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21話 宿屋にて フランツ

 

 今日も、行けなかった。

 フランツは宿のベッドに戻り、天井を見上げた。木製の梁が一本通っている。小さなランタンがその下に吊り下げられ、開いた窓から入ってくる初夏の風に揺れていた。


 時刻は、もう11時を過ぎている。

 窓の向こうには、街の明かりを吸い込んだかのように、大聖塔が薄ぼんやりと光っていた。

 フランツがずっと握りしめていた手紙は、今はサイドボードの上に広げられている。


 フランツ・ヴォルフガング殿。そんな書き出しで始まる文章は、その下に数行続いて終わっている。差出人の名前もない。だが、誰が送ってきたのか、その心当たりは十分すぎるほどにあった。


 大佐。父がそう読んでいた男だ。でなければ、こんな手紙を送ってこれるはずがない。母の本当の名を知っているのは、あの男だけなのだから。フランツは列車の食堂車で出会った男を思い出そうと努める。顔は思い出せないが、無機質な声だけが鼓膜に残っている。フランツのイメージの中で、その声が手紙を読み上げる。


『フランツ・ヴォルフガング殿

 初夏の日差し眩しく、緑青々と茂る頃いかがお過ごしだろう。

 ミイヅが貴殿を待っている

 レクイエムの夜、響都にて』


 何故、今。


 その手紙を受け取った時、フランツはそう思わずにはいられなかった。

 母のことを忘れたことはない。その風貌、信じられないほど青い、透き通るような細い髪。ひっそりと咲く花のような、どこか懐かしさを覚える香り。


 そして、歌声。


 聞けば、誰もがもう一度聞きたくなる。心を虜にして離さず、母が叫べば聞くものの涙を誘い、優しく歌えば故郷の街並みや、幼き頃の記憶が蘇り、聞く者の心を優しく包んだ。父の演奏と共に奏でられたとき、その響きは魂を揺さぶり、振り回し、どんな絶望も希望に変えた。


 だからこそ、何故。


 フランツには分からなかった。母の役割はもう終わったはずなのだ。だから父の元を去ったのではないか。ミイヅが去ってからの父は悲惨だった。英雄と呼ばれる過去はどこまでも彼をつけ回し、追い詰めた。彼一人の力ではなかったのだ。母がいて、その歌声があってこそ、人々の心を揺り動かすことができたのだ。否、それは欺瞞だ。フランツも本当は分かっていたし、父がそのことに気が付いていないはずはない。


 英雄は、ヴォルフガングではないのだ。ミイヅの歌声こそが、父を英雄にしたのだ。彼女が去った後の父は、ただの流しの音楽家でしかなかったのだ。

 そんな父ももういない。戦後まもなく死んだ。英雄の死。人々は悼み、悲しみ、涙するはずだった。葬儀はしかし、ひっそりと行われ、彼の死はあまり公にはなっていない。ヴォルフガングはまだ生きていて、どこかで音楽を奏で続けている、と人々はそう思っているだろう。

 それも、父の望みだった。自分が英雄として葬られることを望まず、ただの旅人の一人として死ぬことを望んだ。それはフランツの手で叶えられ、彼の眠る墓地は彼しか知らない、はずだった。


 しかし、そうではないとしたら。

 手紙が送られてきたとき、フランツは初めてその可能性に思い至った。

 

 そもそもおかしいのだ。なぜ、フランツ宛なのか。もしもミイヅに会いたい者がいるとすれば、それはフランツよりもまず、父、モザルト・ヴォルフガングのはずなのだ。だが、そうではなかった。


 だからこそ、フランツは母に会おうと決意した。そして、この街を訪れた。

 聞きたいのだ。


 何故父から去ったのか。


 何故自分から去ったのか。


 そして、父の死の真相を。

 不審な点があるのだ。父が命よりも大切にしていたチェロが、父の死の後、行方不明となっていたのだ。


「だというのに、怖い」


 フランツはのどに絡みつく乾いた唾液を飲み干す。会うのが怖い。もしも、自分が愛されていなかったのだとしたら、その真実を知ってしまったとき、自分はどうなってしまうのだろう。母のあの優しい笑顔を、あの柔らかな肌のぬくもりを、そのすべてを疑わなければならないのなら、いっそのこと知らないままのほうがよかったのではないか。


 ミイヅは死んだ。いなくなったのではなく、置いていかれたのでもなく、ただ死んだ。そう思っていれば、こんな不安を抱かなくても済んだのに。母が待っていると聞いた時、フランツが思ったのはそんな悲しく、虚しい思いだけだ。


 そして、父の死の真相。抗いようのない大きな運命を、そこにフランツは感じている。そして、父の死がもし仕組まれたものであったなら、フランツもまたその運命にとらわれているような気がしてならないのだ。


 知らなければならない。知りたい。しかし、同時に知ることの恐怖が背中を這いずり回っている。


「明日こそ、は……」

 意識が少しずつ混濁してきた。

 街角からは、いまだに音楽の音色が聞こえてくる。


 聞き覚えなどない曲なのに、どこか懐かしく思えるのは、それがチェロの演奏だからだろうか。夜の響都はそんな音の波にたゆたう船のようだ。その船底に、フランツは横たわっている。揺れる、揺れる。夢とも記憶ともつかぬ映像が、瞼のうらへと忍び込み、彼を眠りの波止場へと導いていった。



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