葉鶏頭
葵生りんさん主催「ELEMENT2017冬」の「想像の翼」に寄稿させていただいた作品。
お題は「黒猫貴品店謹製不思議のナイフ」です。
この街のすべての色は夜陰に吸い込まれたが、彼女の躊躇いの混ざった吐息だけは吸い込まれなかった。
雪のちらつく、深夜の裏通。
街灯の明かりの届かない、その暗闇の中。
時折、横を通り過ぎる車のヘッドライトが、一人の女らしき姿とゴミバケツの上に置かれた一つの箱を照らし出す。
青いプラスチック容器の蓋の上に載ったその箱は、ビルの裏というこの世の掃きだめのような場所には不釣り合いなほど、立派な彫刻が施されていた。
「黒猫貴品店……謹製……ナイフ?」
フード付きの黒いオーバーコートに全身を包まれた彼女の、くぐもったような声が虚ろに響く。どうやらそれは、木箱の上蓋に焼き印で刻まれた文字を読んだものらしかった。
彼女の口から、白い水蒸気とともに溜め息が漏れる。
暫くの後、震える手で木箱に手を延ばす、女。
蓋は、意外と簡単に外れた。
女が中を覗くと、そこには薄ぼんやりと光る一本のナイフと、四つ折りにされた一枚の紙があった。
再び、ヘッドライトが通り過ぎる。
その明かりは、彼女が広げた紙に書かれた文字を、暗闇に浮かび上がらせた。
『ナイフの柄に人の名前を書いた紙を入れて、人を刺してみてください。紙に書かれた名前の人物に、刺された人物の命が分け与えられます』
――!?
どう見ても、その辺の量販店に売られている品物と同じようにしか見えない、ナイフ。
女は箱からナイフを取り出し、その柄を回した。
彼女の目に辛うじて見えたのは、小さいが底が見えない、まさに得体のしれない柄の中の空洞だった。確かに、紙一枚くらいなら楽に入りそうだ。
「……」
女は黙ってナイフと紙切れを箱の中に戻すと、蓋を閉め、コートの中に抱え込んだ。
そして、ゆらゆらと蜃気楼のように揺らした体を闇にじんわりと溶け込ませながら、音もなくその場から去って行った。
☆
――これで三件目だな。
警視庁捜査一課主任、高木警部補は、事件現場に駆け付けるために乗った錆だらけの自前の自転車を漕ぎながら、そう思った。
早朝の電話で叩き起こされ現場にやって来た彼は、40歳少し前の独身男だ。
豊かな無精ヒゲを顎辺りに蔓延らせ、おにぎり二つと紙パックのトマトジュースの入ったコンビニ袋を左手にぶら下げながら、立ち入り禁止の黄色いテープを潜り抜ける。
薄汚れて赤黒くなった茶色のトレンチコートが、風になびいた。
「主任、お疲れさまですッ!」
細身の長身を皺だらけの灰色スーツに包んだ高木の部下である佐藤巡査部長が、徹夜明けらしいテンションの高い声で、彼を出迎える。
「おう、佐藤。で、やっぱりあのナイフなのか?」
「ええ、そうなんですよ」
築十年程度の、特に新しくも古くもない木造アパート。中央階段を上った二階の左手、二〇二号室が今回の現場だ。
被害者の所有物らしい靴が雑然と並べられた玄関を通り、ダイニングへ。
一人住まいだったことを示す小さなテーブルに突っ伏せるようにして、被害者である28歳の女、多々良良子は、死んでいた。
手の届かない、その白くほっそりとした背中の真ん中にナイフが刺さった状態で――。
彼女に向かって両手を合わせた高木が、徐に口を開く。
「確かに、今までと同じナイフのようだな。黒い柄の、量販店によくあるタイプだ」
「ええ、そうなんです。しかも、ナイフの刺さった位置が前の二件と同じ、うなじ真下の背中ですね」
「ふーむ……。玄関の鍵はかかっていたのか?」
「ええ。ただ、台所横の小窓、ここはかかってませんでした。それも、今までと共通しています」
「なるほどな。同一犯、同一手法の可能性が高いな」
――そうなのだ。
このところ連続して起きている、ナイフによる殺人事件。
襲われたのは、いずれも20代の若い女性だった。
しかも、その現場がすべて彼女たちの自宅。共通しているのは、いずれも同じような造りのアパートで、玄関の鍵は閉まっていたものの、廊下などから部屋の中を見通せるキッチン横の小窓の鍵が、かかっていなかった。
共通項は、そればかりでない。
いつも、同じタイプのナイフが、同じ箇所――うなじのすぐ下の背中部分――に突き刺さっている。犯行時間が、真夜中の時間帯であることも、共通項のひとつだった。
当然ながら、ナイフから指紋は検出されていない。
犯行に使われたナイフはいずれも汎用なもので、巷に普通に流通しているものだった。捜査では、その出所から犯人を追おうとしたものの、あまりにも普通過ぎて、犯人を絞ることに至らなかった。
「犯人は、背を向けた被害者に向かって小窓からナイフを投げ、それを背中に刺していることは間違いないな」
「ええ」
「一体、犯人の目的は何なんだ? 理解に苦しむ」
「被害者の間に、顔見知りとかの共通事項は、今のところ見つかっておりません。ということは……」
「恨み辛みではない……愉快犯ということか」
「ええ。僕も、そう思います」
救急車に載せられるため、担架に乗り白い布を被った、冷たい体の被害者。
高木は、悲痛な面持ちで彼女を見送った。
☆
「だから、私は知らないって云ってるでしょう? 私がナイフのコレクターだからといって、それが犯行の証拠になる訳なんてないじゃない!」
三件目の殺人事件の、三日後。
場所は、本庁の取調室だった。
鉄製のありきたりな事務机を右手で叩いた齢30の女――成川久子――が、その鋭い切れ長の目で、正面で対峙する佐藤刑事を睨みつけた。机の上には、証拠となる凶器――黒い柄のナイフ――の入ったビニール袋が置かれている。
時刻は、やや薄暗くなりかけた夕方少し前の、16時。
室内が険悪なムードになりかけたそのときに、壁際で佐藤と成川のやりとりを黙って聞いていた高木が、二人の話に割って入ったのだ。
「いや、そのとおりです、成川さん。これは、形式的なものでしてね……。では、最後にひとつだけ。三日前の晩、あなたが何をしていたか、詳しく教えてくれますか?」
――今回の事件の周辺聞き込みで、ナイフ集めを趣味にしている彼女が捜査線上に浮上したのは、昨日のことだった。
だが、その線は最初からかなり細いものと云えた。
近所から変人扱いされるくらいのナイフ好きな彼女ではあっても、考えられる動機としては「その切れ味を楽しみたかった」とか「ナイフが実際に人に刺さるのを見たかった」いうことぐらい。
それが、目前の彼女の動機となるのには無理がある――
「何それ? アリバイってこと? そんなもの無いわよ。一人で、部屋に居ただけ」
「そうですか……。それでは無実である、という証明もできない訳ですね」
「だから、それこそ言いがかりよ! そんな夜中のアリバイなんて、あるほうが変じゃない」
興奮した彼女が手を振り上げ、机上の物品をなぎ倒した。
証拠のナイフが入ったビニル袋とお茶の残った湯呑が、床にぶちまけられる。
「わあ、危ないですよ、成川さん。手を切りませんでした? だから形式的なものだと云ってるじゃないですか……。佐藤君、掃除のおばちゃん、たぶんその辺で作業しているはずだから、ちょっと呼んできてくれるか?」
「わかりました、主任」
「で、まだ取り調べは続くのかしら?」
「あ、いえ、とりあえず今日はこれまでということで。また、足をお運びいただくかもしれませんが、そのときはどうぞよろしく」
「ふん……もう勘弁してもらいたいもんだわ」
ふてぶてしい笑みを浮かべながら成川が部屋を出ていくと、それと入れ替わるようにして、佐藤刑事が50代くらいの女性清掃員を連れて、入室した。
頬かむりと口に当てた大きなマスクで、その表情は良く見えないが――
「ああ、おばちゃん。すんませんけど、ここ掃除してしておいてくれます?」
「……はい」
高木から「おばちゃん」と呼ばれたその不愛想な女は、すぐさま濡れた床をモップで拭きだした。
床に落ちたビニール袋を拾い、かたん、という音ともに、高木が乱暴に机の上に載せる。
と、そのときの衝撃でナイフの黒い柄が外れ、その中から、一枚の小さな紙切れが飛び出した。袋の中なので見えづらいが、そこには小さな手書き文字で『桜木美佐子』と書かれている。
「ん? 何だ、この紙? 文字が書いてあるみたいだな。最近、ちょっと近くが見えなくて……。うーん、人の名前っぽいけど、自分の名前を書いて中に入れておく犯人もいないだろうし、製造過程の検査者の名前とかかな……。うわっ、それより証拠品壊してしまったかも! やべえ、やべえ」
慌てる、高木。
それを見た清掃員が、気を利かせる。
「それ、私がきちんとはめ直して、袋も綺麗に拭いときますね」
「ああ、そうですか? じゃあ、お願いしちゃおうかな」
「はい……」
清掃員は、びしゃびしゃに濡れてしまったビニール袋を軽く雑巾で拭くと、中からナイフを取り出して紙を柄の空洞に入れ直し、手際よく柄を元の形に戻した。そして、抱え込むようにしてビニールの汚れを丁寧に拭き、ナイフ入りのビニール袋を、高木の目の前の机上に置いた。
「おばちゃん、ありがとう。佐藤、このブツ、倉庫にしまっておいてくれ」
「了解です」
佐藤刑事が、ビニール袋とともに部屋を出る。
清掃員は、黙々とモップを動かして、床掃除を続ける。
高木警部補は、椅子にだらりと座って、愚痴をこぼし始める。
「いやあ、今度の事件はさっぱりわからんな。何が目的で、犯人は人を殺め続けるのか……。被害者達は若い女という以外、何の共通点もないし……。なあ、おばちゃん教えて! 何でだと思う?」
おばちゃんのモップを持つ手が、ぴたりと止まる。
その視線は、床を見つめたままだ。
「さあ……。おばちゃんには、そんな難しいこと、さっぱりわかりませんよ」
「そりゃ、そうですよね。すんません、愚痴を聴いてもらって」
「いいえ……。こんな素人のおばちゃんでもよければ、いつでも話しかけてくださいな」
その女性清掃員は、「桜木」と書かれたネームプレートを胸元で揺らしながら、盛大に溜息を吐き続ける高木を置き去りにして、取調室から出て行った。
☆
もはや終電も終わり、深夜の時間帯。
JRの最寄駅から歩いて15分――そんな住宅街にある古めの木造アパートの一室は、まだ明かりが灯されていた。
玄関先の表札には、「桜木」と記されている。
部屋の中に居たのは、一人の女性だった。
昼間、警視庁の建物で清掃員として働いていた、あの女性だ。
風呂上がりらしく、ピンクのバスタオルを体に巻き付け、顔には美容のためのパックが貼られた状態で洗面台の前に立っていた。
よく見ると、その手足の肌はキラキラと輝くほどに潤っており、美しい。
御歳54歳とはとても思えない、キメの細かさである。
「今日は、ちょっとびっくりしたわね。まさか、取調室でナイフの柄が取れるなんて……。でも、いつもなら掃除作業中に倉庫にある本物を適当な血を付けた量販店のナイフとこっそり入れ替えるのに、あの場で入れ替えられたから手間が省けたけど……。我ながら、良いフォローだったわ」
にたりと笑いながら、ぺろりと白い皮のようなパックを顔から剥がす。
そこにあったのは、どう見ても20代前半の美しさを保った、女性の容姿だった。
「うん。今日の獲物も、役立ったみたいね。昨日より、肌が綺麗になってる……。彼女の命――生気――がきちんと私に分け与えられてるわ。このままいけば、どんどん若返って、不老不死も夢じゃないわね」
女はバスローブに着替えると、「今度の休み、どこに行こうかしら」と呟きながら、洋服ダンスにあるミニスカートやフリル付きのブラウスを、鼻唄混じりで物色し始めた。
― Fin ―
お読みいただき、ありがとうございました。
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