姉に婚約者を奪われた私ですが、田舎の伯爵様は私の話を聞いてくださいます
「あなたの婚約者を、お姉様の婿に迎えることにしました」
母は、夕食の献立を変えるような口調で言った。
その隣で姉が左手を持ち上げる。薬指には、小さな青い石の指輪が光っていた。
私が十八歳の誕生日にもらったものだ。昨日、母が宝石商に洗わせると言って預かった。
石の色を選ぶとき、婚約者のマティアスは、私の目に似ていると言っていた。
「少し緩いけれど、直せばいいわね」
姉は指輪を回した。
私は向かいの椅子に座るマティアスを見た。いつもの席だった。私がその隣に座ろうとしたら、母が姉の横へ椅子を動かしたので、今日は一人でこちら側にいる。
「……どういうことでしょうか」
「説明しただろう。アデルハイトには、家を継ぐための婿が必要だ」
父が苛立ったように指を組んだ。
姉に婿が必要なのは、私の婚約が決まった二年前も同じだった。
マティアスは伯爵家の次男で、爵位を継ぐ予定はない。結婚後は官職の給料で暮らすため、二人で住めそうな借家の話もしていた。
その彼が財務院の書記官に採用されたのは、先月のことだ。
以来、姉は急に彼との夕食を楽しみにするようになった。
「父上からお話をいただいて、僕もよく考えたんだ」
マティアスがようやくこちらを向いた。
「王都で仕事をするには、人との付き合いが大切になる。アデルハイトなら、その点でも力になってくれる」
「私との婚約は、どうなりますか」
「解消する。双方の父親で合意している」
答えたのは父だった。
膝の上で握った手が痛くなった。
「私には、何もお聞きにならなかったのですね」
「あなたに聞けば、こうして話を長くするでしょう」
母が溜息をつく。
「ユスティナ。お姉様には人を惹きつける力があるの。あなたにも良いところはあるけれど、向いていることは違うわ」
小さい頃、姉の新しいドレスを羨ましがったときも、似たことを言われた。
お姉様は人前に出るのだから。あなたは家で本を読むほうが好きでしょう。
夜会へ行きたいと言えば、姉の付き添いの侍女が足りなくなる。私の誕生日に姉の客が来れば、お祝いは後日。その後日は、たいてい来なかった。
マティアスとの婚約だけは、私のものだと思っていた。
「ご不満なら、彼に聞けば?」
姉が甘く笑った。
「私が無理に奪ったわけではないのよ。マティアス様も、こちらが良いとおっしゃったの」
彼は否定しなかった。
その沈黙で、もう聞くことはなくなった。
「分かりました。指輪の箱を持ってまいります」
「ユスティナ、そんな拗ねた言い方をするものではないわ」
母の声を背に、私は食堂を出た。
二階の部屋には、結婚後に使うつもりで縫っていた食卓布が置いてあった。四隅に小さな青い花を刺した、二人用の布だった。
途中まで縫った針を抜き、糸を切る。
泣いたのは、箱を届けて部屋へ戻ってからだった。
◇
十日後、父は私の新しい縁談を持ってきた。
相手はローデリク・リント伯爵。王都から馬車で四日かかる、北西の領地を治めているという。
「二十四歳で、婚歴はない。先年父親を亡くして家を継ぎ、そろそろ妻を迎えたいそうだ。仲介を頼まれた夫人とは、お前の母も面識がある」
「私は、その方を存じません」
「だから顔を合わせるのだろう」
父は机に置いた書類から顔も上げなかった。
「伯爵家なら不足はない。お前にも十分な縁談を用意したと、マティアスの父上にも説明できる」
私は説明のために嫁ぐのだと思った。
姉が私の婚約者を奪っても、妹は良い家へ嫁いだ。誰にも損はなかった。そういう話にしたいのだ。
顔合わせの日、母は私に姉のお下がりを着せた。
薄桃色のドレスは肩が少し余り、胸元の飾りも私には華やかすぎた。自分の灰青色の服を着たいと言うと、母は「相手に失礼でしょう」と取り合わなかった。
仲介人の夫人の屋敷へ着くと、母はもう私が嫁ぐと決まったかのように話し始めた。
「この子は派手な暮らしを好みませんし、地方で落ち着いて暮らすのが似合うと思いますの」
私は母の横で座り、茶器を見ていた。
姉の好みは何度も聞かれたのに、私の好みは母が決めていた。
「お嬢さんは、王都で何をして過ごされますか」
伯爵の声がして、私は顔を上げた。
濃い茶色の髪を短く整えた、背の高い人だった。茶を飲む前に砂糖壺を私へ回してくれたけれど、それ以外には余計な動きをしない。
「この子は刺繍を――」
「奥様。お嬢さんのお話を伺ってもよろしいでしょうか」
母が口を閉じた。
怒った声ではなかった。しかし、伯爵は母の返事を待っていた。
「刺繍と、読書を少し。ときどき、市で布を見ます」
「どのような本を?」
「旅行記が好きです。海辺の町や、山の村のものを」
「それなら、うちの領地は山の村のほうですね。ただ、本に載るほど珍しいものはありません。冬は雪が多く、春は道がぬかるみます」
もっと美しいところを挙げるのかと思っていたので、返事が遅れた。
仲介人の夫人が笑う。
「伯爵。お嬢さんが驚いていますよ」
「住む方には、先に知っていただいたほうがいいかと」
伯爵は少し困ったように眉を下げた。
母は急いで、私ならどこへでも喜んで行くと請け合った。持参金の話を始め、婚約の日取りにも触れる。
私の茶は、一口も減っていなかった。
「私はまだ、お嬢さんとほとんど話しておりません。本日、お返事をすることはできません」
伯爵が言った。
母の笑顔が止まる。
「ですが、娘には異存はございませんのよ」
「私が、まだ判断できておりません」
はっきりした返事だった。
夫人が、伯爵は領地の橋の改修について財務院へ申請に来ており、一月ほど王都に滞在すると説明した。その間に、改めて会う機会を設けてはどうかと。
母は頷くしかなかった。
帰りの馬車では、窓が閉じられた途端に叱られた。
「あなたが暗い顔で座っているから、先方がためらわれたのよ」
「お話は、いたしました」
「もっと嬉しそうにできないの? 次にお会いしたら、ぜひ嫁ぎたいとお伝えしなさい」
屋敷に戻ると父にも同じことを言われた。
姉の婚約披露が迫っている。それまでに私の縁談も決めたいらしい。
「お姉様のお祝いに、水を差さないでちょうだい」
母は最後にそう言った。
私の結婚の話をしていたはずだった。
◇
二度目の面会では、母は仲介人の夫人と同じ長椅子に座った。
伯爵と私の間には小さな卓があり、二人の会話は向こうにも届く。隠れて話せる場所ではなかった。
それでも、母が横からすぐ答えられない距離があるだけで、少し息がしやすかった。
「先日は、緊張させてしまいましたね」
「いえ。私のほうが、上手にお話しできなくて」
「私も得意ではありません。夫人から、道が悪い話で縁談を始める人があるかと叱られました」
思わず笑うと、伯爵はほっとした顔になった。
今日は領地の地図を持ってきていた。川が一本、町を抜けて流れている。屋敷は町から少し離れた丘の上に描かれていた。
「町には馬車で行くのですか」
「歩けます。坂があるので、帰りは疲れるかもしれませんが」
「布を売るお店はありますか」
「あります。ただ、私はその店へ入ったことがないので、品揃えまでは」
知っていることだけを答える人だった。
「こちらの道は、川沿いなのですね」
「はい。新しい橋ができれば、向こう岸の村から市へ来やすくなります」
「では、お店も増えるでしょうか」
「そうなればと思っています」
伯爵が地図に目を落とす。その指先に、小さな紙の切り傷があった。
領地のことを話すときは、最初に会ったときより言葉が滑らかになる。私はそれを聞くのが好きだった。
けれど、話の切れ目に彼が目元を押さえたので、地図から顔を上げた。
「お疲れではありませんか」
「いえ。昨夜、申請書を直していて、少し遅くなっただけです」
「続きを伺いたいですけれど、今日はお茶が冷める前に飲みませんか」
伯爵は卓の茶器を見て、ようやく笑った。
「不備があるたびに、父なら一度で済ませただろうと思ってしまうんです」
「お父様も、最初から慣れていらしたのでしょうか」
彼はしばらく考え、首を振った。
「初めて王都へ来た日は、窓口を間違えたと聞いたことがあります。……忘れていました」
茶器を持つ彼の肩が、少し下がった。
私も茶を飲んだ。今度は地図を挟まずに、王都で迷った道の話をした。
帰る前に、伯爵が尋ねた。
「あなた自身は、この縁談を望んでいますか」
向こうで母の茶器が鳴った。
私は「はい」と言おうとした。言えば、帰り道で叱られずに済む。
けれど地図の端を押さえる彼の指を見ていたら、別の言葉が出た。
「あなたのことを、もう少し知りたいと思っています」
母が何か言いかける。
その前に、伯爵が頷いた。
「私もです。次にお会いするときは、領地の話以外もできるようにしてきます」
夫人が母に、次の日程を尋ねた。
帰り道では、返事を引き延ばすつもりかと責められた。それでも、もう会いたくないとは思わなかった。
部屋へ戻り、今日聞いた町のことを紙に書いた。坂道。布の店。川に架かる橋。
その下に、紙で切った指、と書いてしまい、慌てて線を引いた。
翌週は、夫人の屋敷の庭を歩いた。
母と夫人が数歩後ろをついてくる。私は外套の下に、姉のお下がりではなく自分の灰青色のドレスを着ていた。母には渋い顔をされたが、夫人が庭を歩くなら裾の短いものがいいと招待状に書いてくれたのだ。
「その色が、お好きなのですか」
伯爵に聞かれ、頷いた。
「こちらのほうが落ち着きます」
「最初の日は、服を気にされていたので」
肩の余るドレスを、私は何度も引き上げていた。見苦しかったかもしれないと俯くと、彼は慌てた。
「失礼。服のことに口を出すつもりではなく」
「いえ。あれは姉の服だったので、私には少し大きくて」
母に聞こえたかと思い、後ろを振り返った。
伯爵は私の視線を追ったが、理由を問い詰めはしなかった。
「あちらの温室を見ませんか。夫人が、新しい苗を取り寄せたそうです」
温室へ入ると、母は夫人の蘭に気を取られた。
私は窓際の小さな鉢を眺めた。名札には『青星草』とある。
「うちにもあります。冬が長いので、花が咲くのはここより遅いですが」
「好きな花です」
「庭へ植えるものは、庭師と相談して決めています。あなたが来られるなら、好きな花も教えてください」
その言葉で、喉が詰まった。
実家の庭にある花は、すべて母と姉が選んでいた。私が青い花を植えたいと言ったら、姉の好きな薔薇に合わないと断られた。
「私が、違うものを好きでもよろしいのですか」
「ええ。庭は広いですし」
伯爵は何でもないことのように答えた。
私は鉢から目を離せなかった。
「花だけではなくて……あなたと意見が違うときも、聞いていただけますか」
彼はすぐには答えなかった。
曖昧な質問をしてしまったと、胸が縮む。
「聞きます。ただ、すべてあなたの望むとおりにできるとは、約束できません」
顔を上げた。
「できないときは、理由を話します。私の考えが間違っていたら、変えます。あなたにもそうしていただけると助かります」
私はゆっくり頷いた。
彼の返事を思い出すたび、次は何を話そうかと考えるようになった。
◇
姉の婚約披露の日、私は家族の肖像を飾る係になった。
客席へは出ないでほしいと、姉に言われていた。私とマティアスの婚約を知る客もいる。余計な勘繰りをされたくないらしい。
廊下で額の位置を直していると、マティアスがやってきた。
「ユスティナ。新しい縁談は、うまくいっているそうだね」
あの夕食以来、初めて二人で話した。
以前なら彼が訪ねてくる日を待ち、何を話そうかと朝から考えていた。それなのに今日は、額を掛け終えたいと思った。
「まだ、正式な婚約はしておりません」
「伯爵なら良かったじゃないか。領地も持っているし、君には僕より良い相手だよ」
額の下の台に置いていた手を離した。
「だから、君にも分かってもらえると思っていた。誰も不幸にはならなかっただろう?」
彼は笑った。
私が泣いていた十日の間も、この人はそう考えていたのだろうか。
「新しい縁談が良いものでも、あなたに婚約を解消された日のことは変わりません」
マティアスの笑みが薄れた。
「今日は、お姉さんのお祝いだよ」
「分かっています。ですから、客間へお戻りください」
私は額の紐を持ち直した。
彼は少し待ってから、廊下を戻っていった。
客間から姉の笑い声が聞こえる。もう、それを聞き分けようとはしなかった。
その夜、ローデリク様への返事を書いた。
次に会うとき、私から縁談を受けたいと伝えると決めていた。けれど、その前に知らせることがある。
元の婚約者が姉の婿になると決まったこと。新しい縁談を早く決めるよう、両親に迫られていること。
隠したままでは、彼に選んでもらったとは思えなかった。
祖母が私に遺した銀の裁縫箱も、今は姉の飾り棚にある。持っていきたいと言えば、母は家の品だと取り合わなかった。箱のことと、祖母の遺言を預かっている実家の顧問の名も書き添えた。
何度も書き直し、夫人への礼状とともに封筒へ入れた。母は礼状だと聞くと、封を開けずに使用人へ託した。
次の面会で、ローデリク様は手紙を机の上へ置いた。
同席している夫人はすでに内容を知っていた。母は別室で、婚約時の贈り物について夫人の侍女と相談している。
「お話しくださって、ありがとうございます」
それだけ言って、私の返事を待ってくれた。
「私は、家を出たいと思っています」
声が震えた。
「でも、誰でもよいから結婚したいのではありません。あなたと話していると、次に会う日が楽しみになります。領地のことも、もっと知りたいです」
ローデリク様の手が、卓の上で少し動いた。
「ここでお断りして、帰ったら叱られるからではありません。あなたとの縁談を、受けたいと思っています」
言い終えてから、彼の顔を見た。
微笑んでいるのに、耳が赤い。
「私も、あなたを妻に迎えたい」
彼は居住まいを正した。
「橋の説明をしたとき、あなたは町の店が増えるかと聞いてくれた。私は、その先の暮らしの話をもっとしたくなりました。それに、父と比べて焦っていたことまで、あなたには話してしまった。帰ってから、次に会う日は何を話そうかと考えていました」
彼は一度、夫人を見た。夫人が口元を押さえているので、照れたように私へ向き直る。
「地図を広げるだけでは駄目だと思いながら、次の日も地図を持ってくるところでした」
私は笑ってしまった。
「持ってきてくださっても、嬉しかったです」
「では、次は持ってきます」
ローデリク様も笑った。
その顔をもっと近くで見たいと思った。そう思った自分に驚いて、慌てて茶器へ目を落とした。
正式な婚約は、その三日後に結ばれた。
持参金は多くなかった。父は姉の婚礼に費用がかかると言い、母は私が伯爵家へ嫁げるだけで十分だと言った。
ローデリク様は契約を確認し、不足を責めなかった。その代わり、私の私物と、祖母が私に遺した銀の裁縫箱を、荷物に含めるよう求めた。
「家の銀器を、勝手に持ち出させるわけには」
父が渋ると、仲介人の夫人が祖母の遺言の写しを示した。私の手紙を読んだ夫人が、私の承諾を得て顧問に問い合わせ、箱の受取人である私のために写しを取り寄せてくれていたのだ。
母が私を睨んだ。私は目を逸らさなかった。
姉は銀の箱を撫でて、「使わずに飾っておけばいいのに」と言ったが、最後には返した。
結婚式は二月後、王都の礼拝堂で挙げた。
それまで私は実家で暮らし、彼との面会には夫人かその侍女が付き添った。ローデリク様は申請を終えて一度領地へ戻り、手紙を送ってくれた。春の雪解けと、布屋で何を売っているかを店主に聞いた話が書いてあった。
私のために店へ入ったのだと知り、返事を書く前に三度読んだ。
式の日、姉は私の薄青い婚礼衣装を見て笑った。
「向こうでは着飾る機会も少ないでしょうから、ちょうどいいわね」
返事をする前に、礼拝堂の扉が開いた。
ローデリク様が立っていた。私を見て、少しの間何も言わなかった。
「……似合っています」
その短い言葉で、姉が何と言ったかはどうでもよくなった。
誓いのあと、左手に新しい指輪をはめてもらった。
石はついていない。私が選んだ、細い金の輪だった。
彼の指にも同じ輪がある。
並んだ二つを見て、私はようやく深く息をついた。
◇
リントの屋敷へ着いたのは、夕方だった。
旅の間、私はよく眠れず、最後の日は景色を見る余裕もなくなっていた。馬車が止まると、夫は先に降りて手を差し出した。
「夕食までに、少し休みますか」
「皆様に、ご挨拶を」
「明日でもできます。私から伝えますから」
申し訳なくて謝ると、夫は私の顔を覗き込んだ。
「具合が悪いときは、無理をせずに教えてください」
それでも謝ろうとすると、彼は私の手を握ったまま、少し声を和らげた。
「休んでいただきたいのです。挨拶を急ぐより、まず身体を楽にしてほしい」
私はようやく頷いた。
寝室へ案内されると、女中が靴を脱がせてくれた。食事を部屋へ運んでもらい、私は夜になる前に眠ってしまった。
翌朝、慌てて食堂へ行くと、夫はパンをちぎりながら「眠れましたか」と聞いた。
昨日のことを責める人は、いなかった。
家を継ぐ姉には領地の帳簿を読む教育があったが、私には必要ないと言われていた。結婚前に夫へ話すと、領地の収支は執事と代官が見るので、まず屋敷のことから覚えればいいと答えてくれた。
それでも女中たちに聞かれるたび、正しい答えを探してしまう。
朝食は何時がよいか。寝具は薄くするか。今日はどの服にするか。
どれも間違えてはいけない気がして、決められなかった。
ある朝、夫が二種類のジャムを置いた。
「どちらが好きですか」
「あなたと同じものを」
「私は、どちらも食べます」
困って顔を上げると、彼はパンを二つに割り、それぞれに違うジャムを塗った。
「先に、味を見てみましょう」
私は片方ずつ食べ、黒すぐりを選んだ。
次の朝から、私の前には黒すぐりの瓶が置かれるようになった。
夫と初めて意見が合わなかったのは、庭のことである。
私は窓から見える場所に青星草を植えたかった。夫はそこへ果樹を増やす予定だと言った。
構わないとすぐ答えた私に、彼は庭の図面を広げた。
「花を見たいのは、どの窓からですか」
「私の部屋です。でも、果樹のほうが役に立ちますから」
「実がなるまで数年かかります。花が役に立たないとも思いません」
庭師も交え、果樹の間に花を植える案が出た。私は嬉しくなって頷いたが、夫は日照のことを聞き、庭師は木が育つと日陰になると答えた。
結局、果樹は予定どおり植え、私の窓の下に小さな花壇を作ることになった。
望んだ場所そのままではない。けれど、話が終わるまで、私はそこにいてよかった。
青星草が咲いた日、執務室へ知らせに行った。
夫は書類を置き、私と庭へ出てくれた。
「本当に、窓からよく見えますね」
「ええ。お部屋へいらしてください。お見せしたいです」
言ってから、顔が熱くなった。
夫が私の部屋へ来るのは、珍しいことではない。それなのに昼間から誘ったことが急に恥ずかしくなり、花に目を落とした。
「では、今夜も見せてください」
「夜は、暗くて見えません」
「そうですね」
彼が笑った。
私も笑うと、そっと手を握られた。
橋が完成したのは、翌年の春だった。
開通の日、私たちは川を渡って向こう岸の市へ行った。布屋の店主が夫を見つけ、私に「この方が布の名前を覚えようとなさって」と話してくれた。
夫は店の奥で咳払いをした。
私は、青い布を一枚買った。
その布で作った食卓布には、四隅に白い小花を刺した。
夫が広げるのを手伝い、二人で端を揃える。
以前途中で切ったものを思い出したが、胸は痛まなかった。
夕食の皿が運ばれてきたので、私は椅子に座った。
◇
実家からの手紙は、季節ごとに届いた。
母は姉の婚礼が盛大だったこと、婿が上官を招いた晩餐会のこと、新しい馬車のことを書いていた。最後に、私がこちらで恥をかいていないかと尋ねる一文があった。
無事に暮らしていると返すと、次には夫の領地の収入を聞かれた。私から数字を知らせることはしなかった。
二度目の冬、仲介人の夫人から別の手紙が来た。
年明けに夫が財務院へ橋の工事の報告を持参する予定だったので、王都で会えないかという誘いだった。その追伸に、実家の屋敷の話があった。
王都の屋敷を、売りに出しているという。
夫人を訪ねると、理由は思っていたより単純だった。
姉とマティアスは、互いの費用を減らそうとしなかった。姉は社交のための服と夜会、彼は上官や同僚へのもてなしに金を使う。父は婿の出世につながると言われるたびに支払い、母は姉が見劣りするのを嫌がった。
領地の収入は以前と変わらない。それなのに支出だけが増えた。
「お父様は、少し前から私の夫にも借入先を尋ねていらしたの」
夫人は茶を注ぐ手を止めた。
「領地の収入で返せる範囲を超えていましたから、お勧めできませんでした。屋敷を手放せば、ひとまず支払いは済むそうよ」
売却するのは、私が育った王都の屋敷だった。
領地の邸宅は残る。しかしそこには、姉が何度も嫌だと言っていた暮らしが待っている。
父はこれまで代官に任せていた仕事を、引退前に姉へ教え始めたらしい。
「婿殿が引き受けるのでは、なかったのですか」
「王都の官職をお持ちですからね。そこまで約束していないと、おっしゃったそうです」
家のためになる婿だと、父は言っていた。
何をしてもらえるか、確かめなかったのだろうか。
宿へ帰ると、母から面会を求める手紙が届いていた。
王都行きは母にも知らせていた。翌日の午後、宿の客間で会うことにした。
夫は同席すると言ったが、私は最初だけ一人で話したいと頼んだ。
「途中で席を立ちたくなったら、立ってください。私は隣の部屋にいます」
彼はそう言って、侍女を客間の扉のそばに残してくれた。
母と姉は、二人で来た。
姉の服は美しかったが、袖口の飾りが一つ取れていた。昔の姉なら、そんな服で外へ出ることはなかった。
私を見て、母は笑顔を作った。
「元気そうで安心したわ。伯爵様も、お変わりない?」
挨拶は短かった。
ほどなく母は、家の事情を話し始めた。屋敷の売却を止めたい。そのために夫から金を借りられないか。
「もちろん、家族同士ですもの。厳しい利息などは、なしでね」
私は母の顔を見た。
「いつ、お返しになる予定ですか」
「それは今後の収入によるわ。あなたは細かなことまで気にしなくていいのよ」
姉が私の指輪へ目を向けた。
「あなたのところは、余裕があるのでしょう? 橋も新しく造ったと聞いたわ」
「橋には、国からの補助金と、領地で積み立てたお金を使っています」
「だから、それほど出せるなら、実家を助けられるでしょうと言っているの」
昔と同じ言い方だった。
私のものが必要になると、姉のものになる理由が用意された。
「援助はいたしません」
口に出すと、手の震えが止まった。
「夫には領地の仕事があります。姉の王都での暮らしを続けるために、そのお金を使ってほしいとは頼めません」
「家族が困っているのに、見捨てるの?」
母が声を高くした。
「私も、婚約を取り上げられたときに困っていました」
「あれは、お互いに良い縁組になったでしょう」
「私は、あの日、何も選べませんでした」
母は、自分たちが縁談を用意したおかげで幸せになれたのだからと、言い募った。
「ええ。今は幸せです。でも、それを理由に、また姉へ譲れとは言わないでください」
母は鞄から封筒を取り出し、一瞬ためらってから私へ渡した。
中身は借用の申し入れだった。父の署名があり、担保の欄には領地の一部が記されている。
「お父様はそこまで考えてくださっているの。伯爵様にお渡ししなさい」
私は書面を読み終え、封筒に戻して母へ差し返した。
「お父様から夫へ、正式にお申し込みください。私から口添えはいたしません」
「ユスティナ。お母様のお願いが聞けないの?」
母は封筒を押し戻そうとした。
いつもなら、ここで私が折れていた。姉の機嫌が悪くなる前に、母の声が大きくなる前に。
けれど、私は受け取らなかった。
「聞いたうえで、お断りしています」
母の手が、卓の上で止まった。
私が謝るのを待っている。その顔を見ながら、私は自分の茶器を手に取った。
姉は夫と直接話したいと言った。私は侍女に頼み、隣室から夫を呼んでもらった。
夫は私の隣へ座り、母から書面を受け取った。
「返済計画と担保の価値を確認してから、回答いたします」
「妹は、こういうお金の話に慣れておりませんから」
姉が微笑んだ。
「私からご説明したほうが、伯爵様にもお分かりいただけると思いますわ」
「では、年間に返済できる額をお聞かせください」
姉は母を見た。
母が領地の収入を持ち出すと、夫はそこから領地の維持費と生活費を引いた額を尋ねた。
答えは出なかった。
「その数字がなければ、判断できません。妻が返済の予定を尋ねたのも、必要な確認です」
姉の笑みが消えた。
私へ向き直りかけたが、夫は書面から顔を上げ、続けた。
「申し入れについては、私からお父上へ返書を出します。妻に取り次ぎや説得を頼むのは、お控えください」
母は封筒を鞄へしまおうとして、夫が書面を持っていることに気づいた。
その手を膝へ戻し、帰り支度を始めた。
数日後、夫は父の申し入れを断った。
返済の見込みが薄く、領地の一部を失えばさらに収入が減る。屋敷を売ることで払える支出を、借金で残す理由がないという返書だった。
◇
マティアスが宿を訪ねてきたのは、帰郷する前日だった。
私一人との面会を求めたが、侍女のいる客間へ通した。夫は仕事で外出していた。
彼は私を見て、困ったように笑った。
「君からアデルハイトを説得してくれないか。彼女は何でも僕のせいにするんだ」
私は返事をしなかった。
「僕の会食は仕事のためだ。彼女の服とは違う。それなのに、僕も王都を出ろと言う。君なら、その違いを分かってくれるだろう?」
「姉とのことは、お二人でお話しください」
「ユスティナ。僕だって、ご両親に勧められて結婚したんだよ」
あの夕食で姉の横に座り、王都の付き合いには姉が力になると言った顔を思い出した。
「勧められても、姉を選んだのはあなたです」
彼は黙った。
やがて、話題を変えた。
「リント伯爵は財務院でも評判がいい。領地の橋の件も、期限内に報告を終えたそうだね。僕を紹介してくれないかな。仕事で付き合いのある家が増えれば、お互いに――」
「紹介する理由がありません」
言葉が途切れた。
「私は夫に、あなたが姉を選んだ経緯もお話ししています」
マティアスは眉を寄せた。
「そんなことまで言う必要があったのかい」
「これから一緒に暮らす相手でしたから」
「僕にも立場がある。もう少し、言い方を考えてくれてもよかっただろう」
私は卓に置かれた彼の手を見た。
以前は、その手が差し出されるだけで嬉しかった。
「あなたが姉を選んだことも、私が悲しかったことも、隠してはおりません」
彼は口を開きかけた。
「あなたを紹介するために、夫へ違う話をするつもりもありません」
彼が椅子に座り直す。もう一度笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「君は、昔はもっと優しかった」
「あなたが来る日は、楽しみにしていました」
それは本当だった。
だから、同じように戻れると思ってほしくなかった。
「でも、今日はお帰りいただきたいです」
「せめて、伯爵が戻るまで待たせてもらえないか」
「お約束のない訪問ですから、お待ちいただけません」
彼は私ではなく、侍女を見た。
侍女は私に一礼してから、扉を開けた。
彼は私を見たまましばらく動かなかったが、やがて立ち上がった。
玄関まで送ることはしなかった。
午後に夫が戻ると、私は訪問のことを話した。
彼は眉を顰め、次に来たら自分が断ると言った。それから、私の顔を見て口を閉じた。
「……自分で断ったのですね」
「はい」
夫が隣へ座った。
「泣きたくなったら、泣いてもいいですよ」
「泣きたいわけでは、ないのです」
少し考えて、彼の袖をつまんだ。
「手を握っていていただけますか」
すぐに、温かい手が重なった。
◇
春になる前に、実家の王都の屋敷は売れた。
売却で支払いは済んだが、蓄えはほとんど残らなかった。姉は、父が夫への援助を際限なく認めたせいだと責め、家督と財産管理の引き渡しを求めた。父は「お前も出費を増やしていただろう」と言い返した。
代官を交えて帳簿を確認した末、姉も自分の衣装代と夜会の費用を削ることになった。代官が収支を点検し、領地の維持費を先に確保する。その条件で、父は引き渡しを受け入れたらしい。
母も、まとまった出費には姉の承認が必要になった。一方の姉も、収支を確認して初めて、王都に屋敷を借り直す余裕がないと認めたらしい。
母も姉も、領地の邸宅を離れられなくなった。
次に来た母の手紙には、姉の愚痴と、父が隠居してから何も決めてくれないという不満が並んでいた。私に仲裁を求める一文には、返事をしなかった。
マティアスは、しばらく王都の借家で暮らした。
姉が交際費の仕送りを止めると、官職の給料だけでは以前の付き合いを維持できなかった。私と婚約していた頃には、その給料で十分だと言っていたはずなのに。
小さな家へ移り、使用人を減らすか。官職を離れ、妻の家で暮らすか。
彼は後者を選んだ。
王都での出世を望んで選んだ妻の家で、今度は領地の仕事を分担することになった。数字は読めても、どの水路から直すか、小作料の支払いをいつまで待つかは決められない。代官に判断を求めると、まず一緒に村へ行き、水路の傷みや農家の事情を確かめようと言われた。彼はその日程を決めることさえ渋ったらしい。
姉が「あなたもこの家の婿でしょう。私一人に任せないで」と言ったと、母の手紙にあった。
母は私なら彼に優しく教えられると書いていたが、私は実家の帳簿を読む教育さえ受けていない。
手紙を畳み、机の引き出しへ入れた。
初夏の朝、私は一人で花壇を見に出た。しばらくすると、夫が屋敷から歩いてきた。
果樹はまだ細い。それでも今年は、枝先にいくつか実がついている。
窓の下には青星草が咲いていた。
「来年は、あちらにも増やしたいです」
私が指すと、夫は頷いた。
「庭師に相談しましょう。あなたの花壇を見て、町でも育てたいという人がいるそうですよ」
「でしたら、株を分けられるか聞いてみます」
そう言って歩き出すと、夫に手を引かれた。
「その前に、朝食を」
「もう、そんな時間ですか」
「あなたを呼びに出てきたのに、私まで庭を歩いてしまいました」
笑いながら、二人で屋敷へ戻った。
食堂には私が縫った布が掛けられ、黒すぐりのジャムが置いてある。
夫が椅子を引いてくれた。
私はいつもの席に座り、パンを二つに割った。片方を夫の皿へ置くと、彼は私の好きなジャムを少し塗った。
「今日は、こちらにします」
私は笑って、自分の分にも同じジャムを塗った。
窓の外に、小さな青い花が見える。
食べ終えたら、もう一度二人で見に行こうと思った。
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