4話 響都へ その1
☆
汽車が鼓動のように機関に鞭打って走っている。
軌条に噛みつき、石炭を噛み砕き、歯車を鳴らして、煙を吐き出す。そしてただ終点に向かってひた走る。それは生きることと似ている。目的を定め、その日その日を明日に繋げるために、食らい、糧とし、そしてひた走る。後に残すものなど何もなく、そこにいたという証は、ただ煙のようで、消え去るのみだ。
だがしかし、異なる点もある。
生きることにレールはない。
自分がどこに進むのか、決める権利はその人、その生命それぞれにあるのだ。
僕は一体どうなるのだろう。
行き先を自身で決めて、彼は汽車に乗り旅に出た。迷いはない。しかし、恐怖は残る。自分がする気でいることは、正しいことなのだろうか、という恐怖。だが、ならば間違いとは何だ。自分の望みが間違いで、その逆が正しいことだとすれば、僕はどうするんだ。
きっと、僕は自分の望みを優先するだろう。たとえそれが間違いだとしても。
……なら、何を恐れる必要がある。
彼は、自分に言い聞かせようと必死だった。自分の望みを優先する、そう、何度も何度も繰り返し心に刻もうとしてきた。汽車の駅に来て、安くない切符を買った時でさえ、彼は喜びと後悔のはざまにあった。
ただ、手に握りしめた短い手紙だけを勇気の源にして、なんとかその一歩を踏み出すことができたのだ。たとえその手紙が地獄の招待状と分かっていても。
走る列車の車窓から見える景色は、かつての、あの遠い日に見た景色と重なる。あの時隣にいた人は、もういない。
フランツ・ヴォルフガングは、目深に帽子を被り、赤茶色の座席に身を預ける。地平線には、夕日が沈もうとしていた。
☆
「うわー、すげー、てか、なんでこんな鉄の塊が動くんですか? 魔法? 魔法なんですか? うわ、動いた。地響き、地響きが腹に来る、お、お、おおおお。走ってる! て、げほ、ごほ、煙い、てか臭い。なんか、燃えてる? 火事? え、ちょっと大丈夫なんですか……。うわぁ、すごい、ねぇねぇねぇ、速いですよ、速い、馬車なんかよりも全然速い、いやー、外から見たことはありましたけど、こんなに速いんですね。いや、外から見てても全然速かったですけど、ってねぇ、テオドールさん」
「うるせぇ」
「なんすか、なんなんですか、ちょっとは楽しいのを見せてくれたっていいんですよ、そんなムスッとした顔してないで。もったいないですよ、ほら、外見て。あ、あれ市場じゃないですか、あ、あっちの方角私のアパートです。おおお、王宮も見えますよ。帝新の本社も見えますかねぇ」
「だから、はしゃぎすぎだ」
「えー、はしゃいでるんじゃないです、いや、ちょっとははしゃいでますけど、でも、感動してるんです。やっぱりすごいですね、汽車は」
「もしかして、お前乗ったこと無かったのか」
「え、えええ? いや、そんな馬鹿な。私だって帝都市民ですよ、そりゃ田舎ものだったら分かりますけど、私だって帝都に出てきてかれこれ6年。乗ったことないわけないじゃ……」
「窓を閉めろ」
「え?」
「だから窓を閉めろ」
「えー、何でですか。折角いい風が吹いてるのに」
エマは口を尖らせて拒否。テオドールが呆れ顔で手を伸ばして窓を閉めた。
時刻は午後1時。エマとテオドールの二人は帝都発の列車に乗り、響都を目指す旅は始まりを告げた。とはいえ、列車旅である。よほどの事がない限り心配は無用だ。
「もうすぐ第3街区の外に出る」
「それがどうしたんですか」
「帝都の地区については知ってるな」
「もちろんです。もちろんです。三重円になっていて、内側の円から、政府と王宮のある一区、貴族の屋敷とビジネス街が占める二区、それ以外の市民の三区があります」
「その外は?」
「え?」
「街壁と堀じゃないですか」
「その外は?」
「その外って、あ……」
ほんの瞬間、車内が暗くなった。汽車が街壁を通過したのだ。
もう、帝都の外だ。
窓の外は、それまでの秩序だった街並みとは打って変わって、雑然とした建物と、人々と、家々の群れが所狭しと並んでいた。窓の外ギリギリを、屋根や、洗濯物を干す物干し竿が通り過ぎていく。人々も、列車が傍を通っていることなど気にする様子もなく、平然と歩いていた。
「スラムがあります」
エマがその景色を食い入るように見つめながらつぶやいた。その瞳には、なんとも言えない感情が宿っている。自分が住んでいた壁の、その一枚隔てた外側にこんな景色が広がっていた、なんて。エマは想像もしていなかった。
「汽車じゃないと、このあたりの風景は見れねぇ。市民が出入りする街道沿いは、憲兵が見張っているからスラムができねぇんだ。でも、こっちはスラムができた後に、無理やり線路を敷いたからな。いくら政府でも。周りの景色までは変えられなかったのさ」
帝都はロア帝国の中心都市であり、巨大な街でもある。800年にわたって続くロア王朝と、ロア帝国の政治の要を担う議会と政府の建物があり、さらに経済の中心地でもあって、ロア帝国の全てはここで決まるとっ言ってもいいくらいだ。
北部防衛都市セラン、南部貿易都市シャガ、火都エンスア、大樹都市ペレルゼン、そして、これから二人が向かう響都リンドーアなど、他にもいくつもの都市はあるが、やはり帝都ガーロンは別格である。
大都市になれば、各地から人々は自然と集まってくる。安全な場所を求めて、心おどる仕事を求めて、お金を稼ぐために、ただ何となく、など。その理由は様々だが、彼らの胸の中にあるのは曇りのない都会に憧れる気持ちだ。
今とは違う、こことは違う場所にいけば、何かが変わるだろう、という希望。
しかしその期待は裏切られる。
帝都はすでに人口が溢れかえっているのだ。しかも、都市が街壁で囲まれているため拡張することは難しい。ロア帝国の果てからやってきた人々のほとんどは、帝都内にすら入れなかった。そして、仕方なくそこにスラムを何代も何代もに渡って、築いていったのだ。
「すごい……」
エマが感嘆の息を漏らした。
熱気と活気。人々のエネルギーが何の制御もうけることなく、無制動に広がってできた景色だ。芸術品や絵画とは違う、もっと粗野で暴力的な美しさがあった。
思わず、エマは窓枠に手をやっていた。そして開けようと力を込めたところで、
バンッ
いきなり、何かが窓にぶつかった。
それはガラスの表面で破裂し、赤い汁を窓一面にぶちまけた。
「キャッ」
「落ち着け。大丈夫だ」
「今のって」
「多分、果物か何かだろう」
エマが恐る恐る過ぎていく景色に目を凝らすと、まだ小さな少年が突っ立っているのが見えた。その目は、エマをまるで親の仇でも見るように睨んでいた。
「なんで……」
「さぁな。わからねぇ。自分らの土地を荒らされるのが嫌なのか、金持ちが嫌いなのか、この列車に家族でも轢き殺されたのか」
「……」
「分かったら、スラムを越すまでは窓を閉めておけよ。ものの4、5分だから」
テオドールに言われるまでもなく、エマはもう窓枠から手を離していた。しかし、それでも窓から離れることはなく、スラムの姿を目に焼き付けんばかりにみつめていた。
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