8話 響都へ その5
「で、食堂車に来ましたよ、と」
テオドオールに促されて、エマはインタビューをするために食堂車までやってきた。人数はまばらだ。まだ朝早いかららしい。
そこでエマはどうすることもできずに固まってしまった。胸によぎるのは、テオドールがエマに言い聞かせたルールだ。
「なんで記者だって言っちゃ駄目なんですか」
「どんなやつがいるかわからないだろ」
「じゃぁ、取材だなんてあかせないじゃないですか」
「そりゃ簡単だ。明かさなければいい」
「えー……」
「取材だとは言わずに、ただ一般人のふりをして声をかけて話を聞く……それで、もしも使えそうな話があったら、記事にしてもいいか交渉する。」
「なんかずるくないですか」
「スクープってのは案外そういうところに転がってるもんなんだよ」
テオドールは全く気にする様子もないが、エマにはなんというか、だましているような気持ちがしないでもなかった。しかしまぁ、それはそれだ。インタビュー経験が無いのは事実だし、練習と思えば、いい機会でもある。
「でも、全然乗客がいないですけど」
「そんなこともないだろ。ほら、あそこに一人で飯を食ってるやつがいるじゃないか」
テオドールが指差す先には、一人でカウター席に座っている男の姿があった。茶髪で、肌は帝都ではあまり見かけない北部の人たち特有の透き通るような白さである。俯いていて良くは見えないが、顔立ちはまだ青年の域にあるように思えた。
「とりあえず、何か聞いてこい」
「何かってなんですか」
「何かってのは何かなんだよ。っていうか、なんでも良いんだ。例えば、どっから乗ってきて、どこに行くんですか、とかな」
さあ行って来いとテオドールは涼し気な顔でエマを送り出した。自分は少し離れた席に座り、エマを時々見ながらも、メニュー表に目を落している。
我関せず、というふうである。
当のエマといえば、しかし一歩踏み出したはいいものの、足がすくんでしまって青年の所まで進めない。見知らぬ人に、何の理由もなく声をかける、というのがこんなに恐怖心を呼び起こすものだとは思わなかった。
恐怖心。しかし、それは一体何なのだろう。うまく声を掛けられないかもしれない、ということにおびえているのか。それとも、無視されることが怖いのか。見当外れなことをいって、恥をかくのだって、エマは嫌だ。
けれど、嫌だ嫌だ、と言っていたって仕方がないのだ。ふと、マリアンヌの声が頭をよぎる。
一面をかっさらう。その為には、こんなところで立ち止まっているわけには行かない。スクープを取ることは、きっとこの数倍、数十倍、数百倍は大変なことなのだ。
エマは思い出す。ただ毎日、送られてきた死亡記事に目を通して、名前と住所を書くだけだったこの半年間の日々を。いくら書いても、誰が読んでいるのかもわからない記事を書き続けたことを。誰かが生まれた、という記事を書くときは嬉しくもあった。けれども、そこに結局エマ自身は何も関わっていないのだ、と気づいてからは虚しいだけだった。
震える足に手をやって押さえ込み、エマは顔をあげる。もしかしたら表情は硬いかもしれない。かける声は上ずるかもしれない。
だが、それが何だというのだ。そんなのは、これから先に自分が求めていく全てのものの、一番最初の入り口に立つための最初の最初の……それどころかきっと、その扉のドアノブに手をかけるということすら怖がっていると同じだ。
ふん、とテオドールはその横顔を見ながら少し表情を和ませた。最初、インタビューをしたことがない、と言っていたから心配したものだったが、これなら大丈夫そうである。
エマはもう下をむかない。青年の隣に座り、たったひとうの言葉を勇気をふりしぼって投げかける。
「おはようございます」
青年は、声をかけられてやっと隣に人が座ったことに気がついたようで、エマに怪訝な視線を向けた。
「あの」
「今度は何ですか」
エマが次の言葉を探していると、その青年は鋭い言葉でエマを突き刺した。
予想外の反応に、エマはたじろぐ。
「す、すみません」
そして、慌てて席を立ち上がり、あわわわわ、とテオドールに助けを求めて視線を送る。そのときにはもうテオドールは立ち上がって、エマの傍に立っていた。
「すみません、連れが失礼を」
「いや……その。大丈夫です」
青年もまた、自分が思ったよりも鋭い声を出していたことに気がついたようだった。その瞳の中に、テオドールは怒りではなく、怯えの色を見て取った。
こういうときどうすればいいのか、テオドールは心得ている。まず第一に、相手の中にある恐怖心には触れない。気が付かなかったことにするのだ。人はみな、自分の中にある感情を利用されるのが怖い。こちらが気づいたことがわかれば、相手は心の壁を厚くして、中に入るのは一層難しくなる。
それから、自分と相手の間に、同じ立場だという認識を作る。
「こいつ、これが初めての列車旅で、いろいろ珍しいんですよ。食堂車も初めてで、今から注文しようと思っていたんですが、他の人が何を食べているのか見たいって言い出して。な」
テオドールがよどみ無く、矛盾のない説明をおこなう。エマを「困ったちゃん」、ということにしてテオドールと男は逆に「困らされている人」という仲間意識を作りだす。
狙い通り、男の表情がゆるんだ。
「僕も初めてなんですよ」
ラッキーだ。旅慣れていないならば不安に違いない。そこに、同じく旅慣れていない旅行者二人、となれば打ち解ける土台は最初から出来上がっている。
テオドールはさり気なく彼の向かいに座った。
「私はテオドール。こいつはエマだ」
「こいつって言わないでくださいよ」
「僕はフランツと言います。エマさん、さっきはすいません。ちょっと気が立っていて」
「いい、いい。どうせこいつはすぐに忘れるからな」
テオドールが笑いながら言う隣で、エマはぷぅ、と頬をふくらませる。
「仲がいいんですね」
「さぁ、それはどうだろうな。まぁ俺はいい兄だと思うよ。なぁ、エマ」
「兄? 誰が?」
そんなエマの足を、テオドールはかかとで軽く踏む。話を合わせろ、という合図だ。
「いや、ほんと、いい兄妹ですね」
フランツにはしかし、その二人のやり取りが、兄妹がじゃれ合っているように見えたらしい。好都合だ。
「どちらから来られたんですか」
エマが尋ねる。
フランツは一瞬沈黙した。テオドールはピンとくる。ああ、この後に出てくる言葉は確実に嘘だ。
「北の方から」
「へぇ、北の方はまだ行ったことないんです。行ってみたいなぁ」
テオドールのかかとが再度エマの足にめりこむ。何か、と思ってテオドールを見ると、目が険しい。少し黙ってろ、ということらしい。
「ところで、お二人は」
「私達は帝都の方から」
「そうなんですか。ってことは、もしかして響都まで?」
「ええ。レクイエムを見に」
「ああ。やっぱり。いや、僕もそうなんです。響都で過ごす予定で……まぁレクイエムとは全然関係無いんですけど、いや少しはあるのかな」
「じゃぁ、あちらでお会いすることもあるかもしれませんね」
「あはは。多分それは無いでしょう。でも、会えたらいいですね」
テオドールの勘に、その言葉は引っかかった。何が、とは言えない漠然とした感覚だが、テオドールはそれを信じている。勘というのは、これまでの経験が下す、無意識の直感ということだから、案外馬鹿にはできない。
「それでは、また。エマ、俺達も朝飯だ」
「はい……テオ……お兄ちゃん」
エマが言い直す。テオドールは何も気にしない素振りで、少し離れた席に戻った。
「あの」
エマはその背中を見送りながらも、再びフランツに声をかけた。
「はい」
「ところで、なんですけれど、その朝ごはんはなんでしたか?」
机の上にはお皿が一つ乗っていた。エマはそれが何だったのか聞いているのだ。
「トーストとベーコンエッグですよ。味はなかなかのものでした」
「おいしそう! それを注文してみます、ありがとうございました」
ひょこり、と頭を下げて、テオドールの元へと歩いて行く。
フランツは、よほどエマが食い意地が張っていると思ったに違いない。だがエマはそんなことどうでも良かった。色々途中あったけれど、とにかくインタビューできたのだ。それだけでもう、胸がいっぱいだった。
次からはいよいよ響都です。