4 はじめての友達
朝の空気は、まだ完全には温まりきっていなかった。
石畳の道を歩くたび、革靴の底から小さな音が返ってくる。その規則正しさに、マティルナは自分の呼吸を合わせていた。
――今日も、何事もなく終わればいい。
それが、最近の彼女のささやかな願いだった。
魔法学院への道は、いつも人が多い。制服の色も、刻印の輝きも、それぞれ違う。歩いているだけで、才能の差や将来の違いが可視化されているようで、自然と視線を落とす癖がついていた。
右前腕、制服の内側。
そこに刻まれた“それ”を、誰にも見られないように。
刻印は、魔法使いにとって名刺のようなものだ。
属性、出力、適性、時には性格までを映し出す――祝福であり、呪いでもある。
マティルナの刻印は、目立たない。
正確に言えば、目立たないように見えてしまう。
派手な発光もなければ、希少属性の紋様もない。評価表では「測定不可」、教官の言葉を借りれば「威力はある。が、魔法ではないかもしれないため評価できない」だ。
その評価に、彼女は反論できなかった。
――私は、何者なんだろう。
考えないようにしても、歩くたびに思考は内側へ沈んでいく。
そんなときだった。
「あの……マティルナ・ロウェルさん、ですよね?」
背後から、柔らかい声がかかった。
呼び止められる理由に心当たりがなく、マティルナの肩がわずかに強張る。
刻印のことだろうか。成績? それとも、何か無作法な振る舞いをしてしまったのか。
恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは、同じ制服を着た少女だった。
淡い栗色の髪を肩口でまとめ、どこか控えめな立ち姿。
風に揺れるスカートの裾と一緒に、小さな光がふわりと舞った。
――精霊?
よく見ると、それは本当に小さな、風と光の混じった精霊だった。
戦闘用ではない。補助、あるいは日常寄りの召喚。
少女は、少しだけ照れたように笑う。
「私、エルナ・フィオラっていいます。同じ一年ですよね。……突然すみません」
その声には、探るような響きがなかった。
値踏みも、好奇心も、優越感もない。ただ、話しかける理由がそれだけで完結している声。
「……はい。マティルナ、です」
名乗るだけなのに、喉が少し乾く。
エルナは、それに気づいたのか、慌てて首を振った。
「あ、えっと、刻印のこととか、そういうのじゃなくて……」
マティルナの胸が、わずかに跳ねる。
「昨日、教室で見かけて。ずっと一人で本を読んでたでしょう? その……すごく集中してて、声かけづらくて」
それは、責めでも同情でもなかった。
ただの事実を、申し訳なさそうに語る調子。
「でも、気になって。どうしても」
エルナはそう言って、小さく笑った。
その瞬間、肩に留まっていた風の精霊が、くるりと一回転する。
――どうして、私が?
問いは浮かんだが、言葉にはならなかった。
代わりに、マティルナは少しだけ息を吐く。
「……変じゃ、ありませんでしたか」
「え?」
「一人でいるの」
一瞬、エルナは目を瞬かせた。
それから、はっきりと首を横に振る。
「全然。むしろ……落ち着いてて、羨ましいなって」
その言葉に、胸の奥で何かがほどけた気がした。
誰かに評価されることには慣れていた。
だが、それはいつも刻印や数値や将来性についてで――“自分自身”について言われたことは、ほとんどなかった。
エルナは、並んで歩こうとするでもなく、半歩だけ距離を保ったまま言った。
「もしよかったら、途中まで一緒に行きませんか?」
断る理由は、思いつかなかった。
それでも、マティルナは一瞬だけ迷う。
友達。
その言葉は、まだ少し重い。
「……はい」
短く答えると、エルナの表情がぱっと明るくなった。
「よかった」
たったそれだけの会話。
それだけなのに、学院へ続く道が、ほんの少しだけ違って見えた。
マティルナは歩きながら、胸の内で静かに思う。
――この人は、刻印を見る前に、私を見てくれた。
それが、彼女にとってどれほど大きなことなのか。
まだ、このときのマティルナは知らなかった。
けれど確かに、この朝――彼女の世界は、わずかに音を立てて動き始めていた。
教室に流れ込む朝の光は、窓際の机を白く縁取っていた。
始業の鐘が鳴り、簡単な連絡と出欠確認が終わると、教官は次の授業準備のために教室を後にする。途端に、張り詰めていた空気がほどけた。
休み時間。
周囲では、椅子を引く音や、机を寄せる音、抑えきれない笑い声が重なり合う。刻印の話題、召喚の成功率、朝食の内容まで、話題はあちこちに散らばっていた。
マティルナは、自分の机に座ったまま、静かに本を開く。
それは習慣だった。視線を文字に落としていれば、余計なことを考えずに済む。
――さっき、隣に座ってた子、すごかったよね。
――初日であの出力、やっぱり名門家系かな。
聞くつもりはなくても、耳に入ってくる声。
そのたびに、胸の奥が少しだけ冷える。
自分の刻印のことは、誰にも話していない。
話す必要がないから――そう思い込もうとしているだけだと、どこかでわかっていた。
「マティルナさん」
控えめな声が、名前を呼んだ。
顔を上げると、エルナ・フィオラが立っていた。
朝と同じように、穏やかな表情。肩のあたりには、相変わらず小さな精霊がふわふわと漂っている。
「……エルナ」
名前を呼ぶと、エルナは少し驚いたように目を丸くして、それから嬉しそうに微笑んだ。
「覚えててくれたんですね」
「……忘れるほど、時間は経ってないから」
そう返すと、エルナはくすっと笑った。
「休み時間、いいですか?」
問いかけは丁寧で、強引さがない。
マティルナは本を閉じ、頷いた。
「どうぞ」
エルナは隣の席をちらりと見てから、静かに腰を下ろした。
距離は、まだ少しだけある。それが、かえって心地よかった。
「さっきの授業、どうでした?」
「……基礎理論は、復習みたいな内容でした」
「ですよね。私もです。でも、魔力循環の図、やっぱり何度見ても難しくて」
そう言いながら、エルナはノートを開く。
そこには、丁寧な文字と、少し不格好な図解が並んでいた。
マティルナは、思わず視線を落とす。
「……ここ、流れ逆になってます」
「あ、本当だ……!」
エルナは顔を赤らめ、慌てて消しゴムを取り出す。
「ありがとうございます。助かりました」
その言葉は、さらりとしていた。
借りを作ったとか、負けたとか、そういう感情が含まれていない。
マティルナは、なぜか胸の奥が温かくなるのを感じた。
「マティルナさんって、本、よく読んでますよね」
エルナが、ふと話題を変える。
「魔導理論書? それとも、物語?」
「……両方です」
「両方?」
「理論も、物語も……嫌いじゃない」
言葉を選びながら答える。
エルナは、興味深そうに頷いた。
「素敵ですね。私はどっちかっていうと、実技が苦手で……だから、補助系の召喚しかできなくて」
そう言って、肩の精霊を見る。
精霊は、まるで返事をするかのように、小さく光った。
「でも、その精霊……」
マティルナは、思わず口にする。
「とても安定してます。魔力の揺らぎが、ほとんどない」
エルナは、一瞬目を見開き、それから照れたように笑った。
「そう言われると、嬉しいです。派手じゃないですけど……私、この子が好きで」
その言葉に、マティルナは何も返せなかった。
けれど、心のどこかで強く共鳴するものがあった。
――派手じゃない。でも、大切。
それは、誰かに初めて肯定された感覚に近い。
「……エルナは」
「はい?」
「どうして、私に話しかけてくれたんですか」
問いは、思っていたよりも素直に口をついて出た。
エルナは少し考え込み、それから、ゆっくりと言う。
「目が、似てると思ったんです」
「目?」
「はい。周りをちゃんと見てる目。でも、前に出るより、少し引いたところから見てる感じ」
マティルナは、息を呑んだ。
そんなふうに見られたことは、なかった。
「……それだけ?」
「それだけです」
断言する声に、迷いはない。
休み時間の終わりを告げる鐘が鳴る。
教室のざわめきが、再び整列していく。
「また、話しかけてもいいですか?」
立ち上がりながら、エルナが言った。
マティルナは、少しだけ間を置いてから頷く。
「……はい」
短い返事だったが、そこには確かな意思があった。
本を開き直しながら、マティルナは思う。
――友達、かもしれない。
まだ、その言葉を使う勇気はない。
けれど、確実に一歩だけ、そこへ近づいていた。
教室の窓から差し込む光が、机の上で静かに揺れていた。
ーー
午後の授業が始まる前、教室は再び落ち着きを取り戻していた。
ざわめきは消え、椅子の軋む音だけが、遅れて戻ってくる生徒の気配を知らせる。
マティルナは、机の上に両手を置いたまま、静かに前を向いていた。
エルナとの会話の余韻が、まだ胸の奥に残っている。
――また、話しかけてもいいですか。
その言葉が、思いのほか重く、そして温かかった。
教室の扉が開き、担当教官が入ってくる。
年齢不詳の落ち着いた人物で、無駄な動きがない。
「では、次の授業に入る前に、連絡事項を一つ」
教官の声が、教室全体に行き渡る。
自然と、生徒たちの視線が前に集まった。
「明後日、模擬ダンジョンでの演習を行う」
その一言で、空気が変わった。
ざわり、と教室が微かに揺れる。
誰も声を上げてはいないが、期待と緊張が一斉に立ち上ったのがわかる。
模擬ダンジョン。
この学園が誇る実習施設であり、初等課程においても“実戦に近い”とされる演習の場。
マティルナの背筋が、無意識に伸びた。
「内容は基礎的な探索、簡易戦闘、状況判断の確認が中心だ。命の危険はないが、遊びではない」
教官は淡々と続ける。
「刻印や召喚能力の優劣を見るものではない。班単位での行動、連携、指示理解が評価対象になる」
その言葉に、マティルナは小さく息を吐いた。
――刻印を見られる場ではない。少なくとも、表向きは。
「なお、この演習は班行動となる」
教官が一拍置く。
「明日、その班分けを発表する」
今度は、はっきりとざわめきが起きた。
視線が交差し、ひそひそとした声が漏れ始める。
誰と組むのか。
誰と組まされるのか。
それは、この学園において、評価や立場を左右しかねない要素だった。
マティルナは、前を向いたまま、エルナの方を見なかった。
見てしまえば、期待している自分に気づいてしまいそうだったから。
「以上だ。詳細は明日の授業で説明する」
教官はそう言って話を締めくくる。
「では、準備に入れ」
その言葉と同時に、授業が始まる。
しかし、生徒たちの意識は、すでに“明日”と“明後日”へ向いていた。
マティルナも同じだった。
模擬ダンジョン。
班分け。
それは、ただの演習ではない。
自分が、この場所でどう扱われるのか――それを、否応なく突きつけられる場になる。
机の下で、マティルナは静かに指を握りしめた。
一人でやるつもりはない。
まだ形にならない思いが、胸の奥で静かに芽吹いていた。
放課後の鐘が鳴ったとき、教室の空気は一気にほどけた。
椅子を引く音、鞄を閉じる音、今日の授業を振り返る声が重なり合う。
マティルナは、いつも通り静かに席を立った。
特別急ぐ理由も、残る理由もない。
――明日は班分け。
――明後日は模擬ダンジョン。
考えれば考えるほど、余計な想像が膨らんでしまう。
だから今日は、なるべく何も考えずに帰ろうと決めていた。
「……あの、マティルナさん」
そのとき、背後から控えめな声がかかる。
振り向くと、そこにいたのはエルナ・フィオラだった。
鞄を胸の前で抱え、少しだけ緊張したような表情をしている。
「今日……よければ、一緒に帰りませんか?」
一瞬、言葉が出なかった。
“誘われる”という行為が、あまりに久しぶりで。
それが当たり前のように、自然な調子で差し出されたことに、戸惑ってしまった。
「……いいの?」
思わず、そんな確認をしてしまう。
エルナは小さく頷いた。
「はい。帰り道、同じ方向みたいですし……それに」
少しだけ言葉を探すように、視線を彷徨わせてから。
「今日、マティルナさんと話してて、安心したので」
安心。
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちる。
「……じゃあ」
マティルナは、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「一緒に帰ろう」
二人は並んで校舎を出る。
夕方の光が、石畳をやわらかく照らしていた。
「模擬ダンジョン……ちょっと怖いですね」
エルナが、ぽつりと言う。
「うん。でも、授業よりは、分かりやすいかも」
「分かりやすい、ですか?」
「うん。できることと、できないことが」
マティルナは前を見たまま答えた。
「私は、銃がある。でも、弾は限られてるし、近づかれると困る」
「……そういうの、ちゃんと考えてるんですね」
「考えないと、危ないから」
淡々とした言葉だったが、エルナは否定しなかった。
「私は……精霊がいるだけで、何かしてる気になるけど」
「それ、すごく助かる」
即答だった。
エルナが目を丸くする。
「え?」
「落ち着くし、周りも見やすくなる。戦えないってだけで、役に立たないわけじゃない」
少し照れたように、エルナは視線を落とした。
「……そう言ってもらえると、救われます」
沈黙が流れる。
でも、気まずさはなかった。
「ランクって……やっぱり、気になります?」
エルナが、慎重に尋ねる。
「前は、気にしてた」
マティルナは、少し考えてから続けた。
「でも今は……あまり。どう使うかの方が大事だと思ってる」
「……変わってますね」
「よく言われる」
二人の間に、ふっと小さな笑いが生まれた。
校門が見えてくる。
いつもなら、ここで一人になる場所。
「……また、明日も話しかけてもいいですか?」
エルナが、遠慮がちに言う。
マティルナは立ち止まり、エルナの方を向いた。
「もちろん」
そう言ってから、少し間を置いて。
「私も、話しかける」
その瞬間、エルナの表情がぱっと明るくなる。
「……はい!」
その笑顔を見て、マティルナは気づいた。
胸の奥にあった緊張が、いつの間にか消えていることに。
帰り道。
隣に誰かがいるだけで、こんなにも世界は違って見える。
マティルナは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それは、自分でも驚くほど自然な笑顔だった。
――これが、はじめての友達。
そう思えたことが、何より嬉しかった。




