過去の記憶は嘲笑う
心に落ちた滲みは、どんなに平穏な時を経ても消えることはない。
いつの間に降ったのやら 暗く濡れたアスファルトを見つめながら、僕はただぽつりぽつりと歩き続けていた。
色鮮やかなネオンの光が目に刺さる、行き交う人々の騒めきが胸をざわつかせる。でも、全部ぜんぶ、どうでもよかった。
行くあてもなく、もう自分が何処に向かっているのかも 帰り道もわからない。
目の奥にはまだ、あのステージの光景が残っていた。温かなオレンジの灯の下で苦しげに眉根を寄せて歌う紅玉の声が耳に戻る。
痛いほどに熱い、狂おしいほどに切ない刹那の歌。思い出すほどに胸が苦しくなって、彼の姿を見続けることが辛くなった。
紅玉の想いがどっと流れ込んできて、その鮮やかな色に心も体も意識も奪われるような感覚に恐怖を抱いた。それから その感覚に感化されるように呼び覚まされたのは忌まわしい過去の記憶。これは今となってはさほど大事でもない、そんなつまらない昔の話だ。
昔の僕には夢中になれたものが一つだけあった、大好きだと胸を張って宣言できるほどに心奪われたものがあった。
純粋にただ音楽が好きだったあの頃には、己の全てをかけて語ろうと思うような、自分だけの音があった。
芯の通った柔らかな音色、何処までも高く駆け上がる高温の響き。ぴんと張り詰められた空気を大きく吸い込んで、小さな管から伸びやかに広がるあのトランペットの響きが、僕は何よりも好きだった。自分だけの音を求めて、毎日宵闇の中、穏やかな波の音を聞きながら海に向かってひたすらに吹き続けた中学時代。
あの頃は パズルのピースのように、他の響きにぴたりとはまった瞬間の音の輝きにいつも心を震わせていた。思いを込めれば込めるほど切なく消える響きに瞼を熱くしていた。
しかし暫くして、幾ら練習しても伝わる事のないものがあることを痛感した。それに気づいた時から、どんなに思いを込めても納得のいかない音が増え、次第に心は焦りを感じ始めた。そして僕はそれから更に過度な練習に打ち込んだ。僕がその夏のコンクールの重要なソロを任されたのは、そんな時の事だった。
朝のミーティングで指名された瞬間、僕は何も言えなかった。隣には先輩が居て、彼もまたそのソロを吹くかどうか選定されていて。
名が呼ばれ何処からか上がる拍手を 僕は呆然とした気持ちでじっと聞いていた。
僕が選ばれるとは思ってもいなかったのだ。先輩が、先輩は……っ。
隣の鈴原先輩がどんな表情で、どんな思いでいるのだろう、知りたいのに 怖くて苦しくて仕方なくて、その時の僕は何もする事が出来なかった。顧問からの視線を感じて其方を見ると大きく首を縦に振られた。こんなにも輝かしいソロを任されたのに、心には絶望が広がっていた。
僕の学校ではコンクールの、特に重要な旋律はパートリーダーが任されている。パートリーダーは外部講師の金井先生が選任していたから、それが実力のある証となり パートリーダーがソロを担当する事は暗黙のルールとなっていたのだ。
コンクールの優劣を大きく分けるほどの大切な旋律、失敗も劣悪なものも許されない重要な役割。一応パート全員が同じものを練習し、同じようにテストを受け、発表を待った。当然、パートリーダーで副部長も務める鈴原先輩が吹くと、誰もが思っていた。
一際華やかな音色が扉越しに高らかに鳴り響いた瞬間、誰もが確信したし、先輩も自分だと思っていたに違いなかった。どちらがいい、なんて明確にわかっていたはずだ。
でも選ばれたのは、僕だったのだ。
イレギュラーな事態に戸惑った僕は先輩と何も言葉を交わさずまま、本格的なソロパートの練習に取り掛かることになった。
その後すぐに金井先生のレッスンが入り、戸惑いつつもとにかく丁寧にソロを吹いた。じっと身構えていたのに、その後の先生からはなんの指示もなく、僕は泥沼のような日々を過ごした。愛を囁くようなしっとりとしたソロパートがその時ばかりは悪魔の歌のように聞こえた。
そしてそんな日々はコンクール目前まで続いた。道は見えず、吹く度に怖くてどうしたらいいか分からなくて、でも僕はどうしようも出来ずにただ無我夢中で練習を重ねた。
しかしコンクール前日に、とある出来事が起こった。
椅子の上に置いていた筈のトランペットが、無残な状態で床に落とされていたのだ。
練習の為使用していた空き教室の隅、近くに物はなく、譜面台もなく、どう考えても人為的なものだった。金の輝きには幾本もの白い線が入り、美しかったベルの丸みは歪んでいた、ピストンは中に入ったまま抜ける事はなかった。空き教室の外で僅かな笑い声が響く。それから揶揄するような囁きも。
同じパートの女の子たちの仕業だと頭はすぐに理解して、心はそれを否定した。先輩をとても慕っていて、僕にも軽快に接してくれた彼女たちがやったとは思いたくなかった。
でも目の前の惨状はなんど目を瞑っても変わることはない。悔しくて苦しくて、僕はその日すぐに理由も言わず退部届を先生に渡し、そのまま学校に行くことも辞めた。
これ以上傷つくのが怖くなった、真実を実際に聞くのが恐ろしかった。
少し先生に呼び出されていて目を離した間の事、僕の中には心残りしか無かった。
それからは一度もトランペットに触れていない。修理を依頼し、元のような状態に戻った。吹こうと思えば吹くことができる状態、でも僕はそうしなかった。したいとは思わなかったのだ。
そして僕の心は消えた、人との関わりが怖くて 避けるようになった。
* ・ * ・ * ・
どん、という重めの衝撃を肩に感じて、僕はすぐに視線を上げる。液体の溢れる音と共に胸元から腰にかけて濡れるような感触に驚いて思わず固まってしまった。
「あーあ、溢れちまったじゃねぇか。」
誰かの肩に当たってしまったようだった。黒い革ジャンとじゃらじゃら音を立てる銀のピアスが視界に入る。眉の濃い、厳つい顔の男の、やけににやついた表情が気持ち悪かった。
服が濡れた、匂いからしてアルコール。でもやはりそれも、今の僕にとっては遠い出来事のように感じられた。液体が服にじんわりと浸みを作る。
次第に体が冷えるけれど、そのまま男の側を通り過ぎようと思った。この男と関わるのはよくない、早く家に帰って着替えようとその時の僕は思っていた。
でも霞みがかった頭では男から逃れることはできなかった、下品な笑い声をあげながら 男が俺の腕を強く掴んで引きずっていく。咄嗟のことに何も反応できない。今になって自分の細っこい身体を恨んだ。暗く狭い路地裏に入ると気づいた瞬間、それでも助けてと叫ぼうとした。
でも出来なかった、男の手がぐっと口元を覆う。路地の奥に着いてすぐ 背中を強く打ち付けられた。首が締まる、痛い、苦しい。
「お、女か。」
鋭い瞳の奥に潜む悪魔に、喉の奥で声が詰まった。近づいた男の酒臭い息が顔にかかる。
気持ち悪くて仕方ない、でも怖くて抵抗も出来ず、足はがくがくと震え続けていた。遠ざかった騒めきと月の光も届かない暗闇に、僕はただ恐怖に震えるしかなかった。
女顔だとよく揶揄られた、それがこんな所で出てしまうとは。
なぁ、と耳元まで迫った男の甘ったるい声に全身が粟立った。嫌だ、気持ち悪い、来るな、寄るな、嫌だ…っ。
男がじりじりと寄る。
必死で全身をよじって足掻いた。男は凄んで怒声を吐く。雲間から顔を出し、路地奥まで差し込んだ月の光が男の曇った瞳をぎらりと輝かせる。でも、僕は止まれない、怖いけどそれより一刻も早くここから逃げたかった。
不意に右腕が思い切り男の頰に当たる。鈍い音がすると同時に男が呻き声をあげた。
「てめぇっ……!くそ、ふざけんな」
「は……っ。」
拳が僕の鳩尾に食い込む。激しい痛みに呼吸が止まり、目の前がチカチカした。音が遠くなる、男が見下ろして僕にとって怒鳴りつける。上手く空気が吸えなくて、頭は靄がかかるような感覚に陥った。
気持ち悪い、死ぬのかな………嫌だな。
ゆったりと閉じる瞼に男の腕が重くぶつかる。刹那少しだけ意識が飛んだ、痛みが全身に勢いよく走った。
ああ、痛いな………どうせ死ぬなら、もう一度トランペット、吹いとけばよかったのかな。心の片隅に浮かんだ思いは泡のように消えていった。