5話 響都へ その2
汽車は帝都を後にして、ひたすら西へ西へと突き進んだ。途中、幾つかの街に止まり、また走り出す。乗客たちは入れ替わったりしながら、増減を繰り返した。
帝都はロア帝国の東の端にある。だが、帝国自体がロア大陸の西側にあるため、帝都が東にあるとは言っても、大陸全土から見れば中央に位置している。東側には、ロア民族が築いた別の国があり、両国は幾度かの戦争を繰り返しながら、現在は良好な関係を保っていた。
テオドールとエマが目指す響都リンドーアは、それとは逆の方向、ロア帝国の西端にある。つまり、帝国の東端から、西端に向かってひた走る、ということだ。
〈帝国横断鉄道〉。それが二人が乗る路線の名称だった。
「随分暗くなってきましたね」
「時計、持ってるか」
「7時くらいです。……ていうか、テオドールさんは持ってないんですか」
「ああ、窮屈なのは苦手だ」
「……だからいつも遅刻ギリギリなんですね。始業のベルを聴いてから動くから」
「自分の机でタバコが吸えたら、外で吸う必要もねぇ。そしたら、遅刻もしないだろうよ」
「一応、マリアンヌさんに報告しておきます」
他愛ない会話が繰り広げられる。
だが、二人の視線はそれぞれ別な方向に向けられていた。
テオドールは手元の紙束に視線を落とし、エマは飽きることもなく、ずっと窓から外を眺めている。果物の汁は途中の駅で係員が拭いてくれたので、視界を遮るものは何もない。車窓は一時間前から中央平原ののっぺりとして退屈な景色を映し出していた。ただ、列車が時折カーブする際に、ちらりちらりと見事な夕焼けが平原のはるか彼方を赤く染めているのが見え、エマはその度に息を飲んだ。
帝都では見ることができない景色だ。どれだけ美しい夕焼けも、最後の最後には街壁に遮られてしまい、最後まで見ることはかなわないからだ。
列車は再び緩やかなカーブに差し掛かった。いくら平原とは言っても、谷や河もあれば、湖や丘も点在している。目的地ははるか西だが、そういうものを避ける為には時折進路を北や南に向けなければならないのだ。
車窓からは、今度は夕焼けと逆の方向が見えた。
夜に飲み込まれようとしている東の方角だ。空は赤から淡いグラデーションを経て濃紺へと変わっていく。星星はまだ見えないが、ポッカリと藍染の布に丸い穴を空けたような月が、天に昇る瞬間を今か今かと待ち望んでいるようだった。
夜風が入って冷えるから、と閉じた窓を、エマは再び開いて身を乗り出す。
「きれい……」
「寒ぃ」
「え、なんか言いました」
「寒いって言ってんだ」
「え、あ、すみません」
「さっさと閉めろ」
「はあい」
エマは渋々といった声で、しかしテオドールの指示に従う意を示す。
「ところで、テオドールさんはさっきから何読んでるんですか」
「お前も読むか」
テオドールが無造作に手に持っていた紙束を投げて寄越した。エマはそれを落とさないように慌てて受け止める。
「おっとっと。テ、テオドールさん! 物を投げてはいけない、って教わらなかったんですか」
「へぇ、俺が育ったところじゃ、投げる方は遠慮なしだ。落としたやつが不注意だって怒られてたもんだがな」
「それはなんとも、厳しい世界で。でも、女の子に優しくしろ、っていうのは万国共通のはずですよね」
「使えねぇ部下は厳しく躾けろ、ってのもあるぞ」
「むぅ……」
「俺と口喧嘩して勝てるのは、マリアンヌくらいだ。お前にゃ無理だ」
「そうですか~へぇ、マリアンヌさんには負けるんだ」
「んだ、その疑うような目は」
「別に、なんでもありません」
「お前が何を考えているのかはだいたい分かるが、馬鹿な邪推はほどほどにしとけよ」
「はぁい……でも、ほんとに邪推、なんですかねぇ」
「あ?」
テオドールが横目で睨んでくるのを無視して、エマはつかんだ紙束の表紙をめくる。
『陸軍辞令』という文字が最初に目に飛び込んできた。
「新聞の抜書き……?」
題字の下には、96年10月、と日付が書かれ、その下にびっしりと文字が並んでいる。内容は陸軍の人事についてのようだ。ぱっと目を通しても、一体それが何のことかエマにはよくわからなかった。
ページを捲ると、また同じように題字があり、文字列が続く。
『東方第二師団派兵』、『国境で小規模衝突』、『シナイゲート、宣戦布告』、『ソーバー砦陥落』。と、数枚めくったところでエマは手を止める。
「これって」
「戦時下の新聞の抜粋だ」
「でも、……日付は96年からです。開戦はえっと」
「92年」
「そう、92年……。なぜ、こんな中途半端な時期のものを?」
それに、エマが気になったのはそれだけではない。紙の左下に通し番号のようなものが振られているのだが、それが全て飛び飛びになっているのだ。まるで、たくさんある束の中から、必要なものだけを抜き出してきたかのように。
「開戦は92年。間違いじゃない。だが、あくまでもそれは北渦海戦争の、であってロア帝国が参戦したのは翌93年。そして、96年は」
エマは再び紙をめくった。『シナイゲート、宣戦布告』の記事が書かれたページを開く。
「シナイゲートが参戦した年」
「そうだ。北渦海戦争に注力していた帝国は、シナイゲートとの国境付近の軍を北渦海へと派兵した。その間隙を突いてシナイゲートは国境を攻撃、そのまま南下し、幾つもの都市を占拠していった。そして、最後には帝都からそう遠くないソーバー砦を落とした」
テオドールは言いながら、ページを捲っていく。
「そして、ヴォルフガングの英雄譚、はここから始まる」
『ソーバー砦陥落』、の次のページ。題字は『一転攻勢』。ソーバー砦を占拠したシナイゲート軍と、帝国軍の戦闘の記事である。
しかし、そこからの帝国軍の攻勢は凄まじいの一言だった。次のページは『ソーバー奪還』、『都市解放』、『快進撃』、『国境奪還』、と記事は続いていく。
シナイゲート軍の支配は易易と引き剥がされていったのだ。日数にして、たったの5日である。
「すごい。シナイゲート軍はあっという間に蹴散らされちゃいましたね」
エマが感嘆の声を上げる。
テオドールはしかし、黙ってページを捲った。
『ヴォルフガング氏、叙勲』
そこで初めて、エマは気づく。この快進撃こそがヴォルフガングの英雄譚であるということを。つま
り、この紙束は彼の功績についての記事を抜書きしたものなのだ。ただし、最初の一枚、『陸軍辞令』だけは異なるようだったが。
エマが理解したのを見て取って、テオドールは尋ねる。
「お前はヴォルフガングについて、どこまで知ってる? 」
「えっと、彼は普通の国民で、一応音楽家の才能があった。というのと、彼が奏でる帝国の意を発揚する軍歌は兵士たちの心を奮い立たせ、帝国軍は勇猛果敢に敵をなぎ倒していった……っていうくらいです」
「そう、それが巷で話されている彼の英雄譚だ」
「話されているってもんじゃないですよ。今はもう、絵本にまでなってます。すごいですよ、彼の熱い思いが歌に乗って、兵士たちの怯えた心を解きほぐしていくんです。胸が熱くなりますよ! テオドールさんみたいな冷たい人にもおすすめです」
「……読んだのか」
「え、いやいやいや、読んでないですよ!? あくまでも、そういう話だって、聞いただけで」
「まぁいい……話を戻そう」
「それで、それがどうしたんですか? 今のが彼の記事だ、と言うのはわかりましたけど」
「……お前はおかしい、と思わないか?」
「おかしい、て何がですか?」
「だから、ただの一般人の音楽を聞いただけで、本当に兵士達の怯えが癒やされると思うか? しかも彼はそれ以前無名だったんだ。それだけの素晴らしい演奏をする音楽家が、ぽっと現れる、というのは……俺にはすこしおかしいように思える」
「そうですか? 急に音楽の神様が降りてくる、とかいうのも、あったりするかも」
「音楽の神様か……」
「なんです? 」
「いや……まぁいい。あと、それ返してくれるか」
「え、あ、はい」
「もう少し考えてみたい」
テオドールは再び紙束を手に取ると、食い入るように見つめては、こめかみに手をやって考え始めた。
エマも、今彼に尋ねられたことについて、思考を巡らせてみる。
確かにテオドールの言うことにも一理はある。突然現れ、英雄になる、というのは疑いの目を持って見れば、疑問が湧いてくるのも当然と言えば当然だ。
だが、とエマは逆に考えてみる。だからこそ、英雄は英雄たりえるのではないのか、と。コツコツと実績を残し、着実に階級を上っていく。そうして英雄と呼ばれるようになる人間もいるだろう。だが、平時ではパッとしなくても、乱世になれば頭角を現し、大活躍する人間がいたって不思議ではない。
ヴォルフガングがそういう人間である、というのはそれほど間違った考えではないように思えた。
列車の外は、もう完全に夜の帳が降りていた。月は地平線から少し離れた位置に浮かび、夜空には瞬く星が散らされ、この世界を照らしている。
「間もなく、中央ターミナルです。お乗り換えの方は、お間違えのないようお気をつけください」
車掌が通路を通り過ぎながら、声を掛けていく。中央ターミナルは、横断鉄道と、南北を繋ぐ縦断鉄道の交差する駅だ。エマとテオドールには関係がないが、多くの乗客が降り、それ以上にたくさんの人々が乗車してきた。
列車はしばらく停車し、エマとテオドールは椅子を変形させて寝台に変える。だが、そうしてからも、テオドールは無言で考えに沈んでいた。エマはその邪魔をしないように、自分の寝台に潜り込んだ。
眠れるだろうか、とエマは自問自答する。
寝れるはずがない。だって、初めての寝台列車なのだ。列車が走り出したら、きっと揺れで目が覚めてしまうだろう。それに、テオドールが隣で寝ている、というのも変な感じだ。緊張してしまう。いやいや、別に何かされるとか、思っているわけではないんだけども……。それにしても、テオドールさんは何故あそこまで引っかかっているんだろう……まぁいいや、後でまた聞いてみよう……。……。…………。
ガタン、と列車が揺れ、汽車は再び走り始めた。
エマの予想は外れ、彼女がその揺れで目が覚めることはなかった。
そうして、寝台特急の夜は更けてゆく。テオドールとエマを乗せて……。