34 山での自主練
休日の朝。
街はまだ眠気を引きずっている時間だった。
マティルナは自宅の窓を開け、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
晴天。風は穏やか。視界良好。
今日は班行動ではない。
一人。
机の上に置いた刻印式の制御板を指でなぞる。
魔力の流れを確認。反応良好。
目的は明確だった。
――銃剣と銃の訓練。
実戦で使える精度へ、さらに押し上げるための時間。
弾は持つ。
だが使わない前提で動く。
撃たずに制圧。
音を出さずに終わらせる。
それが今日の課題。
コートを羽織り、自宅を出る。
街の門を抜け、北の山道へ。
足取りは一定。
呼吸は整い、視線は常に揺れる木々の隙間へ。
街道を外れ、山へ入る。
森の匂いが濃くなる。
湿った土。
樹皮。
遠くの水音。
足運びを切り替える。
音を殺す歩法。
枯葉を避け、踏み込む位置を選ぶ。
森に入って十五分。
魔力の揺れ。
小さい。
低位。
三つ。
即座に幹の影へ。
視線だけを滑らせる。
――ゴブリン三体。
粗末な装備。
前が片手斧。
中央が短剣。
後方に弓。
隊列を組んでいる。
歩幅を揃え、周囲を警戒している。
完全な野良ではない。
偵察。
森の外縁をなぞる動き。
足跡を確認し、木の幹に触れ、臭いを嗅ぐ。
近くに群れがいる。
距離、十五歩。
風向きは横。
気付かれていない。
撃てば終わる。
だが今日は違う。
――銃弾を使わず、制圧。
刻印を静かに展開。
魔力を圧縮。
音を立てずに形成。
銃剣が形を成す。
細身の刃。
刺突に特化。
呼吸を落とす。
三体がこちらに背を向け、進路を変える。
今。
地面を蹴る。
最小限の力で、最大の速度。
最初の標的は弓。
声を上げさせない。
一瞬で背後へ。
左腕で口を塞ぎ、右手の銃剣を喉元へ。
下から、斜め上へ。
気道を断つ。
血が溢れる前に引き倒す。
同時に、斧が気付く。
振り向きざまの横薙ぎ。
重いが、軌道は大振り。
半歩内側へ踏み込む。
刃の内側に入り込む。
柄を掴み、引く。
重心が前へ崩れる。
膝裏へ蹴り。
崩れ落ちる。
首の付け根へ、迷いなく刺突。
一息で絶命。
残る短剣。
目が合う。
理解と恐怖。
だが逃げない。
低く構え、一直線に突っ込む。
喉狙い。
速い。
マティルナは引かない。
斜め前へ踏み込む。
短剣の軌道を逸らすように身体を入れる。
銃剣の柄で手首を打つ。
骨が鳴る。
武器が落ちる。
それでも噛みつこうとする。
顎が迫る。
肘を叩き落とす。
鼻梁が潰れ、視界が歪む。
その隙。
顎下から脳へ。
一直線。
刃が止まる。
沈黙。
三体、制圧。
呼吸は乱れない。
周囲を確認。
追加反応なし。
銃剣を抜く。
血を振るい落とす。
刻印を解除。
武器は光となって消える。
森は再び静かになる。
偵察は消えた。
群れは、いずれ気付く。
だが今は追わない。
目的は訓練。
距離の詰め方。
初動の判断。
無音制圧の精度。
斧の振り初め、わずかに読みが遅れた。
短剣の執念は想定以上。
改善点を刻む。
視線を森の奥へ向ける。
銃の訓練は、まだだ。
山は広い。
今日は――徹底的に磨く。
マティルナは、さらに奥へと足を進めた。
森の奥は、空気の質が変わる。
外縁とは違う。
湿度が濃く、匂いが重い。
マティルナは足を止め、耳を澄ます。
鳥が鳴かない。
虫の羽音も遠い。
嫌な静けさ。
――重い足音。
地面を踏み締める圧。
枝が折れる音が、隠す気もなく響く。
魔力反応。
一つ。
だが、さきほどのゴブリン三体とは比較にならない密度。
大きい。
ゆっくりと、だが確実に近付いてくる。
視界の先、幹と幹の隙間から現れた影。
太い腕。
分厚い胸板。
牙。
オーク。
粗い鉄板を紐で縛り付けたような胸当て。
片手には棍棒。
鼻を鳴らし、地面を嗅ぐ。
……ゴブリンの血の匂い。
気付いた。
視線が上がる。
こちらへ。
目が合う。
低く唸る。
銃剣では無理。
筋肉の厚み。骨格。皮膚の強度。
急所に届く前に潰される。
選択に迷いはない。
刻印を展開。
銃を形成。
音を抑えた形成でも、オークは気付く。
咆哮。
突進。
速い。
巨体に似合わない踏み込み。
地面が震える。
マティルナは下がらない。
横へ。
木の幹を利用。
棍棒が振り下ろされる。
幹が裂ける。
木片が飛ぶ。
その瞬間。
照準。
首。
鎖骨の内側。
心臓へ通る角度。
呼吸、一拍。
引き金。
――轟音。
森が裂ける。
衝撃波が葉を揺らす。
弾丸は一直線。
鉄板を貫く。
骨を砕く。
肉を裂く。
背中から血飛沫。
オークの動きが止まる。
一歩。
二歩。
膝が折れる。
前のめりに倒れる。
地面が揺れる。
静寂。
一撃。
完全沈黙。
マティルナは即座に周囲を確認。
銃声は響いた。
近くに群れがいれば、寄ってくる。
刻印を維持したまま、移動。
木々の間を抜ける。
足音を消す。
三十歩。
五十歩。
高低差を利用し、位置を変える。
反応なし。
追跡なし。
ようやく呼吸を整える。
銃を下ろす。
弾数、残り四。
いつも通り。
――のはずだった。
胸元が、淡く光る。
冒険者刻印。
淡い脈動。
一瞬だけ、温かい。
魔力の流れが変わる。
内部の器が、わずかに広がる感覚。
理解。
レベルアップ。
ゴブリン三体。
そしてオーク。
経験が閾値を越えた。
刻印が静かに書き換わる。
銃へ流す魔力経路が、ほんのわずか拡張される。
マティルナは目を閉じ、再形成。
銃弾の保持数を確認。
五。
――いや。
もう一つ。
奥に余裕がある。
六。
静かに息を吐く。
これまで、保持は五発が限界だった。
六発目は形成できなかった。
魔力容量が足りなかった。
今は違う。
六発、確かに保持できる。
指先で弾丸の魔力構造を感じる。
不安定さはない。
安定している。
増えたのは、ただ一発。
だが実戦では大きい。
一発の余裕は、選択肢を広げる。
一撃外してもいい、ではない。
一撃増える。
それだけで、戦術は変わる。
森は再び静まり返っている。
だが銃声の余韻は、まだ空気に残る。
長居はしない。
銃を解除。
光に溶け、消える。
刻印は静かに沈む。
レベルアップ。
一つ上がっただけ。
だが確実に強くなった。
マティルナは木の幹にもたれず、立ったまま空を見上げる。
葉の隙間から差す光。
休日の訓練は、まだ終わらない。
銃剣。
銃。
そして――増えた一発を、どう使うか。
森のさらに奥。
気配は、まだある。
森の奥は、さらに静かだった。
さきほどの銃声の余韻は、もう消えている。
だが魔物は消えない。
地面に刻まれた跡を、マティルナはしゃがみ込んで観察する。
深い。
幅が広い。
蹄ではない。
裸足。
――オーク。
しかも二体。
並走している。
間隔は一定。
巡回。
単独ではない。
さきほど倒した個体とは別。
群れの本隊か、それとも周辺警戒か。
いずれにせよ、正面衝突は愚策。
二体同時。
銃剣では削り切れない。
そして今回は――隠密で、銃を使う。
音を抑え、最短で。
問題は装填。
この世界で銃という武器は“変な武器”扱いだが、構造は単純ではない。
弾は刻印から形成される。
一発撃つたび、魔力を再構築し、内部構造を再形成する必要がある。
保持は六発。
だが連続射撃は、魔力の流れが乱れる。
装填に、わずかな“間”が生まれる。
その間を、巨体二つが許すか。
マティルナは風向きを読む。
風は右から左。
足音。
重い。
木々の間から、影が揺れる。
オーク二体。
一体は棍棒。
もう一体は錆びた斧。
互いに距離を保ち、周囲を見ている。
単純な突進型ではない。
ある程度の知性。
距離、三十歩。
撃てる。
だが一撃目で確実に仕留めなければ、二体目が吠える。
音は最小に抑える。
喉。
脳。
即死。
マティルナは腹這いになる。
地面に頬を寄せる。
照準を低く。
最初の標的は後方の斧持ち。
視界の死角に入りやすい位置。
棍棒持ちは前。
耳が良さそうだ。
呼吸を止める。
刻印展開。
銃を形成。
魔力を圧縮。
音を“殺す”。
通常よりも、爆発の魔力を内側に抑える。
貫通力は維持。
反動を抑え、衝撃波を減らす。
引き金。
――乾いた、短い音。
弾丸は一直線。
後頭部へ。
骨を貫き、前へ抜ける。
斧持ちの身体が崩れる。
同時。
棍棒持ちが振り向く。
理解するより先に、咆哮の前兆。
口が開く。
――二発目。
即座に照準修正。
だがここで問題。
一発目で魔力の流れが乱れた。
再構築。
わずかに、遅い。
ほんの一瞬。
その一瞬で、棍棒持ちは踏み込む。
地面が抉れる。
距離が縮む。
撃てる。
だが急所を外せば終わり。
焦らない。
装填完了。
照準。
喉。
引き金。
二発目。
喉を貫く。
だが即死ではない。
咆哮が半分、漏れる。
低い唸り。
巨体が突進。
三歩。
二歩。
マティルナは横へ転がる。
棍棒が地面を叩く。
衝撃。
土が舞う。
三発目。
横から、耳の後ろへ。
脳へ通す。
動きが止まる。
一瞬。
そして崩れる。
地面が揺れる。
静寂。
呼吸が荒くなる前に、周囲確認。
追加反応なし。
だが今のは理想ではない。
二発で終わらせる予定だった。
三発。
装填の“間”。
あの僅かな遅れが、距離を詰めさせた。
連続射撃時、魔力の流れを一定に保つ必要がある。
圧縮と解放。
再構築の速度。
焦りが僅かに混じった。
保持残弾、三。
六発保持できるようになったが、消費も増える。
二体で三発。
効率は悪くない。
だが最適でもない。
マティルナは立ち上がらない。
膝立ちのまま、銃を構え直す。
連続装填の練習。
撃たずに、内部構造だけを組み直す。
一発。
二発。
三発。
流れを一定に。
呼吸と同期。
吸う。
構築。
吐く。
固定。
魔力の波を平らにする。
装填が長い。
それは弱点。
ならば“長く感じさせない”。
一発目で終わらせる。
もしくは二発目を確実に急所へ。
三発目は保険。
四発目以降は余裕。
六発保持できる今、戦術の幅は広がった。
だが慢心はしない。
森は、まだ奥がある。
オーク二体を沈めた。
群れは近い可能性が高い。
今の低音の銃声は、どこまで届いたか。
移動。
銃を解除。
刻印が静まる。
木々の影を縫い、位置を変える。
高所へ。
視界を確保できる岩場へ。
途中、振り返る。
倒れた二体。
完璧ではなかった。
だが確実に仕留めた。
課題は明確。
装填時間。
連続射撃の安定性。
魔力制御。
山は、それを試すには十分な場所だ。
マティルナは岩を登り、森を見下ろす。
岩場の上から見下ろす森は、すでに午後の色を帯びていた。
木々の影が長く伸び、光は斜めに差し込んでいる。
空気の温度が、わずかに下がる。
マティルナはその場に立ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
今日はここまで。
これ以上深く入れば、群れの本隊と接触する可能性が高い。
訓練の域を越える。
目的は達成した。
ゴブリン三体を無音制圧。
オーク一体を一撃。
さらに二体を隠密銃撃で排除。
そして――レベルが一つ上がった。
胸元の冒険者刻印に触れる。
淡い反応は、もう落ち着いている。
内部の魔力容量が、わずかに広がった感覚。
銃弾保持数は六。
その事実を、もう一度静かに確認する。
刻印を展開。
銃を形成。
内部構造を可視化するように、意識を向ける。
一発。
二発。
三発。
四発。
五発。
六発。
安定している。
揺らぎはない。
以前は、五発目の時点で負荷が限界だった。
六発目を形成しようとすれば、魔力が歪み、構造が崩れた。
今は違う。
六発目が自然に収まる。
だが、増えたのは“余裕”であって、“完成”ではない。
オーク二体との戦闘。
三発消費。
装填の一瞬の遅れ。
あの間がなければ、二発で終わった。
六発保持できるようになったことで、撃てる回数は増えた。
だが連続射撃の精度が伴わなければ意味がない。
弾数の増加は、慢心の理由にはならない。
むしろ――
精度を上げなければ、弾数は無駄になる。
マティルナは銃を解除する。
光が溶け、武器は消える。
刻印魔法を解除すれば武器が消える。
それはこの世界の常識。
静かに森へ視線を戻す。
鳥の鳴き声が、戻ってきている。
小動物の気配もある。
脅威が消えた証。
今日の狩りは、ここまでで十分だ。
岩場を降り、来た道とは少し違う経路を選ぶ。
足跡を残さないよう、踏み場を選ぶ。
帰路でも気を抜かない。
訓練は、戦闘だけではない。
移動も訓練。
視線の配り方。
気配の拾い方。
呼吸の整え方。
森を抜ける頃には、空は橙に染まり始めていた。
山の稜線が黒く縁取られる。
街の外壁が見える。
門番がこちらに気付き、軽く手を挙げる。
「今日は一人か?」
問いに、マティルナは小さく頷くだけ。
門を抜け、街へ。
石畳の感触が、森の土とは違う硬さを伝える。
人の声。
商人の呼び込み。
夕餉の匂い。
日常。
自宅へ向かう足取りは一定。
戦闘の余韻は、もうない。
だが身体は覚えている。
斧の軌道。
棍棒の重さ。
装填の間。
自宅の扉を開ける。
静かな室内。
コートを脱ぎ、椅子に掛ける。
机の前に立ち、刻印を再確認。
展開。
銃を形成。
今度は、撃たない。
ただ構え、下ろし、構え直す。
装填の速度を、感覚で測る。
一発形成。
解除。
再形成。
魔力の流れを一定に。
呼吸と同期。
吸う。
吐く。
“間”を詰める。
山で感じた遅れを、ここで修正する。
数分。
いや、数十分。
やがて刻印を閉じる。
今日は終わり。
窓を開けると、夜風が入る。
空には星。
静かな一日。
だが確実に、前より強くなった。
六発。
その一発は小さい。
だが戦場では大きい。
明日、班と合流すれば、彼らは気付くだろう。
魔力の質の変化に。
あるいは、気付かないかもしれない。
どちらでもいい。
強くなるのは、自分のため。
仲間を守るため。
任務を確実に遂行するため。
マティルナは灯りを落とす。
暗闇の中、胸元の刻印がほんのわずかに残光を帯びる。
今日の訓練は終わった。
次は、さらに速く。
さらに静かに。
そして――一発で、終わらせる。
静かな決意だけを残し、夜は更けていった。




