10話 嗚呼、麗しき広背筋
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一輪の花があった。
青い青い、見るものの魂までをも青く染め上げてしまうような、そんな青い花だ。かつて人々はこの花を求め、争い、血を流し、殺し合った。それでも彼らはこの花を求めた。求めずにはいられなかった。誰もが、この花を手にしたいと願った。なぜならそれは、世界そのものを手にすることと同じだったからだ。
手にしたとて終わりではない。血を注げば注ぐほど、その花が育ち輝くとでもいうように、花を手にした"愚かな"人々は、更に多くの血を望んだ。けれどいつも、最後に血を流すのは手にした人自身だった。
花は、望んだ。美しく在ることを。
花は、望んだ。誰もがそれを求めることを。
花は、望んだ。それを手にした者が幸福になることを。
けれど、本当は……。
花は、望まなかったのだ。血が流されることを。
だからその花は、望むことをやめた。
誰にも知られず、誰にも求められず、ただ道端に咲く一輪の花でいい、と。
けれど、月が月であるように、人が人であるように、花は花だった。
花は、可憐だと、魅力的だと、触れたいと、そう思われる為にこそ美しく咲くのだ。
たとえそれがまた血を呼ぶ一歩になるのだと分かっていても、その花を手にした人が望むのならば、花は花として、その存在全てを捧げるのだ。
その花にはミイヅ、という名があった。今はもう忘れ去られた、『死の国の王』、ミイヅ、という名が。
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ホームに滑り込んだ汽車は、一度汽笛を鳴らして完全に止まった。
時刻は午後5時。ホームの中央にある時計は、定刻通りに到着したことを祝うように鐘を鳴らす。
車両は長く、全部は駅舎に入らない。だから、客車だけを駅舎に入れ人々を下ろした後、機関車と客車はすぐに別の発車ホームへと移動する。そして、それと並行して列車の後方にずらっと並ぶ貨物列車を駅舎に入れて荷揚げを行うのだ。
テオドールとエマは、汽車を降りてからその作業にしばらく魅入っていた。というのも、エマが機嫌を直したのはいいが、迎えに来る手はずのテオドールの知り合いが遅れていたのだ。
「ムキムキだな」
「ええ、ムキムキですね」
二人は、荷揚げ夫たちの背中に見とれていた。ほとんどの男は上半身裸か、一枚の薄い布を身に着けているだけで、彼らが物を持ち上げる度に背中には隆々とした筋肉が自己主張を繰り返していた。
不意に、二人の耳に声が聞こえた。
「ねぇ、広背筋君」
「何だい、上腕二頭筋君」
「君の盛り上がり方も素晴らしいけど、やっぱり僕がナンバーワンだよ」
「何を? 私の方がムッチリしていて見応え抜群じゃないか」
「そ、そんな……ひどいよぉ。上腕二頭筋がいなきゃ物を持ち上げることはできないのに」
「ふん、君はあくまでもお飾りだよ。物を持ち上げているのは、私、こと広背筋さ」
それは、筋肉達の声……筋肉会話。
まったくもって意味がわからず、エマは怪訝な表情で振り返った。
「うふ……うふふ……。ああ、なんと素晴らしい眺め」
そこには、プラチナの髪を後ろで夜会巻きにした女性が満面の笑みを浮かべていた。
エマはさっと、全身に視線を巡らせる。記者の心得の一つである。
身長はテオドールより少し低いくらいで、女性としては十分に高い方だ。しっかりと化粧をしており、身につけている衣服も一級品であることは、そこまで裕福な暮らしをしているわけでもないエマにも、一目で分かった。深緑のワンピースには黒色の刺繍が施され、胸元から肩に掛けても同じように複雑な模様が描かれている。肩や胸元は少し開いているが、艶やかさに傾きそうな雰囲気を、大きなストールでまとめ上げ、決して下品というわけでもない。
だが、そんな部分部分から受け止める印象だけでは、彼女の全てを表しているとは言えない。むしろ、彼女の本質はその佇まいにある。まるで舞台演出家が仕組んだかのように、この荷揚げ夫達が忙しなく歩き回る場所でさえ、彼女自身の魅力は陰ること無くむしろ引き立てられているようだった。
彼女ほど大人の余裕を見るものに感じさせる女性は、なかなかいないだろう。そういう点では、どこかマリアンヌにも似ている、とエマは思った。
だからエマは、慌てて周りを見回した。他に人がいないかどうかを確かめたのだ。だっておかしいじゃないか。こんなにすらりとした人が、あんな筋肉会話の腹話術をするなんて、信じられない。というか、信じたくない。
けれど、そんなエマの願望は無惨にも届かない。
「テレジア、お前それやめろって俺は何度も言ったよな」
「あら、何のことかしら」
テレジア、と呼ばれたその女性が、小さく笑みを浮かべた。
「なんていうかこう、見た目と中身が違いすぎて、頭が痛くなるんだよ。エマ、この筋肉馬鹿はテレジア。今回の取材の道先案内をしてくれる。俺の……」
「元恋人? 」
うふふ、と上品に笑いながらも、テレジアの目はいたずらっぽく細められる。
「え? 」
エマはすぐさまテオドールを振り返った。
「違う!」
「そうね。元じゃなかったわね」
「おい」
「そうなんですか!……マリアンヌさんという人がありながら」
「なんでそこであいつが出てくるんだよ。というか信じるんじゃねぇ」
エマも信じているわけではない。ただ単に面白がっているだけだ。まぁそれはそれで質が悪いのだが。
それにしても、テオドールが完全にペースを掴まれている。マリアンヌとの時もそうだった。どうやら彼は、この手の余裕たっぷりな女にはほとほと弱いらしい。
「マリアンヌって、あの? 」
「ああ。お前もあいつは知っているのか」
「ええ。それほどでもないけれど……。懐かしい、でいいのかしらね」
「さぁな。……積もる話もあるが、とにかくどこかで一息いれたい。案内してくれないか」
「なんでよ、これからがいいとこじゃない」
「いいとこって」
何が、とテオドールは言おうとしたのだが、テレジアの目線からその理由を察して、代わりに溜息をついた。
視線の先、そこでは荷揚げ夫質が、今日一番の大荷物を引き出そうとしているところだった。
「ああ、いいわぁ。私はやっぱり上腕二頭筋より広背筋が好き。ねぇ? エマさん」
「は、はぁ」
問いかけられても、そもそもジョウワンニトウキンもコウハイキンも、どれがどこか分からないエマである。
「テオドールさん……」
助け舟を求めるエマに、彼は表情のみで語りかける。諦めろ、と。
「そう、そう、そこよ、そこ。ああ、なんて太くて立派な……筋肉なんでしょう。んん~あぁ、絶景ーーェィッ!!」
三人は結局、荷揚げが一段落つくまでの半時をそこで過ごしたのであった。
響都には着きました。まだ駅出てないけども……




