2話 おはようございます
「おはようございまーっす」
木製の重厚な扉を開けて、エマはその部屋へと入った。扉の上には木製のプレートが廊下に向かって「社会部別課」と、廊下に向かって主張している。だが、部屋の扉とは対象的に、薄くペラペラした板に、手書きで書かれたその文字を読取る人は、エマを置いて他にいない。何ていうことはない。この部屋が本館の北側に位置する旧館だからだ。
分厚い扉に合わない、ペラペラした表札も、もともと合った飾り板の上にはりつけたものだからだ。エマはちなみに、その表札の下に何があったのかは知らない。
今はまだ誰もいない部屋の中には、机が全部で5つ。そのうちの一つは、扉と同じような重厚さでもって、北側の窓の下に鎮座している。残りの4つは安っぽい作りで、角を合わせて、向かい合うように並べられていた。
そのうちの一つは書類の束や、よくわからないガラクタ―レンズが取れた写真機や、何かの歯車と異様に丁寧に彫られた宝石など―が今にも崩れ落ちそうなバランスで積み重ねられていて、誰がどう見ても、その席に座る人がいないのだと分かった。それ以外の3つは、まぁ人が使いやすいように整えられている。
その右側奥の机にエマは座った。
右を向けば、北側の窓があり、その前にある机にデカデカと飾られた、編集長、という表札もよく見える位置だ。
当の本人の姿はないけれど、机の横には革鞄が投げ出してあるから、出社はしているようだ。
というか、昨日から帰っていない可能性もある。
自分の席について、エマは新聞を取り出した。そして、1面の端から端まで、目を通していく。まるで、そこに自分の名前があるのを探すような、熱心さだ。
「名前はあったか」
エマが頭を新聞に覆い隠されんばかりに突っ込んで読んでいると、不意に頭の上から声がかかった。振り仰ぐと、薄化粧に、長い金色の髪を後ろで縛った女性と目があった。今日は濃紺のスーツに魅惑的な肢体を押し包んでいる。
「編集長! おはようございます」
声は低く、美しい声と言うわけではない。普段は透き通るようでもあるのだが、今日は寝てないのか、いつものような勢いはない。だけれども、それが逆に大人の気だるさを漂わせてもいた。
「おはよう、だが、編集長はやめてくれ」
「ええと、じゃぁ、マリアンヌさ……」
「ボス」
彼女は自分の席に座り、革鞄の中から複数の書類と本を取り出している。
「え?」
「ボスと呼べ」
「え、あ、はい。じゃぁ、ボス」
「何だね」
マリアンヌ、と呼ばれた女性が笑いをこらえた顔でエマを見る。
「ちょっと、何で笑ってるんですか」
「いや、気にしないで。それで、名前はあったか」
「いえ、ありまえんでした、ボス」
「ぷふふ、ははは。お前は本当にいい子だ」
マリアンヌが愛おしそうな表情で、頬を緩ませる。
エマはまだ学院を卒業したばかりの18歳。それに対して、マリアンヌは36歳である。年が一回り以上も違う部下を、彼女はとても可愛く思っていた。もちろん、仕事上の厳しさは別だったが。
「えー、やっぱり笑ってるじゃないですかあ」
「すまんすまん」
「じゃぁ、マリアンヌさん、でいいですね!」
「そうしてくれ。編集長以外ならなんでもいいさ」
二人の会話がそうして一段落ついたのと一瞬遅れて、別課の壁掛け時計から、9時の始業を告げるチャイムが鳴った。
社会部別課。二人が今いる部屋は、帝都新聞社の一部署である。エマが朝から帝都新聞の隅々まで目を通していたのも、自分の書いた記事がどこかに載っていないか探していたのだ。
「あー、その、それで悪いんだがな」
「はい」
マリアンヌが珍しく歯切れ悪そうに口ごもりつつ、エマを正面から見据えた。マリアンヌがこんな顔で言いにくそうにしていることが何かくらい、まだ入社して1年目のエマにも分かる。
「記事、また駄目だったんですね」
「ああ、すまん」
「全然問題ありません!」
「いや、本当にすまん。私の立場が悪いばっかりに、お前の記事を通してやれなかった」
「そんなことないですよ。あの記事は帝都新聞に載せるにはなんというか、チープでした」
「いや、それも十分記事にはなる話題だよ。帝都に魔獣がいる、なんてことになったら、大変なことになるしな。だが、まぁ今は観閲式についての記事が多くてな」
「それと、講和会議」
「そうだ」
「朝刊は、どの面もそんな記事だらけです」
「ああ、だがエマ君の書いた記事は十分正確性もあったし、載せるに値する内容だった」
「じゃぁ、次こそですね!」
「そうだ。次こそ一面をかっさらおう」
帝都新聞社は、帝国で12を争う部数を誇る新聞社だ。読者は帝都の人間が多く、政治や経済の話題がウリで、読者層もビジネスマンが多い。帝都新聞、という名前だけあって、大陸西部のロア帝国の首都、帝都で多く読まれている。最近では、地方都市などの人口の多い地域でも発刊しているようだ。
しかし、その中にあって、社会部別課はとても立場が低い。というか、正確に言えば窓際部署である。政治部や経済部などの、帝都新聞の花形を飾る部署で、解雇するには惜しいし、他の新聞社に引き抜かれて情報源を持って行かれては困る、だが社や部署の気風にそぐわない、と思われた記者達が行き着く場所である。マリアンヌ、それにまだ姿を見せていない他の記者にも、それぞれのそういう理由があった。入社一年目のエマがここにいるのには、また違ったわけもあるのだが。
一面か、とエマは思う。
それは簡単なことではない。そもそも別課に割り振られる事件や取材の案件が一面向きではないのだ。マリアンヌがエマに対して言った言葉も、ただの励ましに過ぎない。だが、それを分かっていてもエマは
「はい!」
と勢い良く返事をする。記者一年目のエマにとっては、そうやってモチベーションをあげるのも仕事の一つなのだ。
感情を切り替えて、エマはスケジュール帳を取り出し、
「それで、今日はどんな取材を……」
マリアンヌに尋ねた。だが、マリアンヌの視線はドアの方に向けられていた。
「テオドールッ」
驚いたエマが顔をあげる。
こめかみに青筋を浮かべたマリアンヌの表情があった。
「んだよ、編集長さま」
「遅刻だ遅刻」
「はぁ? まだチャイムは鳴り終わってないだろ」
文句をこぼしながら、一人の男が入ってきた。長身痩躯で、グレーのジャケットに暗めのパンツを履いている。短くもないが長くもない、中途半端な長さの焦げ茶の髪を無造作に掻き揚げつつ、彼は自分の席―エマの向かい―に腰を下ろした。
「チャイムはな、なり終わる前じゃなく、なり始める前に行動するものなんだよ」
「へいへい」
不真面目そうな顔で、彼はマリアンヌの声を聞き流す。なんというか、いつも通りの朝の風景である。
「おはようございます、テオドールさん」
エマも一応あいさつをする。
「ああ、おはようさん」
テオドールは、ポケットからタバコを取り出しながら、適当な調子で返事をよこした。
「だがマリアンヌ。いつも俺ばかり怒られているが、あいつらはいいのかよ」
「あいつら?」
「トマスとレイチェルだ」
テオドールが口にしたのは、残りの2つの席に座る二人の記者の名前だ。
それに対して、マリアンヌは口元を僅かに歪ませて、バカにしたように笑う。
「ふふん。あいつらは、朝一から出張だ」
「ワーカホリックだな、まったく」
「ああ、お前と違ってな」
「じゃぁこれで全員ですね!」
マリアンヌ、エマ、そしてテオドールと出張に行った二人。たった5人の小さな部署だが、エマにとっては初めての仕事、そして初めての同僚、先輩、上司、なのだ。楽しい、とは少し違う。けれど、まだまだ、仕事が始まるこの瞬間の胸の高鳴りは小さくなったりしない。
「では、朝のミーティングと行こう。まぁ、とりあえずこれに目を通してくれ」
マリアンヌは机の上からページを広げた本を二人の前に差し出した。