プロローグ
ぼく、物書き志望の空羅が描く、渾身の純愛物語。
幽霊未満、妖怪以前の元人間あいつ。
あいつのおかげてぼくの人生はめっちゃくちゃになってゆく。
ぼくはどうなってゆくんだろう。
郵便局員、稲田夜彦は俗世から消え、存在しない女の子、あいつは俗世の薄皮一枚向こうにぼくを引きずりこんだ。
先は見えない。
未来も見えない。
でもこのままあいつを放ってもとの日常へ帰ることは、何故だかだんだんできなくなっていく・・・
恋なのか?
恐怖なのか?
このドキドキの正体は、まだぼくには分からない。
プロローグ
そいつがやってきたのは春だった。
いや、そいつを見つけてしまったのは雨だった、というべきかも知れない。
いやいや、そいつに出会ったのは桜の木の下だった、の方が正しいかも知れない。
まあ、いい。そいつとはそんな日に、運命の歯車に引き合わされてしまった。
四月だというのに桜が咲く気配もない、長雨の日だった。気圧の低さから見て、ほとんど台風のような天気図を予報で見た通り、叩きつけるような暴風雨に見舞われた。その中を、ぼくは仕事に向かっていたのだ。
隣町の郵便局に務めているぼくは、普段健康のため歩いて通勤をすることにしているが、その日ばかりはあまりの悪天候に電車で隣町の駅まで行き、そこから郵便局まで、雨風と格闘しながらふらふらと歩いて向かっていたのだ。
道中私立小学校のちょっとした桜並木があり、そこで少しでも雨をしのげればいいな、とぼくは思っていた。
案の定、まだ葉もついていない桜だが、着いてみたらいくぶんかはましになった。上からしたたってくる雫に、傘を真上に構えて備え、もう大丈夫、という気になった。
そう、なってしまった。
その気の抜けた一瞬に、声をかけられてしまった。
「ヨルヒコ、さん」
ふいに、突然のことだった。
勤め先の上司も先輩も、稲田、と呼ぶので、呼ばれなれていない下の名前をつかれたのがいけなかった。
おそるおそる振り向いた先に、そいつはいた。
桜の木に柔らかくもたれかかって、ぼくとそいつの距離はさほど離れていなかった。そいつがあまりに遠い、ものを捉えていないような目をしているので、ぼくを見ているのだと気づくのに少し時間がかかった。
「夜彦さん」
そいつはもう一度、ぼくの名前を呼んだ。ぼくは辺りを見回したが、誰もいなかった。
「あの、私を、呼びましたか?」
ぼくは、尋ねた。体をそいつに向け、はっきりと尋ねた。が、尋ねてからしまった、と思った。
「夜彦さん」
頷きながらみたび繰り返し、そいつはぼくを見た。
目が合った瞬間、気がついた。雨が、風が、嘘のように止んでいる。車が消え、人通りがなくなり、音がなくなっている。
何もいない。なにもない。
ただぼくと、そいつと、桜があった。
気味が悪かった。ぼくは早くこの場を去ろうと、努めて普通に、冷静に話しかけた。
「申し訳ありません、これから仕事でして、あいにくですが時間がありません。何か私に御用がお有りでしたら、こちらの方に連絡をしていただけますか。」
背広のポケットから名刺を取り出そうとすると、そいつは片手をあげてぼくを制した。
「行けないよ」
「え、はい?」
「夜彦さん、お仕事行けないよ」
そいつは首を静かに振り、いけないよ、と言った。
なんだか薄気味悪く、話していてもらちが明かないと悟ったぼくは、失礼、と踵を返し、目をそらして立ち去ろうとした。しかし、脚が全く動かない。俗にいう金縛りのように、脚だけがその場に縛り付けられているかのようだった。
「夜彦さん」
後ろから、そいつの声だけがした。
恐ろしかった。体の芯から、恐怖が汗になって吹き出てきた。
「夜彦さん、怖がらないで」
怖がらないで。そいつは繰り返した。
「ゆっくり深呼吸して、下を、見て。」
息が浅く速くなっているのに気づき、言われた通りに少し深く吸う。そうした方がいいように思われた。
だんだんに呼吸が整ってきたので、恐々と、下を見下ろした。
見下ろした瞬間は、それがなんだかわからなかった。よく見覚えのある、親しみのある顔だった。怖がらないで。もう一度言われて、はじめて気がついた。
ぼくが、倒れていた。
もがき苦しんだようにシャツは乱れ、ぬかるんだ道にはぼくがのたうちまわったくぼみができていた。右手が胸の辺りに曲がっている。
「8時12分47秒。急性心臓麻痺」
そいつは穏やかな声で、歌うようにいった。よく澄んだ声だった。
「これは、ぼくか?」
「うん」
「ぼくは、死んだのか?」
「見ての通り」
機械のように尋ね、機械のように答えた。
何か叫びたかった。否定し、言い訳し、目を覚ましたかった。これは夢だと思いたかった。
でもどこか頭の奥で冷静に、これは現実なのだとわかっていた。今まで何度もあったそういう場面のように、目の前に逃避する事のできない現実を突きつけられたのを、どこか他人事のように感じていた。
「そうか」
「うん」
振り向かずうつむいたまま、ぼくは頷いた。
そいつは女だった。この桜並木の下で、その女だけが問われてもなく答えた。そして、ぼくはふいに理解した。
「君が、ぼくのお迎えか」
「うん」
ひと呼吸間をおいて、そいつは言った。
「君は天使か?死神か?」
「子どものようなことを聞くね」
ふふ、とそいつは笑った。
「そうね。それはあなたが決めること。これからよろしくね、夜彦さん」
「これから?」
訳がわからず、ぼくはおうむ返しに繰り返した。
「だって、君はあれだろう。ぼくをあの世に連れていって、帰って来れなくしてしまうんだろう」
言っていて落ち着きを失っていくぼくを、そいつはおかしそうに見た。
「あなたはまだ、死んでいない」
死んでいない。おかしそうに目を細め、澄んだ声で口ずさむ。
「助かるの。この後」
「ぼくは・・・助かるのか⁉」
「助かるの」
ふふ、と笑いながら、そいつはもたれていた桜の幹から体を起こし、ぼくの前まで歩いて来た。
この後助かるとしても、今、この場で命をとられるのでは、と怖くなったが、声にならなかった。
そいつはぼくの目の前までくると、ぼくの顔を覗き込んでころころと笑った。
「夜彦さん」
何度目かはわからないが、そいつはぼくの名前を呼んだ。
夜彦さん。怖がらないで。そんなに怖がっていたらこれからどうするの。
大きな目を嬉しそうに見開き、夜彦さん、とぼくの頭を撫でる。
ぼくは怖くて、されるがままにされていた。誰がぼくの命を救ってくれるのか知らないが、早くしてくれ、と祈りながら、されるがままにされていた。
柔らかいね、と、ころころ笑いながら、髪の毛をわさわさ撫でる。
辺りには人っ子ひとりなく、助けが本当にくるようには思えなかった。
細くて白い手のひらが、ぼくの頬を包む。
震えてる。怖がらなくて、いいのに。おかしな夜彦さん。
ひやりとした感触が、頬に張り付いてとれない。
ぼくはなす術なく、凍りついたように立ち尽くした。そいつは大きな目を楽しそうにしばたき、ぼくを撫でてやめない。
夜彦さん。何度も、何度でも口ずさんだ。夜彦さん。夜彦さん。
ぼくはそのひと言ずつに寿命が近づいているようで、恐ろしくてたまらなかった。
桜並木はぼくらを見下ろし、ぼくらは桜並木に囲まれているようだった。
夜彦さん。
がたがたがた。
夜彦さん。
どきどきどき。
ただそうやって、立ち尽くした。
雨の音もひと気もない中を、ただ呆然と、立ち尽くしていた。
そうやって、そいつは、ぼくのもとにやって来た。
まだやって来たうちには入らないかも知れないが、そいつがぼくの人生に入り込んで来たのは、紛れもなくその春の、雨の、桜の下のことだった。