30 久しぶりの四人
朝の空気が、ほんの少し柔らいでいた。
冬の名残はまだあるが、吐く息はもう白くない。
学院へ向かう石畳の道を、マティルナはゆっくりと歩いていた。
最近は、この時間に校門へ向かうことがほとんどなかった。
休日はナク先生とダンジョンへ。
放課後は訓練場へ。
気づけば、班のみんなと顔を合わせる機会が、ずいぶん減っていた。
(……久しぶりだな)
そう思うと、少しだけ足取りが重くなる。
戦うことには慣れつつある。
けれど、“普通に会う”ことのほうが、今は少し緊張する。
「マティルナさん?」
聞き慣れた声に振り向く。
エルナが小走りで近づいてきた。
「本当に久しぶりですね」
弾む声。
それだけで胸の奥が少し温かくなる。
「うん。ごめん、最近ずっと」
「知ってます。訓練ですよね」
責める色はない。
「どうでした?」
問いは単純だ。
けれど答えに少し迷う。
「……疲れた」
エルナがくすっと笑う。
「それは見ればわかります」
「そんなに?」
「前より少し、目つきが鋭いです」
自分では気づかない変化。
「でも」
エルナは続ける。
「なんだか、安心しました」
「え?」
「ちゃんと帰ってきた、って感じがして」
その言い方に、胸がわずかに締まる。
帰る場所。
班は、そういう場所だったのかもしれない。
校門の前。
「遅い」
短い声。
カミラが腕を組んで立っている。
「別に遅刻じゃないよ」
「そういう意味じゃない」
一歩近づいて、じっと見る。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「本当に」
数秒の沈黙。
それから、
「ならいい」
それだけ。
けれど視線の奥に、確かめるような色がある。
「今日は演習だろ」
「うん」
「久々に班で動けるな」
わずかに口元が上がる。
楽しみにしていたのだろうか。
その横から、静かな足音。
「おはよう」
リヒトが現れる。
いつも通りの落ち着いた声。
「訓練続きだったらしいな」
「うん」
「感覚は変わったか?」
問いはまっすぐだ。
少し考えてから答える。
「前より、周りが見えるようになった……気がする」
「それはいい」
短い肯定。
「班で動くときも、活きる」
それだけで、充分だった。
四人で並んで校舎へ向かう。
何気ない足音。
廊下のざわめき。
他の生徒の笑い声。
全部が、少し懐かしい。
教室に入ると、机の配置も、窓からの光も、何も変わっていない。
席に座る。
エルナがすぐ隣に来る。
「ダンジョン、怖くなかったですか?」
「怖いよ」
「えっ」
「毎回」
正直に言うと、エルナは少し驚いた顔をした。
「でも」
言葉を探す。
「怖いままでいられるようになった」
「……?」
「慣れないように、って言われた」
ナク先生の声が頭に浮かぶ。
怖さを消すな。
鈍るな。
エルナはゆっくり頷く。
「それ、わかる気がします」
授業が始まる。
チョークの音。
ページをめくる音。
マティルナはノートを取りながら、ふと周囲を見る。
カミラは肘をついて真剣な顔。
リヒトは背筋を伸ばして静かに聞いている。
エルナは一生懸命に書き写している。
何も変わらない日常。
それが、妙に嬉しい。
昼休み。
四人で食堂へ向かう。
「ダンジョンって、やっぱり臭いする?」
カミラが唐突に聞く。
「する」
「どんな?」
「湿った土と、鉄と……あと、嫌な感じ」
「嫌な感じってなんだよ」
「嫌な感じ」
カミラが笑う。
エルナもつられて笑う。
リヒトが小さく言う。
「空気が重いんだろう」
「うん、それ」
自然に会話が回る。
ぎこちなさは、思ったよりなかった。
(ちゃんと、戻れてる)
午後は班演習。
マティルナは学院規制で、木製の銃に似せた棒を持つことになる。
本物ではない。
撃てない。
けれど、銃剣はつけられる。
ナク先生が立ち会うと聞いている。
「今日は撃てないんだろ?」
カミラが言う。
「うん」
「なら前、少し詰めるか?」
「うん。試してみたい」
リヒトが頷く。
「調整すればいい」
エルナが小さく言う。
「久しぶりに四人で動けるの、楽しみです」
その言葉に、三人が同時に頷いた。
ダンジョンの緊張とも、
訓練場の張り詰めた空気とも違う。
けれど確かに“戦い”へ繋がる時間。
日常は、ただ穏やかなだけではない。
仲間の呼吸を確かめる場所。
戻ってきた自分を、確かめる場所。
午後の鐘が鳴る。
マティルナは立ち上がる。
木製の銃を手に取る前に、深く息を吸った。
久しぶりの班。
撃てなくてもいい。
今日は、四人で動く。
それだけで、少し嬉しかった。
午後の訓練場。
乾いた土が靴裏にざらりと絡みつく。空は高く、雲は薄い。
学院の午後は、いつも少しだけ眠気を帯びているが――訓練場だけは別だ。
そこに立っている人物のせいでもある。
ナク・レイドル教諭。
腕を組み、無言でこちらを見ている。
風が吹き、黒髪が揺れる。
それだけで、空気が一段引き締まった。
「今日は班演習だ」
低い声が落ちる。
「実戦形式。学院規定により、マティルナは射撃禁止。木製銃のみ。銃剣使用可」
「はい」
マティルナは、背に掛けた木製の銃を静かに握る。
本物よりも軽い。だが軽さが逆に、違和感になる。
「危険と判断した場合のみ介入する」
ナク先生は一歩下がった。
「開始」
それだけ。
余計な説明はない。
そして四人は、言葉もなく自然に動いた。
カミラが半歩前へ出る。
リヒトがその斜め後ろへ。
エルナは視界が開ける位置へ静かに下がる。
マティルナは、彼ら三人の中央寄りへ滑り込んだ。
考えなくても、身体が覚えている。
久しぶりのはずなのに。
何度も繰り返した陣形。
何度も調整した距離。
自然と、その形になる。
ナク先生はそれを黙って見ていた。
魔力仕掛けの標的が起動する。
木製のゴブリン型が三体、障害物の陰から姿を現した。
「右二、正面一」
マティルナの声。
反応は即座。
カミラが右へ踏み出し、リヒトが正面を塞ぐ。
エルナが後方で詠唱を始める。
マティルナは中衛の位置を保ったまま、木製銃を構える。
撃てない。
だが、照準を合わせる癖は消えていない。
正面の標的がリヒトへ振り下ろす。
盾で受け止める鈍い音。
「左、回り込む!」
右側の一体がカミラを迂回する。
マティルナが半歩移動。
中衛の役目は、穴を塞ぐこと。
詰めすぎない。
離れすぎない。
木製銃の銃剣を突き出す。
喉元へ。
だが、浅い。
標的は止まらない。
「――止めるな」
背後から低い声。
ナク先生。
マティルナは踏み込む。
突き切る。
柄ごと押し込む。
リヒトの斬撃が横から入り、標的が崩れた。
息が少し乱れる。
右ではカミラが二体を相手にしている。
「一体寄る!」
マティルナが位置を変える。
足を止めない。
円を描くように動きながら、横薙ぎで牽制。
「足は悪くない」
ナク先生の声。
「だが視線が一点に寄る」
言われた瞬間、意識する。
視野を広げる。
全体を見る。
エルナの風魔法が炸裂し、一体が吹き飛ぶ。
最後の一体を、カミラとリヒトが挟み込む。
決着。
「終了」
静寂。
汗が頬を伝う。
ナク先生が歩み寄る。
「久しぶりにしては崩れない」
四人を見る。
「だが中衛が詰めすぎる場面が二度あった」
視線がマティルナへ。
「はい」
「前衛を信じろ。穴が空いてから動け」
短い指摘。
「声は良い」
続ける。
「索敵と共有は向上している」
小さく息を呑む。
カミラが笑う。
「さっきの助かった」
エルナも頷く。
「詠唱に集中できました」
リヒトが軽く肩を叩く。
「ちゃんと戻ってきたな」
戻ってきた。
その言葉が胸に落ちる。
ナク先生が踵を返す。
「もう一度」
魔力標的が五体、同時に起動する。
数が増える。
だが四人は動じない。
言葉は交わさない。
それでも自然と――
前に二人。
後ろに一人。
中央に一人。
久しぶりでも、崩れない。
班の形は、まだそこにある。
「いくぞ」
小さく、マティルナが言う。
今度は、止まらない。
撃てなくても。
四人で戦う、その感覚を確かめるように。
五体同時起動。
土煙を巻き上げながら、木製標的が散開する。
「散るぞ」
小さく、カミラ。
合図ではない。
確認でもない。
ただの呼吸のような言葉。
四人は広がる。
今度はマティルナが半歩後ろに下がった。
中央固定ではなく、流動。
数が増えたときの形。
右から二体、左から一体、正面二体。
正面はリヒトが受ける。
盾に衝撃。
だが二体同時は重い。
マティルナが滑り込む。
銃剣で横から一体の腕を弾く。
打撃でバランスを崩す。
――止めるな。
ナク先生の声を思い出す。
弾いたあと、止まらない。
そのまま半身をずらし、体重を乗せて押し込む。
だが。
背後。
「後ろ!」
エルナの声。
左から回り込んだ一体。
マティルナは振り向く。
一瞬、遅れた。
木製の刃が肩に触れる。
衝撃。
転倒はしないが、体勢が崩れる。
その瞬間。
影が横切った。
鈍い打撃音。
標的が吹き飛ぶ。
ナク先生。
片手で弾き飛ばしていた。
「視野」
短い声。
「中央に寄るな」
マティルナは息を整える。
「はい」
だが立ち止まらない。
まだ三体残っている。
リヒトが押される。
カミラが一体を切り崩す。
マティルナは、今度は無理に前へ出ない。
半歩、横。
全体を見る。
リヒトの盾の角度。
カミラの踏み込み。
エルナの魔力の流れ。
空いた。
その瞬間だけを狙う。
踏み込む。
銃剣を斜め下から突き上げる。
標的の腹部。
リヒトが押し返す。
崩れた。
連携。
呼吸。
最後の一体。
カミラが牽制。
マティルナが横。
リヒトが正面。
挟撃。
終了。
「止め」
ナク先生の声。
静まる訓練場。
汗が顎から落ちる。
「今の」
ナク先生がマティルナを見る。
「遅れた理由は」
「中央に意識を置きすぎました」
「違う」
即答。
「“自分が穴を埋める”意識が強すぎる」
胸が僅かに刺さる。
「班は四人だ」
低い声。
「一人で背負うな」
沈黙。
カミラが肩を回す。
「勝手に背負ってたのか」
半分冗談、半分本気。
マティルナは小さく息を吐く。
「……多分」
ナク先生は続ける。
「単独訓練の癖だ」
その通りだった。
ダンジョンでの一人立ち回り。
索敵も処理も、自分主体。
その意識が抜けていない。
「班戦では、“動かない勇気”も必要だ」
言葉が重い。
「信頼とは、任せることだ」
視線が三人へ向く。
「今の一撃は悪くない」
短い評価。
「だが遅れた一歩の方が問題だ」
マティルナは頷く。
「もう一度やります」
ナク先生は腕を組む。
「今度は六体」
空気が変わる。
カミラが笑う。
「増えたな」
「やるしかないでしょ」
エルナが詠唱の準備をする。
リヒトが盾を構える。
そして――
誰も言わない。
それでも。
自然と。
前に二人。
後ろに一人。
中央に一人。
だが今度は、マティルナは“少しだけ後ろ”。
全体を見る位置。
動きすぎない位置。
標的起動。
六体。
土煙。
迫る影。
マティルナは、深く息を吸う。
――一人じゃない。
視界を広げる。
全体を捉える。
動くべき瞬間だけ、動く。
それを試す。
そして。
初動。
エルナの風が一体を遅らせる。
リヒトが二体を受ける。
カミラが横から一体を削る。
マティルナは――
動かない。
待つ。
一拍。
盾がずれた。
そこ。
踏み込む。
最短距離。
銃剣が喉元を貫く。
すぐ離脱。
追わない。
カミラが処理。
今度は遅れない。
だが、出過ぎない。
全体が滑らかに流れる。
六体目が崩れたとき。
土煙の向こうで、ナク先生が僅かに目を細めた。
「……良い」
それだけ。
だが確かな一言。
マティルナは、ゆっくり息を吐いた。
一人の強さと。
四人の強さ。
その違いが、ようやく身体に馴染み始めていた。
六体目が崩れ落ち、訓練場に静けさが戻る。
土煙がゆっくりと沈み、午後の光が斜めに差し込む。
四人の呼吸だけが、しばらくその場に残った。
「終了」
ナク先生の声は、いつもと変わらない。
だが、その視線は先ほどよりも僅かに柔らいでいる。
マティルナは木製銃を下ろした。
掌に残る振動が、じんわりと熱を持つ。
「配置の移行は滑らかだった」
ナク先生が歩み寄る。
「前衛の負担も均等。中衛の出入りも適切」
短い総評。
だがそれは、はっきりとした評価だった。
カミラが息を吐く。
「さすがに六体は疲れるな」
「でも崩れませんでしたね」
エルナが微笑む。
リヒトは盾を地面に立て、汗を拭った。
「最初の五体より、今の六体の方が安定してた」
その言葉に、マティルナは静かに頷く。
自覚はある。
焦らなかった。
埋めようとしなかった。
“待つ”ことを選べた。
「マティルナ」
呼ばれる。
「はい」
「単独の動きは十分だ」
視線が真っ直ぐに向けられる。
「だが班戦では、強さの出し方が違う」
「……はい」
「今日は理解したな」
短い確認。
「はい」
今度は迷いなく答えられた。
ナク先生は腕を組む。
「班は四人だ。四人で戦う形を忘れるな」
それは叱責ではない。
釘でもない。
ただ、当然の事実として告げられる。
沈黙のあと。
「今日はここまで」
その一言で、張り詰めていた空気が解けた。
四人は自然と円になる。
昔からの癖だ。
「久しぶりだったけどさ」
カミラが言う。
「なんか普通に戻った感じするな」
「うん」
エルナも頷く。
「少し心配してましたけど……」
ちらりとマティルナを見る。
マティルナは小さく笑った。
「大丈夫。ちゃんと戻ってきた」
リヒトが軽く肩を叩く。
「戻る場所があるからな」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
ダンジョンでの単独訓練。
ナク先生との一対一。
複数対一。
積み上げたものは確かにある。
だが――
ここで並んで立つ感覚は、別の強さだ。
ナク先生が離れた位置から四人を見る。
「定期的に班演習を入れる」
低い声。
「一対一も必要だが、班も鍛える」
マティルナは頷く。
「たまには、ですね」
「“たまに”では足りん」
即答。
だがその口調には、どこか僅かな温度があった。
「強くなるなら、全部やる」
それだけ言って、背を向ける。
去り際。
「――悪くない」
ぽつりと。
四人だけに聞こえる声。
それを聞いて、カミラがにやりと笑う。
「今の、褒めたよな」
「褒めましたね」
「珍しい」
リヒトが小さく笑う。
マティルナは空を見上げる。
雲がゆっくり流れている。
日常。
授業があり、訓練があり、仲間がいる。
派手な戦いではない。
だが、確かに前へ進んでいる。
「また明日な」
カミラが言う。
「明日も班だろ」
「そうだね」
「サボるなよ」
「サボらない」
当たり前のやり取り。
それが、こんなにも心地いい。
マティルナは木製銃を背負い直す。
本物ではない。
だが、その重みは確かだ。
一人の強さを磨く日もある。
四人で強くなる日もある。
そのどちらも、自分の道だ。
夕方の鐘が鳴る。
学院の一日が、ゆっくりと閉じていく。
並んで歩き出す四人の背を、少し離れた場所からナク・レイドル教諭が見ていた。
何も言わない。
だが、その視線は確かに承認だった。
――強くなれ。
言葉にしなくても、伝わるものがある。
班の日常は続く。
戦いも、笑いも、失敗も。
そのすべてを積み重ねながら。
明日もまた、四人で立つために。




