたい。とはいうものの、当然生鮮食品の買い置きはない。幾らかの保存食はあるから、それを食べることにした。お城ではなんだかんだと言って使用人と同じ(と言っても庶民感覚では十分に豪勢な)食事を出されていたから、空腹にあえいでいるようなこともなく、食欲もあまりない。何かを少しだけつまめればそれで十分だった。
「さて、と。何があったかな〜」
倉庫を漁り、干し肉と魚の塩漬け、それに野菜の酢漬けを見つけた。いささか以上に喉の乾くラインナップだが、元来保存食というのはそういう製法で作るものだから、これは仕方がない。飲み水は井戸から新鮮な水を汲んでこよう。お酒は色々とあるが、あまり好きではないのに加え、こちらもお手洗いが近くなり、水分が体から出て行ってしまう。お酒の効能は、普通の人間と変わらないらしかった。
質素なようだが、今の自分には十分なご馳走だ。そんな風に思える。
「何の制約もなく自宅でのんびりご飯を食べられるんだから、それが一番だよ……」
ふと、思ったことが口から出てしまった。それほどまでに、ここしばらくの日々が”非日常”だったのだ。
「よし、水を汲んでこよう」
発見した保存食たちを食べるぶんだけ見繕ってテーブルの上に置くと、ろうそくに火を灯す。何しろもうすぐ暗くなってしまうので、今のうちに灯りをつけておいたほうがいい。これで準備は万端だ。勝手口から外に出ると、桶を手に井戸で水を汲んだ。
今はこういう日常的な作業すら懐かしい。
「よーし、これで揃ったね」
保存食たちをお皿の上に盛り付け、見た目だけでもそれらしく装う。水もグラスに注げば立派な飲料だ。そうして、久しぶりの落ち着いた夕食をのんびりと楽しんだ。
もちろん、久しぶりに食べる保存食たちの塩辛い味わいに舌鼓を打ちながら。
〜夜〜
「う〜ん、体は疲れてるはずだし、あれだけ色々あったんだから、もっとあっさり寝付けるかと思ったけど……寝付けない! 夕方寝ちゃった方がよかったのかなこれ……」
寝支度を整えてベッドに潜り込むと、素早く目を閉じた。そして、寝入るのを体に任せていたが、全然眠気がやってこない。確かに体は疲れているし、心だって同じはずのに、意識を失うどころか全く寝付けないでいる。
「こりゃ、色々ありすぎたかな。うーん」
だからと言って何をするわけではない。今更起き出して、月明かりを頼りに散歩する気にもなれないし、それ以外の何かをすることも思いつかない。やはり、心身ともに疲れているのは事実なのだ。ただただ、ベットに横たわってじっと目を閉じている。
「はぁ……」
ため息ひとつ。今はそれだけだった。
(明日から……今まで通り過ごせるかな。それとも、みんな寄り付かないかな……)
もしかしたら、寝付けないのはこういう心配事があるからではないのか。考えたところですっきりするわけではないし、何かの答えが出るわけでもないのだから、みんなの態度に任せるしかないというのに、人間界に降り立ってからの長い期間、ずっと不安に思っていた事が現実に起こってしまったのだから、ついつい考えてしまう。
(通りの外の人達には、私のことなんてそれほど知られてないだろうし……)
石でも投げつけられたらどうしよう。そんな心配までしてしまう。いくらエルリッヒと言っても、そんなことをされれば当然傷つく。考えただけでも悲しいのだから、やめればいいのに悪い想像というのは連鎖的にあれこれ嫌な考えを呼んでしまうらしい。つい、自分が迫害される未来が浮かんでしまった。
(そうなったら、みんなに迷惑がかかるかも。それだけは避けなくちゃ!)
もしかしたら、通りのみんなは守ってくれるかもしれない。でも、その時争うのは、他の地区に住む住人なのだ。この街の住人同士で争うようなことだけは、あってはならない。
「と、とりあえず寝なきゃはじまらないよ!」
布団をかぶったまま、鎧戸越しに近所に聞こえるんじゃないかというような声で叫んだ。少しだけすっきりするも、布団の中を右へ左へゴロゴロゴロゴロ。結局、寝付けないのだった。
結局、そのままにわとりの鳴き声を聞くことになってしまった。
〜翌朝〜
「……無理」
夜寝付けなかった反動か、日が昇る頃ようやく眠気が襲ってきた。これでは普段通り過ごすどころではない。みんなには心配をかけてしまうかもしれないが、今日からお店を再開させる、というささやかな目標は果たせなくなってしまった。とても悔しいが、無理をして怪我でもしては元も子もないし、何より無事に食材が調達できるのか、そしてみんなが今まで通り来てくれるのか、それすらもわからないのだ。そう言った不安もあるので、急ぐ必要もなかった。
「あ〜あ、残念だな……でも……こんな調子じゃ……絶対……無理だ……」
いつしか、深い眠りに誘われていた。本人の希望からは、半日ほど遅れる形になってしまったが、何とか入眠することができた。
今はただ休もう。そうして、きっちりコンディションを整えてからお店を再開するのだ。閑古鳥が鳴こうがどうしようが、いつも通りお客さんを待ち続けるのだ。
そう心に誓いながら、夢を見ることすらないほどの眠気に身を委ねた。
〜つづく〜




