午前三時四十二分
少しでも、夢のような不穏さが残れば嬉しいです。
ふと、目が覚めた。
何か物音がした気がしたけれど、確信はなかった。
ただ、意識だけが急に浮かび上がってきたような、不自然な目覚めだった。
枕元に置いたスマホの画面がぼんやりと光っている。
時刻は、3:42。
……中途半端な時間だな。
部屋の中は暗く、カーテンの隙間から差し込む街灯の明かりだけが、家具の輪郭をうっすら浮かび上がらせている。
寝る前に閉めたはずのベランダ側のカーテンが、少しだけ揺れていた。
……窓、開けたままだったっけ。
実家にいた頃は、窓を開けたまま寝ることもあった。
でも一人暮らしを始める時、戸締まりだけはちゃんとしろと、親に何度も言われたのを思い出す。
ベッドから窓まではそこまで距離がある訳じゃない。
でも、今動くと微かな眠気はどこかへ消えてしまうだろう。
明日、起きてから確認しよう。
そんなことを考えていると冷たい空気が入り込んでいる気がして、私は布団を首元まで引き上げた。
起きるには早いし、このまま寝直せばまだ眠れる。
そうして私は、もう一度壁の方へ寝返りを打つ。
目を閉じる、その直前だった。
視界の端に、何か黒いものが立っている気がした。
思わず目を開く。
ベランダへ続く窓の前に、それはいた。
最初は何かの影かと思った。
けれど、違う。
輪郭は曖昧だ。煙のようにも、濃い影の塊のようにも見える。ただ一つだけ、足の形だけがやけにはっきりしていた。
あれ、人の足だ。
けれど膝から上はもやけていて、頭があるのか、腕があるのかも分からない。ただ、黒い何かがそこに立っている。それだけが、不気味なほど鮮明だった。
よく見えなくて目を凝らした次の瞬間、
それは走り出した。
ベランダの前から、玄関へ向かって。
一直線に、迷いなく。
音はしなかった。
足音も、床が鳴る気配もない。けれど確かに、走っている。
黒い足だけが、生々しく動いていた。
それは玄関の前まで行くと、そのまま扉をすり抜けて消えた。
そこでようやく、止めていた息を吐く。
なに、あれ……。
喉がひどく乾いている。
これはきっと夢だ。
変な時間に起きたせいで、脳が半分眠ったままなんだ。そう自分に言い聞かせて、私はもう一度目を閉じようとした。
その時。
また、視界の端に黒いものが映った。
反射的にベランダの方を見る。
───また、いた。
さっきと同じ場所に、同じように立っている。
心臓が大きく跳ねた。
それは何事もなかったみたいに、また走り出した。
ベランダの前から、玄関へ。
そして、扉をすり抜けて消える。
少しの間を置いて、またベランダの前に立つ。
走る。
消える。
立つ。
走る。
消える。
それが、何度も繰り返された。
数えていなかった。数えたくもなかった。
最初のうちは、ただ怖かっただけだ。
けれど同じ光景を何度も見せられているうちに、恐怖とは別の感覚が混ざってくる。
吐き気に似た不快感。
目の前で明らかにおかしいものが、おかしい動きを延々と続けている。それを止めることも、逃げることもできない。
見ないふりすら、できなかった。
何度目かのループで、違和感に気づいた。
少しずつ、近づいてきてる。
最初はベランダの窓のすぐ前に立っていたはずなのに、今はそこからほんの少しだけ部屋の内側に寄っている。
たった数歩分。
それだけなのに、背中に冷たい汗が流れた。
また現れた時、それはさらに近くにいた。
ベランダとベッドの中間あたり。
黒いもやのような輪郭の中で、足だけが異様にはっきりしている。濡れているみたいに、街灯の光を鈍く吸っていた。
また走る。
玄関へ向かう。
消える。
次はもっと近い。
また走る。
消える。
次は、ベッドまであと二、三歩の距離だった。
声が出そうになる。
けれど喉がひどく張りついて、空気がひゅっと漏れただけだった。
それは、部屋の真ん中辺りで一度止まった。
今まで一度もなかったことだった。
私は目を逸らせなかった。
黒いもやの中から、何かがこちらを向いた気がした。
顔なんて見えないはずなのに、見られているのが分かった。
ぞっとするほど、はっきりと。
見ていたのがバレた気がした。
私は服を握りしめ、息を潜める。
数秒だったのかもしれない。
けれど、永遠みたいに長かった。
やがてそれは、また走り出した。
玄関へ向かって。
扉をすり抜けて消える。
私はそのまま固まることしかできなかった。
もう二度と現れないでほしいと願いながら、それでも次の瞬間には、またベランダの前を見てしまう。
……いた。
また、いた。
ベランダの前。
今度はゆっくりとベッドへ向かって歩いてきた。
さっきまで玄関に向かっていたのに。
ベッドのすぐ脇に、それは立ち止まる。
黒い足が、私の顔のすぐそばにあった。
布団の上に影が落ちる。
息が止まった。
走らない。
玄関へ行かない。
ただ、そこに立っている。
……のぞき込まれている。
私はゆっくりと、視線を上げた。
見たくなかった。
けれど、見てしまった。
足から上は、やはり黒いもやのままだ。
けれど、その中にぼんやりと人の形があるのが分かる。
肩のようなもの。
首のようなもの。
そして顔があるはずの位置だけが、
不自然なくらい真っ黒に沈んでいた。
その暗闇の奥で、何かが動いた気がした瞬間。
ぱち、と目が覚めた。
朝だった。
アラームがけたたましく鳴っている。
私はしばらく、それがなんの音かも分からないまま息をしていた。
カーテンの隙間から白い光が差し込んでいて、部屋の中は夜の気配をすっかり失っている。
息が荒い。胸が上下して、喉が痛い。
……嫌な夢を見た。
ただそれだけだ。
そう思いながらアラームを止めるために、
私は枕元に手を伸ばした。
スマホの画面をつける。
時刻を確認しようとして、指が止まった。
画面に表示されていたのは、
3:42
通知は動いている。画面も普通につく。
なのに時計だけが、その時間で止まっている。
喉の奥がひゅっと狭くなる。
私はゆっくりと顔を上げて、部屋の中を見た。
あれが立っていたベランダの窓の前。
……ありえない。
床の上には、黒く濡れたような跡が、玄関へ向かって一直線に続いていた。
その先は、扉の下のわずかな隙間に吸い込まれるみたいに消えていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
またどこかの夢の中で。




