7 買い物どこいく?
朝の校舎は、いつも通りだった。
石造りの廊下に、生徒たちの足音が重なっていく。掲示板の前では数人が立ち止まり、時間割を確認している。魔導灯は昼間でも消されることなく、淡い光が壁の文様を静かに照らしていた。
マティルナは、その中を特別急ぐこともなく歩いていた。
模擬ダンジョン演習の翌日だというのに、周囲の空気は驚くほど平常だ。噂話も、ひそひそ声も聞こえない。こちらを意識している視線も、今日はほとんど感じなかった。
――少し、拍子抜けする。
昨日は模擬ダンジョンに入った。ゴブリンとも戦った。班として動き、何事もなく戻ってきた。それでも今日の朝は、まるで何もなかったかのように授業が始まろうとしている。
それが、学校なのだろう。
教室に入ると、すでに何人かが席についていた。マティルナは自分の席に向かい、鞄を足元に置く。
「……おはよう、マティルナさん」
席に着く直前、控えめな声がかかった。
振り向くと、エルナが少しだけ身を乗り出していた。控えめな笑顔。昨日と変わらない、穏やかな表情だ。
「おはよう。……今日も早いね」
「えへへ……弟たちがいると、どうしても」
短い会話だけ交わして、エルナは前を向く。無理に続けない、その距離感が心地よかった。
さらに、前の方の席から振り返る影がある。
「おはよ」
短く、はっきりした声。カミラだった。
「おはよう」
マティルナがそう返すと、カミラはそれだけで満足したように頷き、前を向いた。昨日の演習がなければ、こんなやり取りはなかっただろう。そう思うと、胸の奥がわずかに温かくなる。
やがて、講師が入室し、黒板の前に立つ。
いつもの授業が始まった。
刻印史の続き。過去の召喚体系と、現在主流となっている刻印式召喚術の違い。昨日のダンジョンとは、まるで別世界の話だ。
マティルナはノートを取りながら、淡々と耳を傾けた。
誰も、昨日のことを持ち出さない。
それが、ありがたかった。
授業は滞りなく進み、午前の講義が終わる。教室に少しざわめきが戻り、昼の時間が近づいてくる。
エルナが立ち上がり、少しだけ迷うようにしてから、マティルナの方を見た。
「……あの。一緒に、食べませんか?」
「……うん。いいよ」
そう答えると、エルナは嬉しそうに頷いた。
そこへ、自然にカミラが加わる。
「私もいい? 一人で食べる予定だったけど」
「もちろん」
マティルナが言うと、エルナも「ぜひ」と小さく付け足した。
三人で食堂へ向かう道すがら、会話は自然と昨日の話になる。
「ダンジョン、思ったより普通でしたね……」
エルナがそう言うと、カミラが肩をすくめる。
「初回はあんなもんでしょ。基礎確認だし」
「でも、ちょっと暗かったです……」
「暗い方が本物っぽい」
そんなやり取りを聞きながら、マティルナは少し考えてから口を開いた。
「……次は、撃つことになるのかな」
「なるでしょ」
即答するカミラ。
「弾、もったいない気もするけど……」
「そこは割り切り。使うための弾でしょ」
エルナが慌てて間に入る。
「で、でも……昨日みたいに、近づいて倒せるなら……」
「それは状況次第だね」
マティルナはそう言って、少し笑った。
食堂に入り、席につく。昼食は質素だが、温かい。スープの湯気が立ち上り、張り詰めていた何かがほどけていく。
話題は、いつの間にか別の方向へ流れていた。
「そういえば、学校の近くの商店街、行ったことあります?」
エルナの一言で、空気が変わる。
「ああ、ある」
カミラが頷く。
「布屋と靴屋が安い。丈夫なの多いし」
「布屋……?」
マティルナが首を傾げる。
「動きやすい服、欲しくて……制服以外の」
「あ、それ、いいですね」
エルナがぱっと顔を明るくする。
「私も、普段着はだいたいあそこで……安いので」
言葉を選びながら、さらりと告げるその口調に、マティルナは何も聞き返さなかった。
「見た目より、動きやすさ」
カミラがきっぱりと言う。
「おしゃれは二の次。破れても惜しくないやつが一番」
「……なるほど」
マティルナはそう言って、スープを一口飲んだ。
銃の話は、もう出てこない。
ランクの話も、刻印の話もない。
ただ、昼食を食べて、話して、少し笑っている。
――こういう時間が、案外一番大事なのかもしれない。
マティルナは、そう思った。
評価されなくても。
理解されなくても。
ここに座っていられる。
それだけで、今は十分だった。
食堂の喧騒は、昼の時間が進むにつれて少しずつ落ち着いていった。
皿の音も、話し声も、先ほどより穏やかになる。
「商店街って、放課後でも寄れますよね」
エルナが、思い出したように言う。
「寄れるけど、混む」
カミラが即答する。
「夕方は学生多い。だから私は朝か、休日」
「へえ……」
エルナは感心したように頷いた。
「布屋は、夕方に行くと安い端切れが減っちゃうんです。だから、私も早めに行くことが多くて」
そう言ってから、少し照れたように笑う。
「弟たちの服、すぐ駄目になるので」
「成長期?」
「はい。あと、すぐ転ぶので……」
「実用重視だな」
カミラが、どこか納得したように言った。
「それなら靴はあの店。革が厚い。多少乱暴に使ってももつ」
「カミラ、詳しいですね」
「前線向きの服装は重要」
淡々とした言い方に、エルナがくすっと笑う。
「前線じゃなくても、便利そうです」
マティルナは、二人のやり取りを聞きながら、自分の手元を見た。
制服の袖。動きやすいとは言えないが、不満を口にするほどでもない。
「……私、そういう店、あまり行ったことなくて」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
二人の視線が、自然にこちらへ向く。
「そうなんですか?」
「うん。必要なものは、家にだいたい揃ってたから」
それ以上の説明はしなかった。
それで十分だった。
「じゃあ、今度行こ」
エルナが、あっさりと言った。
「え?」
「三人で。見るだけでも楽しいですよ」
カミラも頷く。
「一人で行くより効率いい。意見も聞けるし」
その言葉に、マティルナは少しだけ言葉を失った。
誘われる、ということ。
特別な理由もなく、ただ「一緒に」と言われること。
「……うん」
短く、そう答えると、エルナが嬉しそうに微笑んだ。
「決まりですね」
昼食を終え、空になった皿を片付けながら、マティルナはふと気づく。
ここまでの間、誰も――
自分の刻印の話をしなかった。
ランクも、異端も、強い弱いも。
代わりに話していたのは、
服の値段で、歩きやすさで、洗濯のしやすさで。
それは、これまで自分が立っていた場所とは、まるで違う話題だった。
けれど、不思議と居心地が悪くない。
むしろ――少し、落ち着く。
食堂を出ると、午後の講義に向かう生徒たちの流れができていた。
三人で並んで歩く、その中に、無理はなかった。
「午後、眠くなりそうですね」
エルナが小さく言う。
「寝たら起こす」
カミラが即答する。
「……優しいですね」
「実用」
そんなやり取りに、マティルナは思わず笑った。
胸の奥で、何かが静かに形を変えていく。
午後の講義は、いつも通り淡々と進んだ。
魔導理論の基礎。刻印の安定条件。数式と図解が黒板に並び、講師の声が一定の調子で続く。特別に難しい内容ではない。けれど、油断すると意識が遠のく。
エルナは時々、眠そうに瞬きをしていた。
カミラは背筋を崩さず、黙々とノートを取っている。
その二人の様子を横目に見ながら、マティルナは静かに板書を書き写した。
授業の終わりを告げる鐘が鳴ると、教室に緩やかな空気が戻る。
椅子を引く音。鞄を閉じる音。今日という一日が、問題なく終わろうとしていた。
「……今日も、無事ですね」
エルナが、小さくそう言った。
「無事が一番」
カミラは迷いなく頷く。
教室を出て、夕方の廊下を歩く。
窓から差し込む光が、石床に長い影を落としていた。
「明日も講義だけでしたよね」
「うん。特に変わりない」
「じゃあ、帰りに商店街、下見だけでもします?」
エルナの提案に、カミラが少し考える。
「今日はやめとく。装備じゃないし」
「装備……?」
「歩く距離、意外とある」
「なるほど……」
二人の会話を聞きながら、マティルナは小さく息を吐いた。
帰り道を一緒に歩く。
話題は、特別なことではない。
講義の眠気。
食堂のスープの味。
明日の天気。
それでも、不思議と足取りは軽かった。
校門の前で、自然と立ち止まる。
「じゃあ、また明日」
カミラが短く言う。
「はい。また明日」
エルナも、にこりと笑って手を振る。
二人が去っていくのを見送りながら、マティルナは一人、空を見上げた。
今日も、何も起こらなかった。
敵もいない。
評価もない。
試されることもない。
けれど――。
「……悪くない」
ぽつりと漏れた声に、自分で少し驚く。
静かな一日。
誰かと話し、笑い、帰る。
それだけで、胸の奥が温かい。
マティルナは、いつもより少しだけ軽い足取りで、帰路についた。
明日も、たぶん、同じような一日が続く。
それを、今は――少し楽しみに思っていた。




