夢追人の新たな試み
そして迎えた仮装ライブ当日。
応援に来た朔を早々にホールに向かわせてから、色違いの半着と灰色の袴の上に特徴的な浅葱の羽織を纏い、額には真っ白なはちまきを巻いた。楽器はそれぞれこの二ヶ月間、休日に集中して猛練習を重ねたものだ。
翠玉は三味線、藍玉は箏の練習。そして瑪瑙は元々地域の祭りで神楽笛をしていたらしく、得意そうに吹き鳴らしてアレンジの仕方を始終唸りながら練っていた。
それぞれ楽器を練習やアレンジ、調整をしたりして何とか2週間前には通しで演奏できるようにまで完成度を高めていった。そこからは魅せ方、粗い所の直し、曲の編曲、ギリギリまで最大限出来る事をしてきて、こうして遂に本番を目前としている。
普段は文庫本片手にじっと楽屋の端に座っている翠玉も今日ばかりは落ち着きない様子で三味線のコードを確認し続けていて、
藍玉はいつも以上にピリピリした空気でずっとイヤホンで音楽を聴いている。
緊張感の増した楽屋は恐ろしいほどしんと静まり返っていた。
「SSさん、スタンバイお願いします!」
運営の係員から声が掛かる。
その声に反応して無言で集まりそれぞれの肩を叩き合う、そして瑪瑙の「行くぞ」という声に全員が一斉に頷いた。
肩に落ちた真っ白なはちまきを手の甲で背中へと流す。舞台裏の廊下で“誠”の文字が大きく波打った。浅葱と色のコントラストが、闇に溶けるように舞台へと消えていった。
僅かな騒めきの残るホールの響きが俺たちの登場で一気に無くなるのを聞きながら、真っ直ぐ所定の位置に着き目線を落とす。見慣れないブルーのライトに緊張感が増した。でも衣擦れの音が止んでホールが無音になって、藍玉の準備が整った事を悟ると全てが気にならなくなった。
音の消えたホールに広がる箏独特の爪弾きの音が、ゆるやかに冬桜のように淡く広がる。そこに唐突に加わるのは箏の世界を掻き乱す三味線の甲高い打撃音。次々と変わるコードは不安を煽る短調の並びだ。
暫くして三味線の陰からそっと響くのは翠玉の伸びやかなコーラスに。会場の空気がガラリと変わった。焦燥の三味線の音が緩まり、箏と共に清水のような澄んだ音色を作り出す。その間を瑪瑙の神楽笛が悠々と流れ、絡み合ってゆく。しかしすぐに音圧は高められ、音楽は更に熱く燃え上がる。足りないものは、もう紅玉の音のみ。
でもまだだ、まだ、足りない………………っ、……今!
素早く呼吸をし、俺は目の前に置かれたスタンドマイクに手をかける。
一瞬だけ呼吸を止めて。
そしてしっかりと前だけを見つめて、喉を開けて力強く声を上げる。この解放感がとても心地良かった。
歌の合間に捉えた視界の先に、じっとこちらを熱い視線で見つめる1人の少年が映る。暗くても遠くてもよくわかる、俺の目の前の壁際、朔の定位置。
胸を打つ衝撃が狂おしいほどに温かく俺を包んだ。朔が見てくれている、そう思っただけで声量は一気に増して、感情は更に真っ直ぐに飛んで行く。最高に高揚した。神楽笛の響きに合わせて掌を前に突き出してしまう程に。
無意識だった、自分らしくない動きに歌いながらも少し動揺してしまった。
でも再び終焉に向かって緊張感を高め、鼓動を早め、全ての音に魂を込めて。
そして全ての音が弾け消え、無だけが残った後、ホールには聞いた事のない圧の歓声と拍手が湧き上がった。
高揚感に自然と笑みが零れた、思い描いた世界が此処にはあった。
ゲストの反応に自然と肩の力が抜けそうになるが、慌てて背筋を伸ばす。
これはまだ始まりの一曲目、気を引き締めるために唇もきつく結んだ。
しんとした空気の中に今回のMC 翠玉の堂々とした声が満ちる。普段は目立つ事を極端に嫌うのに、今日はそんな素振り一つなく己の役を演じる翠玉。
一体どんな心境の変化なのか。熱でぼうっとした頭で翠玉の台詞を聞きながら、俺は次の曲の準備に入った。
「……それでは、殺伐とした幕末の世を駆けた我らが新撰組の舞台を、今宵はとくとご堪能ください。」
この台詞の後は彼が元の位置に戻るのを待って次の曲、という流れだっただろうか。
普段よりも綿密に練られたライブ計画を頭に浮かべて俺は呼吸を整えた。
しかしここで、予想外の事態が起こる。
「なんだ、不服か。」
挑発的な翠玉の普段よりも低めのトーンがゆったりとホールに響く。翠玉のアドリブに俺も瑪瑙の藍玉もじっと翠玉に注目していた。どうやら高揚しているのは俺だけじゃなかったようだ。ゲストから嬌声が僅かに上がる。
その声に、満足げに流し目をして自分の位置に戻った翠玉が楽しげに笑って唇を舐める。
「さて、では次の曲へと参ろうか。」
カウントが響く。と同時に俺は視線を上げ、マイクに両手を置いた。
俺のアカペラ───。
会場の目、意識が全て此方に向いている気がした。その中を、じっと魂で歌う。
甘苦しい愛の歌の歌詞が歌うたび自分自身にも、痺れるように沁みていった。
この格好をしているせいか、自然と一つの情景が浮かび上がってくる。それはあの時代の中紡がれた愛の形。心中、惜別、抱擁、接吻……若くして散った男を想う女の心を胸に思い描くと、酷く苦しくなる。金を置いて家を出た男、残された女と子どもの元に帰ってきたのは男の使っていた愛刀だけで。血に汚れた刀は男の全てを語っていて。女の嗚咽がただ京の街に淡く消えていく冷たい真夜中。
堪らなくなって心臓の辺りをぎゅっと掴む。
苦しい、苦しい、好きだから……。
そして垂れ下がる右手、弱々しくなった俺の響きを掬うように箏と神楽笛の柔和な音が浮かび上がった。
時々入り交じる三味線の刻みに沿って、今度は歌い慣れたラブソングの歌詞を紡ぐ。
しかし、心を掴んだあの情景がずっとチラついていた。以前から歌っているSSのラブソング、同じ歌詞なのに今日のは酷く苦しく感じた。眉根に皺が寄るのがわかる。
下がった視線を上げて逃れるように遠くを見ると、不意に朔と目が合った。
辛い、くるしい、でも。
聴いてくれる人がいる、待っている人がいる、見てくれている人がいる───。
クライマックスに向けゆったりと届けるように歌う。三味線が消え、神楽笛が消えて、箏の音が消えた後、俺も消えるように音を止めた。
さっきより大きな拍手と歓声が会場を割るように起こった。
そして最後の曲に移る。
SSの人気の曲から一曲、和ロックテイストでアレンジされたものを披露する。
もう心には何もなかった。ただ思った通りに歌い込んだ。
記憶に薄い、正直何をしているのかもわからないくらいに無我夢中だった。
そうして、およそ30分に及ぶ仮装ライブを無事やり切った。
「では、また何処かで。」
短くそういって足早に退場した翠玉に続いて瑪瑙、藍玉が退場する。そして最後に俺も退場した。去り際に、何故か朔と目が合った。興奮で潤んだ目に、胸の奥から何かが溢れるように湧き上がってきた。顔が強張る、目元が熱い。でもステージの上でこんな顔を見せたくなくて、その視線を振り切るように足早に去った。
楽屋に向かう廊下で、次々と零れる何かを必死で拭い、溢れる嗚咽を耐えるように飲み込んだ。けれど止まってはくれない。
「おい、大丈夫か……奏、こっち来い。」
すかさず俺に気づいた藍玉が肩を抱いて何処かへ連れ出した。
視界が潤んで何も認識出来なかったけれど、心配そうな瑪瑙と翠玉の表情だけはわかった。
* ・ * ・ * ・
「奏……奏、大丈夫か?」
ライブハウスの裏口から連れ出し外階段に座らせた羽月さんが、背中を撫でながら何度も名前を呼んだ。紅玉じゃない、水嶋奏を呼んでくれていた。そして、戻ってこい と名前と同じくらい何度も言っていた。
でも不安と焦燥、それと得体の知れない恐怖は体全体を覆っていて、体の震えが止まらなかった。
奏、かなで……。
羽月さんの声が遠く聞こえる。瞼も重くて、だるくて、意識も次第に遠くなっていく。
けれど目を閉じ、前のめりに倒れ出した体に全てがどうでもよくなった時、暖かなものが全身を包み込んだ。
「奏、しっかりしろ!」
羽月さんの怒鳴り声がとても近くから聞こえた。そして羽月さんの腕が、俺の体を痛いくらいに抱き締めていて、その感覚で俺の意識は浮上した。
喉がカラカラで声は出ない、自分が今どこにいるのかもよくわからない。でも、大丈夫だって伝えたくて、俺もゆっくりと羽月さんの背中に手を回した。
いつの間にか涙は止まって、頰には跡だけが残っていた。
「羽月、さん…すみません。」
「ん……。」
羽月さんの買ってきたミネラルウォーターを飲んでようやく本当に落ち着いて、声も出るようになってから、俺たちは楽屋に戻った。その戻る道で、羽月さんは始終黙ったまま俺の腕を掴んでいた。
俺は申し訳なくて、ずっと俯くことしかできなかった。