8 日常
朝の空気は、少しだけ柔らかかった。
空は薄く雲がかかっているが、雨の気配はない。風も弱く、街路樹の葉がかすかに揺れるだけだ。登校路を歩く生徒たちの足音が、石畳に一定のリズムで響いている。
マティルナは、校門へ続く道を一人で歩いていた――はずだった。
「おはようございます、マティルナさん」
背後からかけられた控えめな声に、足を止める。
振り返ると、エルナが少し小走りで追いついてくるところだった。肩にかけた鞄が揺れ、息を整えるように小さく胸を上下させている。
「おはよう。今日は早いね」
「はい。朝の家事が、ちょっとだけ早く終わって」
それだけ言って、エルナは隣に並ぶ。無理に距離を詰めるわけでも、離れるわけでもない、自然な位置だった。
二人で歩き出して、数歩。
少し前方から、足音が一つ、止まる。
「……おはよ」
振り向かずにかけられた声は、カミラだった。いつの間にか同じ道を歩いていたらしい。短く挨拶をすると、そのまま歩調を合わせてくる。
「おはよう」
マティルナがそう返すと、カミラはそれ以上何も言わなかった。ただ、それで十分だというように、歩く速度を揃える。
――いつから、こうなったのだろう。
待ち合わせをした覚えはない。約束もしていない。ただ、気づけば朝の道で顔を合わせ、同じ方向へ歩いている。
それが、不思議と当たり前になりつつあった。
「今日は、講義だけでしたよね」
エルナが、少しだけ声を明るくして言う。
「午前は座学だけ」
カミラが即答する。
「午後も実技はなし。平和な日」
「平和……」
マティルナはその言葉を繰り返し、小さく息を吐いた。
模擬ダンジョン演習が終わってから、数日が経つ。あの緊張感が嘘のように、学校は普段のリズムを取り戻していた。
特別な視線を向けられることもない。
刻印について、何か言われることもない。
銃について、ひそひそ話をされることもない。
それが、少しだけ――ありがたかった。
校門をくぐると、校舎の影が長く伸びている。朝の時間帯特有の静けさの中で、魔導灯がまだ淡く光っていた。
教室へ向かう廊下で、何人かの生徒とすれ違う。
誰も、立ち止まらない。
誰も、視線を向けない。
マティルナは、それを確認するように、一度だけ周囲を見渡してから、視線を前に戻した。
――変わっていない。
世界は、昨日と同じだ。
教室に入ると、席はまだ半分ほどしか埋まっていない。朝の準備をする者、静かに本を読む者、友人同士で小声の会話を交わす者。
マティルナは自分の席に向かい、鞄を置く。
エルナはその一つ前の席へ、カミラは少し離れた列へと、それぞれ自然に散っていった。
――それでも、遠くない。
授業前の時間。
特に声をかけてくる人はいない。
それが、今は心地よかった。
無視されているわけではない。拒絶されているわけでもない。ただ、それぞれが自分の朝を過ごしているだけだ。
マティルナはノートを取り出し、前回の講義の続きを開く。
刻印史。
読み慣れた文字列を目で追いながら、ふと気づく。
以前より、集中できている。
周囲を気にして、背中を硬くすることが減った。呼吸も、自然だ。
「……」
自分が変わったのか。
それとも、環境が変わったのか。
たぶん、その両方だ。
エルナがときどき後ろを振り返り、目が合うと小さく会釈をする。カミラは前を向いたままだが、講義資料を広げる手つきはどこか余裕がある。
それを見て、マティルナはほんのわずかに口元を緩めた。
大きな出来事は、何も起きていない。
敵もいない。
評価もない。
ただ、朝が来て、授業が始まろうとしている。
――でも。
この「何も起きない朝」が、以前よりも少しだけ、あたたかい。
マティルナはそう感じながら、講師が入ってくる気配に背筋を正した。
今日も、いつもの一日が始まる。
講義は、淡々と進んでいった。
黒板に書かれるのは、刻印式召喚術の理論構造と、補助系召喚における魔力配分の基礎。内容自体は難解だが、これまで何度も繰り返し聞いてきた範囲でもある。
マティルナは、板書を書き写しながら、講師の声を一定の距離で受け取っていた。
理解できるところと、そうでないところ。
必要な部分と、今は使わない部分。
それらを自然に切り分けながら、ノートを埋めていく。
以前なら、「自分に関係があるかどうか」を考えすぎて、思考が逸れることが多かった。銃という異物を抱えた自分に、召喚理論がどこまで当てはまるのか――そんなことばかりが頭をよぎっていた。
けれど今は、違う。
分からないところは分からないまま書き留め、後で考えればいいと割り切れる。
講義は講義。
今日を過ごすための一部でしかない。
それだけのことだ。
ふと、前の席のエルナが肩をすくめるようにして、ノートに書き込む手を止めたのが見えた。ペン先を見つめ、少し困ったような表情をしている。
――あそこ、難しいよね。
マティルナは、講師に気づかれないよう、そっと自分のノートをめくり、該当箇所に印をつけた。
休憩時間。
教室にざわめきが戻る。
椅子を引く音、軽い笑い声、紙をめくる音。窓が少し開けられ、外の空気が流れ込んできた。
エルナが、控えめに振り返る。
「……マティルナさん、さっきのところ……」
「うん。配分比の話だよね」
小声でそう言うと、エルナはほっとしたように頷く。
「やっぱり、そこですよね……」
「あとで、まとめて見る?」
「……お願いします」
それだけで会話は終わる。
無理に引き止めない。無理に盛り上げない。
それが、ちょうどよかった。
前方の席から、椅子を回す音がする。
「その辺、去年の資料の方が分かりやすいよ」
カミラだった。肘を背もたれにかけ、こちらを振り返っている。
「え、そうなんですか?」
「うん。理論は同じ。例えが実戦寄り」
「……それ、助かるかも」
マティルナが言うと、カミラは一度だけ頷いた。
「昼、持ってくる」
それだけ言って、前を向く。
余計な説明はない。
でも、必要なことはちゃんと届く。
マティルナは、その背中を少しだけ眺めてから、視線をノートに戻した。
午前の講義が終わるころには、頭の中はほどよく疲れていた。
実技の緊張とは違う、静かな消耗。
けれど、不快ではない。
むしろ、ちゃんと「学生をしている」感覚があった。
昼休み。
エルナが、いつものように少しだけ迷ってから声をかけてくる。
「……一緒に、行きませんか?」
「うん」
そこに、カミラが自然に合流する。
「今日は混みそうだから、早めに」
三人で食堂へ向かう廊下は、思ったよりも騒がしい。ほかの班の生徒たちが、昨日の演習について断片的に話しているのが耳に入る。
「ゴブリン、思ったより弱かったな」
「でも、暗いのは嫌だ」
「次は罠あるらしいぞ」
そのどれもが、遠い話のように感じられた。
自分たちの昨日は、もう終わっている。
食堂で席を確保し、昼食を受け取る。
湯気の立つスープと、素朴なパン。
座ると、エルナが少し安心したように息を吐いた。
「……人、多いですね」
「いつもより」
カミラが言う。
「演習後は、だいたいこんな感じ」
食事を始めて、しばらくは他愛ない話が続く。
午前講義の難しかったところ。
エルナが寝不足気味なこと。
カミラが朝の訓練を少しサボったこと。
笑うほどでもないけれど、無言になることもない。
その中で、マティルナは静かに思っていた。
――こうして座って、同じものを食べている。
それだけのことが、少し前よりも、ずっと自然になっている。
評価も、異端も、関係ない時間。
この流れが、昼の終わりまで続いていく。
それが、今は嬉しかった。
昼食を終え、食堂を出るころには、ざわめきは少し落ち着いていた。
午後の講義まで、まだ少し時間がある。三人は廊下の壁際に寄り、流れる人の列を避けるように立ち止まった。
「午後は理論続きだっけ」
カミラが、あまり興味なさそうに言う。
「……刻印の安定性、だったと思います」
エルナが記憶を辿るように答える。
「安定性、ね」
カミラは肩をすくめた。
「使えればいい、って思っちゃうけど」
「……でも、事故は困る」
マティルナがそう言うと、二人とも一瞬だけこちらを見る。
「確かに」
カミラは素直に頷いた。
「事故は嫌だ。修正きかないし」
その言葉に、マティルナは小さく息を吸った。
――修正がきかない。
刻印式の光景が、一瞬だけ脳裏をよぎる。歪んだ魔法陣、爆音、白い煙。あの日から、自分の召喚は「例外」になった。
けれど、そのことを、今ここで口にする気はなかった。
エルナも、何も言わない。
誰も、踏み込まない。
それが、少し不思議で――同時に、ありがたかった。
午後の講義が始まると、教室は再び静まり返った。
講師は淡々と、次の演習に向けた基礎理論を説明していく。刻印の安定性、魔力の偏り、想定外の召喚が起きた場合の対処。
「……今後の演習では、内容を一部変更する予定です」
その一言で、教室の空気がわずかに揺れた。
生徒たちの視線が上がる。
「詳細は、また後日。今日は概要だけ覚えておいてください」
それだけで、講師は話を進めてしまう。
ざわめきは、すぐに収まった。
大きな告知ではない。危険が増すとも、難易度が跳ね上がるとも言っていない。ただの予告だ。
それでも、マティルナの胸の奥で、何かが小さく動いた。
不安ではない。
かといって、期待でもない。
ただ――「変化が来る」という感覚。
以前の自分なら、きっと身構えていた。
また何か言われるのではないか。目立つのではないか。問題になるのではないか。
でも今は、違う。
横を見ると、エルナが真剣にノートを取っている。前を見ると、カミラが肘をつきながらも、要点だけは逃さず聞いている。
――一人じゃない。
その事実が、静かに背中を支えていた。
講義が終わり、教室にざわめきが戻る。
「内容変えるって、何だろう」
エルナが、小さな声で言った。
「罠増えるとか?」
カミラが即座に返す。
「それか、連携重視」
「……どっちも、ありそう」
マティルナはそう言ってから、少し考える。
「でも……多分、大丈夫」
「根拠は?」
「……なんとなく」
自分でも曖昧な答えだと思った。
それでも、カミラは否定しなかった。
「その“なんとなく”、意外と当たる」
エルナも、小さく頷く。
「一緒なら……ですね」
その言葉が、胸に落ちた。
変化は、確実に近づいている。
けれど、それは「怖いもの」ではない。
少なくとも、今のマティルナには、そう感じられた。
午後の講義がすべて終わるころには、窓の外の光が少し傾いていた。
教室の中に、椅子を引く音や鞄を閉じる音が重なっていく。特別なことは何も起きなかった。ただ、いつも通りに授業が終わっただけだ。
それなのに、マティルナはどこか満たされた気持ちで席を立った。
「帰る?」
カミラが、いつもの調子で声をかける。
「……うん」
エルナも鞄を抱え、二人の間に立つ。
「途中まで一緒ですね」
三人で廊下に出ると、放課後の校舎特有の空気が流れていた。昼よりも人が少なく、どこか静かで、落ち着いている。
階段を下りながら、エルナが思い出したように言う。
「商店街……今度、行きませんか?」
「今度って、いつ」
「授業が早く終わる日とか……」
カミラが即座に頷く。
「いいね。丈夫なの探す」
「……私も」
マティルナは、少しだけ間を置いてから答えた。
「動きやすいの、欲しいから」
「それなら布屋からですね」
エルナが嬉しそうに言う。
「試着、手伝います」
「実戦向きのやつ選んであげる」
「……それは、ほどほどで」
三人で、小さく笑った。
校門を出ると、夕方の風が頬を撫でる。石畳の道を歩きながら、マティルナはふと、自分の足取りが軽いことに気づいた。
ここでは、誰もランクを聞かない。
異端だとも言われない。
ただ、一緒に歩いて、話して、次の予定を決めるだけだ。
――こういう時間があるなら。
評価されなくても。
目立たなくても。
この学校に来た意味は、ちゃんとある。
「……また明日」
校門の前で別れるとき、マティルナは自然にそう言えた。
「またね」
「明日」
二人の声を背に、家路につく。
夕焼けに染まる空を見上げながら、マティルナは静かに思った。
この場所で、少しずつでいい。
自分の居場所を、作っていけばいいのだと。




