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イノチの桜  作者: 空羅
3/8

春の夕餉

人生はわからないものだ、とつくづく思う。

例えば山に行こうと思ってバスに乗ったのに、気がついたら海に着いてしまうようなことがある。


確かにバス停も行先も確認しているはずだのに、海に着いてしまってから、自分が間違って乗り込んでしまったことに気づくような。


そういう避け難い、結果を押し付けられたような事態が、人生では多々ある。そこまでの道のりは間違っていなかったのに、と悔しがりながら、今目の前にある現実を受け入れなければいけない事態が。そうしてぼくは、今まさにその状況に置かれている。


ぼくは東京都の北の端に位置する、小さな街に来ている。埼玉県に突き出しているみたいなかたちの、それまで知るよしもなかった街だ。



ことの始まりは、病院での診察を終え、結果を聞いた時のことだ。


ナースコールに呼び出された看護師が病室に入って来ると、ぼくはその時あいつと話していたので、カーテンの隙間からはぼくの背中が覗いていた。


慌てて看護師はぼくに掴みかかり、ベッドに寝かそうとやっきになった。


「何をしてるんですか! 寝ていてください! 今は動いていい状態じゃあないでしょう、まったく何を考えて。」


言われていることはもっともなのだが、まだぼくは自分の症状も何も、わかってはいないのだ。それなのに襟首をつかんで思い切り振り回されたのでは、あんまりではないだろうか。


おまけにあいつは看護師の手から解放されて振り返ると、姿形もなく消えていたのだ。

さんざんだ、と思いながらもおとなしく引き下がり、これ以上振り回されてはたまらないのですごすごベッドに横になった。


その後担当医が呼ばれ、診察と運び込まれた時の症状を説明された。


桜並木の下で通りすがった若者が救急車を呼んでくれたらしい。現場では完全に心停止していたので救急病院に運ばれたのだが、救急車に乗せられ病院へ向かおうと桜並木から出た途端心肺が動きだし、病院に着く頃には脈拍は正常値まで戻っていたらしい。


一日そこで様子を見ていたが、一向に悪化しないところをみて、いぶかしみながらもこの病院に搬送されてきたようだ。


診察の結果、体はいたって健康。検査をしても原因はわからず、念のためもう一日入院し、不思議がられつつもしばらくは絶対安静を言い渡され、帰ってきたのだ。


社に連絡を入れ、診察の結果を伝えたところ、落ち着いて仕事に復帰するどころか休暇をもらってしまった。


そんな無責任な報告で、もし仕事中にまた倒れられてはたまらない。そんな責任をとらされるのはごめんだ。課長のいそいそはそう言っていた。


「また容体が悪化してはいけない。しばらくは様子を見るように。」


極めてスマートに、課長は丸くまとめた。

そんな訳で、期限のわからない休暇を持て余しながら、ぼくは自宅に帰った。二階建てのアパートの一階、向かって左側の部屋。


狭いが日当たりのいい、静かな部屋だ。


親切な老看護師が洗濯しておいてくれた背広をハンガーにかけ、クローゼットにしまいながら、抑えてきた疲労がどっと押し寄せ、浅い溜息がこぼれた。


なにがいけなかったのだろう。歯車がどこで欠けたのか、大きく狂ってしまった。狂ったとすれば、あの雨の桜の木の下だ。だって、他に考えつかない。


たびたび現れるあいつも、何か関係しているのか。わからない。ただ、恐ろしいような心地よいような声と香りが、強く残っている。


この数日で、何歳も年をとったように思える。明日社に連絡をして異常はないと言ったところで、たかが一日では何も納得はしてもらえないのだろう。仕事にはしばらく行けそうになかった。


「なんなんだよ、まったく」


うなだれて襖にもたれかかると、腹が低く鳴った。


「腹、へったなあ」

また溜息をつくと、腹が呼応して鳴いた。

思えば朝から何も口にしていなかった。あの雨の朝かき込んだお茶漬けが、ひどく懐かしく思えた。


「ご飯、できてるよ」

台所から声がした。開け放した扉から、カレーのような匂いが漂ってくる。


おお、いつぶりだろうか。カレーなんて。わずかに安堵した心持ちになる。


「わかった。今行く」

なんの気なしに答えた。

答えてしまってから、しまった、と思った。


この声。誰もいないはずの家で、声をかけられた。何を納得しそうになっていたのだ、と冷や汗をかきながら、扉から頭を出してそっと台所の方をのぞく。


そしてこの声。何よりも問題なのは、この声なのだ。


ズボンとワイシャツを身につけたまま、おそるおそる台所への扉を開けた。開けなければ良かったかも知れない。だがそのままにしておくことはできなかった。


「おかえり。夜彦さん」

体にぴったりとした黒い服の上にエプロンをつけて、そいつは立っていた。コンロの上には湯気の立った鍋があり、食パンのおまけのシールでもらったものを、ぼくがカレー皿として愛用している長めの皿を持ちながら、こちらをひょいと向いた。


「お腹、すいてると思って。作っちゃった。」


ご飯を盛った上にカレーをかけながら、ころころと笑った。


「君は・・・一体どうやって」

そう口にしかけて、ぼくは口をつぐんだ。

聞きたいこと、問いただしたいことはたくさんあるのだが、きっと、まともな答えは得られないだろう。どうせ笑ってはぐらかして、また消えるのだろう。


腹もへっていることだし、それならなるにまかせてしまおうか。一度、死んだも同然なのだ。


妙にすわった気持ちになり、ぼくはちゃぶ台についた。もう何が起きても、いいような気がした。


そいつはぼくの前に、ことりと皿を置いた。久しぶりに見るカレーは、懐かしいような、くすぐったいような匂いがした。得体の知れない、気味の悪い女が作ったものだとしても。それはうまそうだった。


「冷めないうちに食べよう。夜彦さん」


スプーンをぼくに手渡し、そいつもちゃぶ台について食べはじめた。


自分も食べるくらいだから、おかしなものは入っていないのだろうな。ちらりとそいつを見てから、ひと口食べた。なんとも懐かしく、ほどよく辛く、美味しかった。今までこれほどのカレーは食べたことがないように錯覚するほど、美味しかった。


ふた口めを飲み込んだ時に腹がきしむような音をあげたので、それは空腹のためだとわかった。わかってもやはり、うまかった。


ぼくは食べながら、ふとこいつは何者なのか、聞いてみようかと思った。もしこのカレーになにか仕込んであったら、ぼくはもうどうすることもできないのだ。だったら、聞くだけ聞いてみようと思った。


「なあ。君は何者なんだ?」


「なにもの?」


そいつは首をかしげた。なんだか、堅苦しい。その言い方。くりくりと目を細める。


「そろそろ、教えてくれたっていいだろう。君はどうしてあの日あそこにいたのか、君は誰なのか。名前も、どうやってこの家に入り込んだのかも。」


言い連ねていくと、知らないことだらけだった。こいつは何もかもぼくのことを知っているふうなのに、こいつのことはいっさいなにもわからない。そもそもあの日ぼくを呼び止めたとき、こいつはぼくの下の名前を呼んだのだ。


そいつはスプーンにすくったひと口ぶんのカレーをふうふうと冷ましながら、ぱちくりした。


答える気がないのか、これから答えるのか、わからない沈黙が漂う。このままふっと消えてしまうのでは。そんな気さえした。


冷まし終わったカレーの乗ったスプーンを、そいつはゆっくりと持ち変えた。話しはじめるのか。と期待したが、なにも言わずそいつはスプーンをぼくの前に突き出し、唇を尖らせた。


「夜彦さん。あーん」


何事もなかったかのように、そいつはちょんちょんとスプーンを小刻みに揺らした。

小馬鹿にするでもない、聞いていない訳でもない。今は整理しているの、と言うような目で、あーん、と言った。


「答えてくれ」

ぼくは言った。


「夜彦さん」

そいつは言った。


「夜彦さんはほんとに、知りたい?」

ちょん、と揺らして尋ねる。


「ああ」

スプーンの先から少し遠ざかりながら、答える。


「じゃあ、私と、お出かけしましょう」

お出かけ。ふふ、とそいつは笑った。


「夜彦さん、お休みをもらったんだから。お泊りしましょう」


お泊り。歌うようにさえずる。


「はぐらかさないで、答えてくれ」

ぼくはイライラして、強い口調で言った。

それでもそいつは気にした様子はなく、お泊り、お泊り、と歌いながらスプーンをちょんと揺らす。


「あーんしてくれたら、行き先を教えてあげる」


いたずらっぽく微笑みつつ、ころころと笑う。

ぼくは憤慨した。


「いい加減にしてくれよ。他のことだって、いろいろ答えるべきことはあるだろう。おちょくっているのか? ぼくはもう限界なんだ!それに、そうだ。もしこれを食べなかったら、ぼくはどうなるんだい?」


目が覚めたら見知らぬ場所にでも立っているのかい? やけっぱちでぼくは笑い飛ばした。


そいつは表情ひとつ変えずに、ふふ、と笑った。それもいいね。そう言ってまたスプーンをちょん、と揺らした。


大きな目がぼくとスプーンを交互に見ている。


ぼくは恐ろしくなった。何かとんでもないことを言ってしまったような気がした。ぼくのうなじを冷や汗がつたっていく。


そいつはにこにこしながら、スプーンをちょんと揺らして、夜彦さん。あーん。とぱちくりする。


「大丈夫。ちゃあんと冷めてるよ」


形のいい唇を小さくして、ふうっと息を吹きかけて見せる。カレーと、蠱惑的な甘さを含んだ香りの吐息が、スプーンからあまり離れていないぼくの顔にかかった。


「ね。はい。あーん」


ぼくは困ってしまって、、あたふたと落ち着きなく


座布団をなおしたり水を飲んだりして誤魔化そうとした。


そいつはそれを楽しそうに見ながら、ほらほら、とスプーンを揺らす。


スプーンがぼくを挑発するように、ちょんと跳ねて光る。


こいつ、一体どういうつもりなんだ。

慣れないやりとりにパニックを起こしそうになる。


また鼻に誘惑するように甘い風がかかる。

ぼくはもうなくなってしまったコップの水を見て、足しに行くと言って逃げ出したい衝動に駆られた。が、同時に、ずっとこうしていたいような、鼻からの香りに頭が痺れたような心地でもあった。


「よーるひーこさん」


スプーンの銀色をきらきらさせながら、あーん、して。ほら。とぱちくりする。


ぼくはどっちつかずにぐらぐらしながら、酔いがまわったように顔を赤く染める。


カーテンの閉まっていない窓からは月明かりが差し込み、四部咲きになった桜がぼうっと道の向こうに浮かび上がっていた。


時計の針は午後11時を指している。

ぼくはまだ、ぐらぐらしている。




人生はわからないものだ、とつくづく思う。

どうなってもいいとやけっぱちだったはずなのに、ふいに熱が冷めると、すっかりあいつのペースに飲み込まれて、また弄ばれている。


情けないとは思いながらも、結局ぼくは突き出されたカレーを食べた。よく冷まされた、冷たいカレーだった。


ぼくは東京都の北の端に位置する、小さな街に来ている。埼玉県に突き出しているみたいなかたちの、それまで知るよしもなかった街だ。


あいつが言い出した外出なのだから、なにかここに原因があるのだろうか。


あの後また消えてしまったあいつが言い残した待ち合わせの時間まで、あと12分。ぼくは駅の連絡通路にあるベンチに座って、缶コーヒーをすすった。


あいつの墓参りじゃあないよな。まさか。

ぼくの事故現場での事や、ふっと消えるあいつの説明がつかない行動を見て、ぼくは薄々、あいつは幽霊やその類なのでは、と思っていた。


ああ、でも、それってカレーは作れないのかな。


そんな事を考えながら、コーヒーをすすった。



続く

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