9話 響都へ その6
ブォオオオオオオオオオオオオオ――――ッ
汽笛が一際大きく鳴った。
特にすることもなく、ただ外を見ていたエマにもそれが何の合図なのかはすぐに分かった。
汽車は大きなカーブに差し掛かった。そして、開いた窓に強い風が入り込んでくる。どこか生臭いような、かといって生き物の匂いでもなくゴミや人の作り出す匂いでもない。大きく息を吸い込んだエマの体の中を、隅々まで満たしていくような、温かみさもあって、思わずエマは叫んでしまう。
「海だ――――っ」
大きく広がった視線の先には、一面の青い世界。彼方まで何の遮るものもなく続く、続いていく、当たり前にあって、けれども初めて見る人にとっては、ありえない風景。
「すごい! すごい! すご―――いっ! 」
「記者ならもう少し言葉を選べ」
一面の海を見ても全く感動の色のないテオドールが、ちくりと言葉の棘をご丁寧にも差し出した。
「でもでもでも、本当にすごい時って」
エマは気にせず満面の笑みで振り返る。
「すごいって言葉しか出ないんですよ」
「……」
テオドールはそのあまりにもまっすぐな目に、毒気を抜かれてしまう。
「私、海初めてなんです。話には聞いたこともあったし、絵とか写真では見たことありましたけど、でもやっぱり実際に見ると、こう、なんか、ぶわーって」
「ぶわー? 」
「ぶわーって、海が、海が……何だか体にぶつかって、飛び跳ねて、押し流していくような感じがします。もちろん、見てるだけ……なんですけどね」
「俺にはよくわからんな」
「えええー。もったいない」
「何がだよ」
「感動できないなんて、ってことです。こんなに素晴らしい景色に驚きも、心動かされもしないなん……て? 」
興奮気味に言葉を吐き出していたエマの口が、途中で止まる。テオドールの瞳に、複雑な感情が渦まいているのが分かったからだ。悲しみでも、苦しみでも、怒りでも、絶望でも、諦めでもなく、けれども見ようによってはそのどれにでも見えたし、まばたきする間際には、楽しさや嬉しさ、興奮さえよぎる。
けれど、その全ての思いは、まるでひとつの器の上に乗っているオードブルのようで。
「テオドールさんは、海辺の街の生まれなんですか」
「生まれ……そうだな。確かに俺は海の近くで生まれた」
その器の名を、懐かしさ、という。
「その、なんかはしゃいですみませんでした。もったいない、って言ったのも」
「謝らなくていい。感動したのは事実なんだろ。俺ができなかったからって、お前まで気にする必要はない」
そういう彼の目は、どこかここではない、はるかはるか遠いところを見ているようだった。
エマには知ることのない、何か。何を考えているんですか、そう聞いたって、きっと答えてはくれない。
記憶の中の景色を、きっとテオドールは今、なぞっている。同じ場所にいて、同じものを見ていても、二人が見えているものはぜんぜん違う。そんな当たり前のことに気が付かなかったわけではない。ただ、テオドールがそんな風に無防備な表情でいるのは、エマにとっては妙に居心地が悪かった。
「どうした」
黙り込んだエマに、テオドールが声をかけた。
エマは、自分が普段どんな顔をしていたのかわからなくなって、とりあえず、こくりと頷く。
「なんだそんな神妙な顔をして。お前らしくないな」
だって、それはテオドールさんがいつもと違う顔をしてるから、なんてエマは思っても言えない。だから、唇を尖らせて不満を表明する。
「私らしいって、どんなんですか」
「それ、その顔。何考えてるのかわかりやすい、ってのがいつものお前だよ」
テオドールが少し馬鹿にしたように言う。それでようやく、エマも本調子に戻ることができた。
「ふん。そもそもそんなに私のこと知らないですよね、テオドールさん」
戻ったらやることは一つ。応戦だ。見てはいけないようなテオドールの素顔を覗いてしまった気恥ずかしさも手伝って、エマも普段なら言わない不満を無意識にぶつけていた。
「入社してもう半年ですよ? なのに、全ッ然仕事教えてくれないし、ご飯とかも誘ってくれないし。あー、この人って、冷たい人なのかなぁ、でも、せっかく同じ部署だから仲良くなりたいなぁ、……もしかして私嫌われているのかなぁって私結構悩んでたんですよ? 」
「……そ、そうなのか」
「まったく……。後輩の面倒を見るのも、先輩のつとめだと、私は思いますけどね!? 」
「悪かった」
「いいんです、いいんですよ。反省なんてしなくて」
エマは語気を強めて言うが、テオドールはそれに気づかず、
「そうか? なら良かった。後輩とか部下ってのはあんまり好きじゃないんだ。お前がそう言ってくれると、俺は助かるよ」
ホッとした表情で、背もたれにもたれ直した。
えええー、それ言われたら私どうしたらいいんですか、と内心でエマは思う。思う、のだが、テオドールはもうこれで万事解決した、と満足気な表情だから、エマは呆れ半分諦め半分の気持ちになって口をつぐんだ。
海沿いの景色は延々と続いていく。響都は、ロア大陸の西に伸びる半島の先端の方にある。目的地はもうすぐそこ、ということだ。
車内は再び慣れ親しんだ沈黙に戻った。
テオドールは外を見ながら物思いに沈んでいる。しかも、さっきよりも深く沈んでいるようだった。だから、エマが
「響都楽しみだなぁ、テオドールさんって何回か来たことあるんでしたっけ?」
とか、
「海って舐めたらしょっぱいって、本当なんですか? 」
と、話しかけても返事すらしない有様だった。
日が少し傾き始め、時刻は4時を過ぎた頃汽車は海沿いの景色を離れ、半島の内陸へと進路を取った。響都はもうすぐだ。
「そろそろ着く。降りる準備をしておけ」
思い出したようにテオドールが声をかけた。
「……」
しかし、エマは何の返事もしない。当たり前だ。だがテオドールは何か変だな、とは思っても自分がエマを無視していたことにまで考えが至らない。
「なんだ? 」
「……」
「……」
「……はぁ」
溜息をつくエマ。
テオドールの頭上にクエスチョンマークが浮かんでるのがありありとわかった。
まったく、全然わかっていない。だから、仕方なく言葉にする。
「……てください」
「……え?」
「だから……反省!して!くだ!さい!」
汽車は減速を始め、エマは荷物を背負って客室を出た。
別に、かまってほしいというわけではない……と思う。私だってもう大人だ。子供みたいに、そんなことですねているわけではない。けれど、傷を負っていることを隠しきれず顔に出してしまっているのなら、それが気になってしまうのはあたりまえだ。
なのに、気遣って話しかけたのをことごとく無視するってのは、ちょっとひどいんじゃないか、と思う。
そこまで考えて、あれ、やっぱり子供っぽいな、とエマは気づくのだがそれはそれ。今更腹の中にあるもやもやは収まらない。
廊下に出たエマは、降車ドアの前に立って、汽車がホームに停車するのを待つことにした。
だが、それはテオドールから離れたかったから、というよりも、案外子供っぽい感情に振り回されていた自分が気恥ずかしくなって、同じ客室にいるのが嫌だったからだ。
しかし、客室に残されたテオドールがそんな揺れ動くエマの心に気づくはずもなく。
(なんなんだよ……)
と、心の中で嘆息しながらもエマの機嫌を直すために奮闘するのは、また別のお話。
すいません、次こそ響都に到着します