神様と過去
11時きっかりに、あいつは現れた。
ぼくの座っているベンチの、ぼくの真横に。
何でもないような顔をして、ぼくと同じ缶コーヒーをすすりながら、唐突にそいつはいた。
「おはよう。夜彦さん」
口のはしをぺろりと舐めながら、暑いね、とぱちくりした。
昨今ではあまり見かけなくなった、真っ白のワンピースを着て、履き古していそうな草履姿だった。幅広の麦わら帽子を手に持ち、あついあついと扇ぐ。
その日は確かに暑い、夏日だった。携帯電話の天気予報メールを見ると、最高29度まで上がる見込みだそうだった。
「さ、早く行こう行こう。」
ぴょんと跳ねてそいつは立ち上がり、麦わら帽子をかぶった。その姿は傍目にも美しく、不覚にもぼくは見惚れてしまった。吹き抜ける風が髪をなびかせ、ある種の神々しさをかもしだしているように思えた。
いつもこいつを見ていたのが夜だったからだろうか。白いワンピースにも負けない、そいつの白い腕と脚が、夜とは違った意味で怖かった。寒々しいような、淡く溶けていってしまいそうな、脆く危なげな白さだった。
「そんなに見つめて。どうしたの、夜彦さん」
ずい、とこちらにかがみこんで、大きな目がぱちくりした。あー、夜彦さん、見惚れていたんでしょう。
そっかあ。夜彦さん、ワンピース好きなのかあ。からかうように、そいつは言った。
そっかあ。じゃあ、正解だったね。
せいかいせいかい。ひらりと頭を振って歌う。
ぼくは恥ずかしいやら、怒りたいやら、複雑な心境だった。でもこれ以上からかわれてはかなわないので、ぼくはゴミ箱に空き缶を放り込んで立ち上がった。
「ほら、早く、どこへ行くのか案内してくれよ。ぼくはこの街を知らないし、この街に、ぼくを連れて来た理由もあるんだろう」
ぼくは去年買ったばかりのショルダーバッグを肩にかけた。
話しかけられた当のそいつは、ワンピースの裾をつかんで、ふわふわと回ったり踊ったりしている。
不釣り合いなくらい真っ黒な髪が、くるくると流れて舞う。
こいつとの会話は成立しないものだと、ぼくはもう何となく悟っていた。呼びかけてもらちが明かないので、ぼくは溜息をついて歩きだした。
連絡通路を突っ切っても、そいつはついてくる気配がなかった。このまま帰ってやろうか。ぼくは頭にきて、ポケットの財布を探った。
しかし、財布はなかった。
あれっ。どこかで落としたのだろうか。
あちこちのポケットをぽんぽんと叩くが、見つからない。ああ、弱ったなあ。お金、おろしたばかりだったのに。ぼくはがっくりと肩を落とした。
「よーるひーこさん」
ふいに、あいつの声がした。
なんだよ、今頃来たのか。早くも疲れてしまったぼくは、そいつの方をゆっくり振り返った。こいつといるとろくな事がないな、と思った。
夜彦さん。これ。そいつはぼくの前に黒いものを持ち上げて見せた。四角くて、革でできた、見慣れたものだった。
そいつが持っていたのは、ぼくの財布だった。
ぼくは目を疑った。それは確かに、昔父が高校の入学祝いに与えてくれた、まぎれもないぼくの財布だった。
そういえば、さっき勢いよくベンチから立ち上がったのを思い出した。あの時落としたのかも知れなかった。
「ああ、ありがとう。拾っておいてくれたんだね」
ぼくは手を差し出して、財布を受け取ろうとした。しかし、そいつは財布を手放さなかった。
「夜彦さん、いま、帰ろうとした」
ふくれっ面でぼくを睨む。
「だめ。夜彦さん。帰さない。せっかくのお出かけなのに。お泊りって言ったのに」
ぷい、とそっぽを向いて、そいつは背中を向けて歩きだした。」
「お、おい」
慌てて追いかけたが、そいつは止まろうとしなかった。ぼくの財布を抱えたまま、ずんずん階段を降りて歩いていく。
「ちょっと待ってくれよ!」
懸命に声をかけるが、そいつは気にもとめずに行ってしまう。ついに、ぼくは走り出した。
走りはじめてからしばらくして、ぼくは気づいた。あいつはただ同じ歩幅で歩いていくだけなのに、ぼくとの距離はどんどん離れていく。もう声も届かないほど向こうに、小さなあいつの背中が見える。
それでも、あいつはずんずん行ってしまう。
がむしゃらに走るのはいつ以来だろうか。脚が次第に震えてきたのがわかる。それでも、遥か向こうの、消えてしまいそうな白い影を追いかけて、なりふり構わず、しゃにむに走った。
もう、財布を追いかけているのか、それともあいつを追いかけているのか、わからなかった。
ついに、あいつの姿は見えなくなった。ぼくはもう走っていられなくなって、よろめきながら立ち止まった。
最後にあいつの後ろ姿が見えたのは、ここら辺りだったはずなのだが。きょろきょろと見回しながら少し歩くと、大きな赤い鳥居が目に入った。
きりきり痛む脇腹を押さえながら、ぜえぜえと息を吸い込む。ここに入ったのだ。そう思った。鳥居の向こう、ひと気のない神社の中からは、あいつと同じ、あやしい匂いがした。
鳥居をすっとくぐり、石畳の上をひたひたと歩いていくと、しめった青臭い風が鼻をかすめた。一番奥は二つの神社があり、神の社、と言うだけの、人を寄せ付けない堂々とした雰囲気が、そこここに漂っていた。
そいつは、その左側の社の石段のすみっこに座っていた。
隠れていたふうではなく、逃げ込んだ、という様子でもなかった。しいて言うなら、来なければいけなかったのだと、とうとう来たのだと、自分に言い聞かせるような沈痛な顔つきで、ぼくの財布をきつく抱きかかえていた。
「なあ」
ぼくは息を切らしながらも、そっとそいつに声をかけた。
「君はここに来たかったのかい」
そいつはなにも反応を示さなかった。
ぼくは少し考えて、質問の仕方を変えることにした。
「君はぼくを、ここに連れて来たかったのかい」
すっとそいつはこちらを向いて、小さく頷いた。
駒鳥が、遠くで鳴く声がした。
辺りで様々な鳥の鳴く音がぼくらを取り囲んでいるようだった。聞き慣れた鳩のクックポッポポー。雀とおぼしきチュンチュン。だがそれらの全ては姿を見せず、じっと見守るように静かに合唱している。
そいつは珍しく神妙な面もちで、あの笑いが顔から剥がれ落ちてしまったようだった。
そいつは何かを言おうとしたのか、ぼくをちらりと見て、一度口を開きかけたが、すぐに閉じた。大きな椎の木が、そいつの白いワンピースをに木漏れ日を投げかけていた。その光の加減か、そいつは今にも泣き出しそうに見えた。
しばらくの間、ぼくたちは無言でいた。なにか言葉をつなごうにも、できなかった。
木漏れ日が、まるで海の中にでもいるように、ぼくらを包み込んで揺らいだ。
「ここでね」
どれくらいたったかはわからないが、そいつはふいに口を開いた。
「この街で、わたし、死んだの」
死んだの。ぼくの方を見て、優しく繰り返した。木漏れ日を受けて、どこかいつもの気味の悪さはなく、儚そうにぱちくりした。
ああ、とぼくは思った。
何も納得も、理解もしていないが、なんとはなしに思った。
何かのピースが、はまったような気がした。
そいつという存在が、ほんの少し照らし出されたように、闇の中に何かが浮かび上がったような感覚だった。
そいつは白い腕をそっと伸ばして、絵馬の吊るしてある一角を指差した。
「あれ」
そう言って立ち上がり、ぼくの隣までゆらゆらと歩いて来た。
「少し、昔話、するね」
そう言って長いまつげを伏せ、ゆっくりとそいつは話しだした。
表情は影になって見てとれなかった。姿の見えない小鳥たちは何時の間にか鳴き止み、ひっそりとした空気全体が、そいつの話に聞き入っているようだった。
わたし、昔ね。身体が弱かったの。
小さな頃から病気持ちだし、怪我をしたらなかなか治らなかった。そうして床についてばかりだったから、とうとう身体が弱って、歩けなくなってしまったの。
下にうつむいたまま、かすれた声で言った。
毎日毎日、お布団の中で、私、悲しかった。このまま、こんなふうになんにもできずに、一生が終わってしまうのが、悲しかった。窓の向こうを駆け抜けていく、同じくらい歳の子たちと、触れ合う事も、同じように駆け回ることもできないことが腹立たしかった。
学校にも行けなかった私は、枕元に本を山積みにして、にらめっこばかりしていた。文字はほとんど独学で覚えたの。でも、本に書いてあるのは外のことなの。この私が寝たきりの部屋の、向こう側のことだらけなの。
私、つらくて。いつも泣いていた記憶しかないの。
じゃり、と足元の砂利石を蹴って、そいつは続けた。
私の両親は優しい人だったから、それはそれは心配をしてくれた。見ているこっちが、心を痛めるくらいだった。
ワタシ、イナイホウガイイノカナ。
そんなことを考えるようになっていったの。
それでね。ある時、お手紙を書いたの。神様へ、って宛名で。
今じゃはずかしいけれど、大真面目だったんだよ。
色画用紙をちぎって作った便箋に、慣れない鉛筆で一生懸命書いた。ほら、私、読んでばかりだったから。字を書いたことはあまりなかったの。
「かみさまへ。おねがいがあります。」
そう書き出してね。
「わたしはわるいこです。あるくこともたつこともできません。あそびたくてもあそべないんです。おとうさんとおかあさんはわたしのせいでなきます。でも、わたしはわたしのせいでおとうさんとおかあさんにないてほしくないんです。げんきにわらって、いっしょにおかいものにつれていったりしてほしいの」
書いていて、涙がこぼれてきた。一粒流れたら、もう止まらなかった。それでもね。私は書いたの。
「わたしがふつうのこだったら、おとうさんもおかあさんもなかないんでしょうか。もしそうなら、わたしはふつうになりたいです。ふつうにたって、あるいて、ふたりにわらってほしいです。
どうかかみさま。おねがいです。わたしをどこにでもいるふつうのこにしてください」
涙でくしゃくしゃになってしまった便箋に、ありったけの思いを叩きつけて、私は封筒に入れて封をしたの。なんだか、報われないけれど、大声で叫んでしまったらどこかすっきりするように、すっきりして、私は眠りに着いたの。
ベッドの脇の机に、確かに置いてから。
次の日目が覚めて、机に何気なく目を向けたの。もし両親があの手紙を見てしまったら、もっと悲しんでしまうと思って、こっそり処分しようと思ったの。
ところが、確かに置いたはずの机に、その手紙はなかった。その代わりに、別の、見た事もない封筒が代わりみたいに置いてあったの。
何も模様が描かれていない、真っ白な封筒だった。どこまでも白くて、墨を一滴たらしたら、すうっと吸い込まれて見えなくなってしまいそうだった。
なにかかさばるものが入っているようで、その封筒はこんもりと厚みがあった。床から手を伸ばして手にとってみると、硬い感触が指先に触れた。
なんだろうと思って、封を開けてみると、中には五角形の板切れが入っていた。赤白の、鈴がくくりつけられた紐が五角形の頂点に結んであるのを見ると、どうやら絵馬のようだった。
木目のきれいな、白い絵馬だった。やはり絵柄はなく、なんの木かはわからないが、清々しいいい香りがした。
私はもしかしたら、これは神様からの贈り物かも知れない、と思ったの。うまく説明できないけれど、そう思わせるだけの、説得力を持った、ものものしい白さだった。
幼い私は、きっとそうだと大喜びした。私は急いで引き出しのところまで一生懸命這って行って、マジックペンを引っ張り出してきた。
何を書こうか、一瞬迷った。
だって、この板に書いたものは、なんだって叶うとしたら、何を書くべきか迷うでしょう。
でも少し考えたあと、やっぱり私は昨日神様にお願いした事が、一番心から願っているものだと決心して、自身たっぷりに書いたの。
「わたしをどこにでもいる、けんこうなおんなのこにしてください」って。
それが今までずっと欲しくてたまらなかったものだし、昨日の涙が無駄になってはいけない気がしたから。
書き終わって、私は満足してペンのキャップをはめた。まさかすぐに叶うなんて思ってはいなかったから、気持ちがわずかに落ち着いて、ふうっと溜息を着いた。その時だったの。それが起こったのは。
絵馬が、突然、光だしたの。はじめはぼうっと青白く光っていただけだったんだけど、だんだんに光が強くなっていって、しまいには目も開けていられなくなったの。
目を閉じて、両腕で目をふさいだ。光の洪水が、私に押し寄せて染み込んでいくみたいに、閉じている目からも肌からも、入り込んでくるようだった。
もう駄目、パンクする、と思った瞬間、光が音をたててはじけた。ふいに目の前が暗くなって、恐る恐る目を開けると、まるで何事もなかったように静まり返っていた。机を見下ろすと、封筒も絵馬も消えてなくなっていた。
息が弱く漏れて、私は床にへたりこんだ。
へたりこんでしばらくしてから、気がついた。
私、へたりこんだの。
それまで私、まるであの光から目を背けるようにして、および腰で立っていたような気がしたの。
もしかして。ほんの少しの期待をこめて、へたりこんだ膝に力を入れて、腰を浮かしてみた。
すると、なんの抵抗も痛みもなく、腰はするっと持ち上がって、私は膝立ちの体勢になっていた。
わあっと声をあげて、私は飛び上がった。私の脚が空中でしゃんと伸びて、床でぐっと私の体重を支えた時には、涙が出そうになった。
私はいてもたってもいられなくなって、ばっと走り出して階段を駆け上がった。いつもこの時間はお父さんは仕事でいないけれど、お母さんは二階の居間でテレビを見ているはずだった。
二階の奥の部屋にたどり着いた時は、何年ぶりかわからないほど胸がどきどきしていた。だけど、脚も体も負担は全然なくて、このどきどきは気持ちの高鳴りなんだと思った。
なんて言おう。
それが頭の中でぐるぐる駆け回って、ファンファーレを響かせているみたいだった。
急に治った、では駄目ね。説得力がない。なにかもっと感動的な、奇跡が起きた事を語るにふさわしい、夢のような言葉を探したかったの。
でも、気持ちがはやって、このファンファーレを早く聞かせたくてたまらなかった。本だけで得た知識や語彙にはやっぱり限界があるとわかって、私はありのままを話すことにした。
ドアが壊れそうな勢いで飛び込んで、私は叫んだの。
「おかあさんっ!」
どきどきで息を切らしながら、母を探した。部屋を見渡すと、ソファーでゆったりとくつろいぎながらテレビに見入る母が目に入った。
「おかあさんおかあさん」
聞こえなかったのだと思って、私は叫びながら走り寄った。
「あるけたの。わたし、あるけるようになったの!おかあさん!」
ソファーのへりにつかまって、ぴょんぴょん跳ねた。ほら、こんなに跳ねられるの、と言わんばかりに跳ねた。
でも、母はこちらを見向きもしなかった。
「おかあさん、ほら、こっちをみて」
私はテレビと母の間に割って入った。
「あのね。かみさまがね。わたしのあしをなおしてくれたの。わたしがおてがみをかいてね、おねがいしたの。それで、おへんじにえまがおいてあったの。だから、ああ、これはかみさまがおねがいをきいてくれたんだっておもって、おねがいをかいてね・・・」
言いたいことが沢山あったから、わあっと浴びせかけた私は、筋道をたどって説明するつもりだった。だけどだんだんに、声はしぼんで、出なくなってしまったの。私は、突然、怖くなったの。
母は、私を見ていなかった。
私の体を通して向こう側のテレビに見入っているように、私自体がそこに存在していないみたいな顔をして、麦茶をすすってまたテレビに集中していた。
一瞬、どうしてなのかわからなくなった。多分私は、母に嫌われたのだと思ったんだと思う。今まで散々迷惑をかけておいて、歩けるようになったら急に駆け回って騒ぎ立てる、とんでもなく悪い子だ、と思われたのでは。そう思ったのだ。
私は、母の膝の手をついて、あたふたとした挙句に、泣き始めた。
ごめんなさい。ごめんなさい。怒らないで。
さめざめと泣いて、私はすがりついた。許して欲しかった。せっかく、一緒に手をつないで歩いたり、お買い物に行ったりできるようになったのに。嫌いにならないで。そう言ってかじりついた。
それでも、母は何も反応しなかった。なんら変わりない表情で、ドラマとおぼしき番組を食い入るように眺めている。
私はしゃくりあげながら、何かおかしいと思った。
これではまるで、私が本当にここにいないみたいだ。何か変だ。
私は涙を拭って、考えをめぐらせた。今日、おかしなことがいろいろ起こった。その中で、とりわけおかしなことを探した。私がいないように扱われていること。私が歩いていること。走っても体は疲れていないこと。
そして、思い当たった。
あの絵馬が怪しい。
でも、神様は私のお願いを聞いてくれただけ。何か意地悪をしているとは思えなかった。
私のお願いが、いけなかったのかな。そう思い、さっき書いたばかりのマジックペンの文字を思い返した。
「わたしを、どこにでもいる、けんこうなおんなのこにしてください」
なにか書き損じただろうか。別段、間違いをおかしたようには思えなかった。
そうやって、しばらくぼうっと考えているうちに、ある考えに行き着いた。
途端に恐ろしくなって、母のズボンをぎゅうっと握りしめた。
まさか、と思った。そんな訳がない。けれど、もしそうだとしたら、私はとんでもないことをしでかしてしまったのだ。
「わたしを、どこにでもいる、けんこうなおんなのこにしてください」
この文の中の、「どこにでも」。これが、致命的にいけないかもしれない。
私は目をつぶって、階下の自分の寝床を思い浮かべた。そんな訳がない、そんな訳がないと言い聞かせながら、ありありとイメージして、ぴょんと跳ねた。
どさっという音がして、何か柔らかい物の上に落ちた。そうっと目を開けると、つい今しがた想像したものとまったく同じ、私の寝床の上だった。
ああっと一声悲鳴が漏れた。
首をぶんぶんふってまた目を閉じて、母の座っているソファーを思い浮かべた。お願い、やめて、と念じながら、地団太を踏むようにどんと床を踏んだ。
期待を裏切るように、足の裏はふかふかしたものを勢いよく踏んだ。もう、目を開けなくてもわかっていた。沈み込んだソファーに足を取られて、かたむいた私の腿に母愛用のカーディガンが当たるのがわかった。
私は生きる希望を失った。
私は「どこにでもいる」女の子になってしまった。それが、こんなに絶望的な意味を持っているとは思わなかった。
私が「どこにでもいる」女の子じゃなかった時は、居間にいる時は寝床にはいられなかった。同時に複数の場所にいることは、不可能だったはずだ。
でも、私は「どこにでもいる」女の子になってしまった。
つまり私は、この世界、地球だろうと宇宙だろうと、全ての場所にいるようになってしまったのだ。全てのスペース、一センチ一ミリ、寸分たがわずそこに居てしまうのだ。
世界が確かにあるように、私はいるのだ。そこにも、ここにも。
それは恐ろしいことだった。
今まで「そこ」にいる時は、「ここ」にはいられなかった。母も、父も、この世界の誰も彼もみんなそうなのだ。
でも、私は違う。どこにでも、いるのだ。
難しい話だけれど、どこにでもいられる私は、どこにもいられないのだ。
「ここ」にもいる。「そこ」にもいる。
でも私の意識は一人きりだから一カ所にしかいられないはず。それでも神様の魔法は、確かにここにいる私という存在を大きく薄く引き伸ばして、ここにはいないものにしてしまったの。
目の前に道がいる、とか、仰向けに横たわったら、北極星がいる、なんて思わないように、私は取り留めのない、取るに足らない風景の一部になってしまったようなの。
それが理解できた時、どうしようもなく怖かった。
お母さんは駐車場の砂利石の数を数えないみたいに、私のことを認識するのをやめてしまったんだ。
絶望に打ちのめされて、私は涙が頬をつたっているのにしばらく気がつかなかった。
神様にお願いした事が、どうしたら取り消せるわからなかった。あの絵馬が消えてしまった以上、どうすることもかなわなかった。
私は声をあげて泣いた。
この世界で一人ぼっちになることは、不可能だと思っていた。南極にも北極にも人はいるのだ。まさか、こんな超常の力でもって、愛すべき人たちのいる世界から切り離されてしまうなんて夢にも思わなかった。
私はこの世界に生きて、干渉もしながらも、この世界における生命を失ったに等しかった。
涙が枯れ果てて、目が真っ赤になるまで泣いた。
誰でもいい。誰か、私を助けてくれる人はいないの? 頭の中で叫んだ。
私を救って、お願い。誰か。
幾度も幾度も、しまいには声にだして叫んだ。
そして、何百か、何千か叫んだ時に、ふっと思い浮かんだの。ああ、一人だけ、いたって。
私を助けられるのは、一人だけだって。
それでね。会いに来たの。
はるばる、世界中を探しまわって、やっと、見つけたの。
「夜彦さん。あなたを。」
続く