27 実戦訓練
休日の朝は、学院の鐘が鳴らない。
それだけで、世界の輪郭が少し変わる気がした。
校舎前の広場には人影が少なく、普段なら行き交う生徒たちの声もない。空気は冷たく澄んでいて、足音がやけに大きく響く。
マティルナは、指定された時間より少し早く到着していた。
実戦用の軽装。
学生用の制服ではなく、動きやすさを優先した服装。
今日は戦闘が目的ではない。
しばらくして、重い足音が近づいてきた。
振り返るまでもない。
ナク・レイドル教諭だった。
鍛え上げられた体躯は休日でも変わらず、無地の上着越しでも筋肉の輪郭がはっきりとわかる。背筋は真っ直ぐで、歩き方に一切の無駄がない。
彼はマティルナの前で立ち止まり、腕時計を一瞥する。
「早いな」
「はい」
「悪くない」
それで挨拶は終わりだった。
ナクは踵を返し、歩き出す。
「ついて来い」
それ以上の説明はない。
目的地は、学院が管理する初級ダンジョン。
学生実習でも使われるが、休日の立ち入りには教員の同行が必須だ。
門を抜け、街を離れるにつれて、空気が変わっていく。
人の気配が減り、代わりに風の音や、草を踏む音がはっきりと聞こえるようになる。
ナクは歩きながら言った。
「今日は訓練だ」
それだけ聞けば当たり前だが、続く言葉が本題だった。
「討伐は目的じゃない」
「雰囲気に慣れる。距離を見る。音を聞く」
「索敵の基礎を、実地でやる」
マティルナは小さく頷く。
「はい」
「質問は?」
一瞬、考える。
「……戦闘の判断は?」
「するなとは言わん」
「だが、今日は“戦闘しなくていい距離”を知る日だ」
それは、はっきりとした答えだった。
ダンジョンの入口は、岩肌に口を開けるように存在していた。
魔力灯が淡く光り、内部は完全な闇ではない。
だが、光があるからこそ、影もはっきりと存在する。
ナクは入口の前で立ち止まり、マティルナを見る。
「入る前に一つ」
彼は低い声で言った。
「ダンジョンは、生き物だと思え」
「動かない壁も、沈黙も、全部含めてだ」
それだけ言って、中へ入る。
マティルナも続いた。
一歩、足を踏み入れた瞬間。
空気が変わる。
湿度。
温度。
音の反響。
外とは、完全に違う。
ナクは歩きながら、意図的に説明をしない。
代わりに、時折、足を止める。
「今、何が聞こえる」
マティルナは耳を澄ます。
水滴が落ちる音。
どこかで石が擦れるような音。
――そして、規則性のない、かすかな擦過音。
「……奥、右寄り。移動してる」
「距離」
「まだ遠いです。音が反射して……たぶん、二十以上」
「武器は?」
「要らない」
「よし」
ナクは短く言い、また歩き出す。
進むにつれて、足場が変わる。
石が増え、段差が現れ、見通しが悪くなる。
ナクはそこで、初めて振り返った。
「お前は、撃つ時に“見て”いる」
「はい」
「だが、見える距離はもう手遅れだ」
彼は壁を指で軽く叩く。
「音」
「空気」
「圧」
「感じろ」
マティルナは、無意識に呼吸を整える。
確かに、まだ何も見えていないのに、胸の奥がわずかにざわついている。
ナクはそれを見逃さなかった。
「今だ」
「……はい」
「それが“距離”だ」
「敵とじゃない。自分との距離だ」
さらに奥へ進む。
弱いモンスターの気配。
だが、今日はそれに近づかない。
ナクは意図的に、進路を変える。
「逃げる練習も実戦だ」
それは、学院ではあまり教えられない言葉だった。
「強い者ほど、距離を選ぶ」
「勝てる時にしか、踏み込まない」
マティルナは、その背中を見ながら思う。
(この人は……前に出る人じゃない)
前線に立つのに、無謀ではない。
退く判断を、恥だと思っていない。
ダンジョンの空気は、相変わらず冷たい。
だが、最初に感じた緊張とは違う。
輪郭がはっきりしてきている。
怖いのではなく、分からないものが、少しずつ分かってきている。
ナクは、最後に一度だけ立ち止まった。
「今日はここまでだ」
「もう、ですか」
「十分だ」
振り返り、短く言う。
「戦闘に帰れるのは、上出来だ」
マティルナは、ゆっくりと息を吐いた。
戦闘はしていない。避けていたから。
それでも、学んだことは多かった。
距離。
音。
沈黙。
そして、ダンジョンという場所の“呼吸”。
出口の光が見えた時、ナクはぽつりと告げた。
「次は、戦闘する」
それは予告だった。
だが、不思議と怖くはない。
マティルナは、静かに頷いた。
「はい」
休日は、まだ始まったばかりだった。
ダンジョン内部は、先ほどよりもわずかに湿っていた。
天井から落ちる水滴の音が増え、足元の石も滑りやすくなっている。通路は折れ、視界は短く区切られていた。
ナクは歩幅を落とす。
それに合わせて、マティルナも呼吸を浅くした。
――近い。
音が、さっきよりはっきりしている。
擦れる足音。低く、せわしない。
「止まれ」
ナクが小さく手を上げた。
二人は物陰に身を寄せる。
灯りの届かない影の中で、気配だけを拾う。
「数」
低い声。
「……二。小型」
「種別」
「ゴブリン。武器あり」
その瞬間、甲高い声が通路の奥から響いた。
見つかった。
ナクは動かない。
「判断は任せる」
それだけだった。
マティルナは、一歩前に出る。
――撃つ。
その決断に、迷いはなかった。
刻印が、淡く光る。
空気が一瞬、引き絞られる感覚。
次の瞬間、マティルナの手に火縄銃が現れていた。
木と鉄で構成された、古式の銃。
同時に、銃口の下に銃剣が装着される。
召喚は一瞬。
無駄な光も、派手な演出もない。
ゴブリンの一体が、通路の曲がり角から飛び出す。
距離、十歩。
マティルナは、迷わず引き金を引いた。
轟音。
ダンジョンの壁が震え、煙が一気に広がる。
弾丸は正確に、ゴブリンの上半身を貫いた。
勢いのまま、身体は後方へ吹き飛び、壁に叩きつけられる。
一体、即死。
だが、終わりではない。
もう一体が、煙の中から突っ込んでくる。
距離が近い。
撃ち直すには、時間が足りない。
マティルナは銃を構え直さない。
踏み込む。
重心を前へ。
銃身を低く。
ゴブリンの刃が振り下ろされるより早く、銃剣が突き出された。
鈍い感触。
刃が、胸元を貫く。
勢いを殺さず、体を捻る。
そのまま引き抜き、蹴りで距離を取る。
ゴブリンは声を上げる間もなく、崩れ落ちた。
静寂が戻る。
硝煙の匂いだけが、ダンジョンに残った。
マティルナは一度、周囲を見回す。
追加の気配はない。
そこで、火縄銃を構えたまま、立ち止まった。
「……終了です」
ナクは、ゆっくりと近づいてくる。
死体を一瞥し、次に壁、床、天井を見る。
最後に、マティルナの足元。
「まず、評価」
低い声。
「撃つ判断は正しい」
「距離も悪くない」
そこで一拍置く。
「だが、甘い」
マティルナは、銃を下ろした。
「どこが、でしょうか」
ナクは、最初に倒れたゴブリンの位置を指差す。
「一体目」
「確実に仕留めた。威力も十分」
「だが、通路を使った」
「……はい」
「煙がこもる」
「反響音で、次の気配が読みにくくなる」
マティルナは、はっとする。
確かに、二体目は音が紛れた。
「次」
ナクは、二体目の死体を見る。
「銃剣の判断は良い」
「近距離で再装填を選ばなかったのは評価する」
しかし、と続けた。
「踏み込みが深い」
「深い、ですか」
「お前は、撃つ者だ」
「近接は“逃げ道”であって、“主戦場”じゃない」
ナクは、マティルナの足元にあった石を軽く蹴る。
「今、足を取られていたら終わりだ」
マティルナは、無意識に足を見た。
確かに、滑りやすい。
「撃って終わらせる距離」
「近づくなら、退く前提でやれ」
それは、戦い方の否定ではない。
役割の明確化だった。
「最後」
ナクは、マティルナの目を見る。
「お前は、周囲を見過ぎる」
「……確認していました」
「それは良い」
「だが、その間、銃を解除していない」
マティルナは、はっとして火縄銃を見る。
まだ、手にある。
「撃ち終わったら、消せ」
「それも隙だ」
その言葉で、マティルナは刻印を意識し、銃を解除する。
武器は、何事もなかったかのように消えた。
ナクは、そこで初めて小さく頷いた。
「総合評価」
一歩下がり、言う。
「及第点以上」
「だが、実戦では“無傷”を目指せ」
「はい」
「殺すことじゃない」
「帰ることだ」
その言葉は、重かった。
ナクは歩き出す。
「次は、数が増える」
「撃つ前に、撃たせない距離を考えろ」
マティルナは、その背中を見ながら思う。
(……この人は、戦いを“減らす”人だ)
それは、学院で教わる戦闘論とは少し違う。
だが、確実に“生き残る”ための考え方だった。
ダンジョンの奥から、また別の気配が流れてくる。
先ほどより、重い。
ナクは立ち止まらない。
「行くぞ」
マティルナは、深く息を吸い、頷いた。
次は、もう少し厄介になる。
だが――。
今度は、距離をもっと正確に測れる気がしていた。
ダンジョンの通路は、次第に複雑さを増していった。
一本道だった構造は枝分かれし、曲がり角が増え、天井の高さも一定ではなくなる。視界の抜けは悪く、音は反響しやすい。
ナクは歩調を緩め、マティルナの半歩後ろに位置を取った。
「ここからは、前に出ろ」
それだけ言う。
「俺は、見ている」
つまり――一人でやれ、という意味だ。
マティルナは小さく頷き、前へ出た。
足音を抑える。
呼吸を一定に保つ。
刻印は、まだ起動しない。
まずは、探る。
視線を低く、壁沿いに。
床の擦れ、血痕、爪痕。
(……小型、多数)
ゴブリンではない。
足跡が浅い。爪が鋭い。
(ラット系……三、いや四)
マティルナは立ち止まり、振り返らずに声を落とす。
「先生、ここ……」
「言わなくていい」
ナクの声は低い。
「判断は、自分で」
マティルナは口を閉じた。
その代わり、頭を回す。
通路は狭い。
天井は低く、壁は湿っている。
撃てば反響が大きい。
煙も残る。
(……なら)
刻印が、静かに起動する。
だが、銃は出さない。
代わりに、足元の石を拾う。
軽く投げる。
乾いた音が、通路の奥で跳ねる。
反応は、すぐだった。
甲高い鳴き声。
複数の影が、動く。
マティルナは、一歩下がる。
通路の分岐点。
背後に壁。
逃げ場は一つ。
影が飛び出す。
ラット系モンスター、四体。
距離、近い。
マティルナは、刻印を強く意識する。
火縄銃が現れる。
一体目が跳ぶ。
撃つ。
轟音。
一体、消し飛ぶ。
だが、残り三体は止まらない。
(多い……)
マティルナは、すぐに解除する。
煙が広がる前に。
そして、横へ跳んだ。
二体目が、さっきまでいた場所を噛む。
銃剣を装着。
三体目が突進。
突き。
刃が通る。
だが――。
四体目が、側面から来る。
反応が、半拍遅れた。
爪が、制服の端を裂く。
浅い。
だが、確かに被弾だ。
マティルナは距離を取り、最後の一体を銃剣で仕留めた。
静寂。
呼吸が、少し乱れる。
「止まれ」
ナクの声。
マティルナは、その場で動きを止めた。
「今の」
ナクが、前に出てくる。
「三体目を倒したあと、何を考えていた」
即答できなかった。
「……数は減った、と」
「それが、油断だ」
ナクは、裂けた制服を指差す。
「一体残っている時点で、状況は“未処理”だ」
マティルナは唇を噛む。
「質問します」
視線を上げる。
「この状況で、銃を使わない判断は……」
「間違っていない」
即答だった。
「だが、使わないなら“代替案”を持て」
「石を投げたのは良い」
「だが、その後の配置が甘い」
ナクは、床に印を描くように足でなぞる。
「分岐点を使え」
「敵を一列に並べろ」
マティルナは、その動線を頭の中でなぞる。
「……こうですか」
実際に、動いてみる。
数歩下がり、角度を変え、壁際に立つ。
ナクは、頷いた。
「そうだ」
「撃つなら、その位置だ」
マティルナは、深く息を吸う。
「もう一度、やってみてもいいですか」
「次の遭遇でな」
ナクは淡々と言った。
進む。
次の空間は、少し広い。
柱があり、視界が切れる。
気配は……一体。
だが、重い。
(……オーク未満、ゴブリン以上)
マティルナは、立ち止まらず進む。
影が、柱の向こうから現れる。
ホブゴブリン。
武器は、斧。
距離、中。
マティルナは、迷わず銃を召喚した。
撃つ。
だが、相手は怯まない。
斧が、飛んでくる。
マティルナは、横に転がる。
銃剣装着。
詰めてくる。
マティルナは、敢えて一歩前に出た。
相手が振り下ろす瞬間。
半身。
突き。
喉元。
ホブゴブリンは、そのまま崩れた。
ナクは、何も言わない。
少し歩いてから、口を開いた。
「今の判断は良い」
珍しく、肯定だった。
「距離を詰めた理由」
「……振りが大きかったから」
「正解だ」
そこで一拍。
「だが、毎回使えるとは思うな」
「はい」
マティルナは、即座に答えた。
歩きながら、質問する。
「先生は……戦闘する人間でしたか」
ナクは、少し間を置いた。
「昔はな」
「今は?」
「戦闘を避ける」
それだけだった。
マティルナは、その言葉を反芻する。
(戦闘前に、避けるべきかの判断か)
ダンジョンの空気は、変わらない。
だが、自分の見方が、少しずつ変わっていくのを感じていた。
戦うために入ったはずの場所で、戦わないための方法を、学んでいる。
それ以上、大きな遭遇はなかった。
小型の魔物が数体。
罠らしき痕跡が一つ。
マティルナは、どれも「倒す」より先に「避ける」「距離を取る」「引き返す」を選んだ。
銃を出す回数は、明らかに減っていた。
そして――。
ダンジョンの入口が、再び視界に入った。
薄暗い石の通路が終わり、人工的に整えられた壁と、外光が混じる境界。
マティルナは、そこで足を止めた。
無意識に、振り返る。
ナク・レイドル教諭は、最初と同じ位置にいた。
距離も、立ち方も、変わらない。
「……以上ですか」
マティルナが尋ねる。
「ああ」
短い返事。
「今日は、ここまでだ」
それだけで、ダンジョン内での訓練が終わったことがわかった。
外に出ると、空気が違った。
湿り気のない風と、陽の匂い。
マティルナは、知らず息を吐いていた。
「疲れたか」
「……少し」
正直な答えだった。
体力よりも、頭の方が。
ナクは、少しだけ視線を上げ、空を見た。
「今日、お前は三回“撃てた”場面があった」
唐突な言葉。
「だが、撃たなかった」
マティルナは黙って聞く。
「それは、成長だ」
褒め言葉だった。
だが、淡々としている。
「だが同時に――」
一拍置く。
「まだ、撃つ前提で考えている」
マティルナは、視線を落とした。
「……はい」
「悪くはない」
「お前の武器は、それでいい」
ナクは、ゆっくりとマティルナを見る。
「だが、“一人で潜る”なら、次はこうだ」
地面を、靴先で軽く叩く。
「・入らない選択」
「・戦わない判断」
「・逃げる経路」
「それを、撃つ前に考えろ」
マティルナは、深く頷いた。
「質問があります」
「言え」
「先生は……私が一人で入ること、危険だと思いますか」
ナクは、すぐには答えなかった。
数秒。
ほんの僅かな沈黙。
「危険だ」
即答だった。
だが、そのまま続く。
「だからこそ、許可が出た」
マティルナは、目を瞬かせる。
「守られているうちは、身につかん」
「今日の内容は、“戦力評価”じゃない」
ナクは、歩き出しながら言った。
「生存評価だ」
その言葉が、静かに胸に落ちる。
マティルナは、後を追った。
ダンジョンから離れ、施設の敷地を歩く。
もう魔物はいない。
だが、頭の中では何度も今日の場面が再生されていた。
(……撃たなくても、できること)
(撃たない方が、いい時)
それが、少しだけ見えた気がした。
校舎の影が見えたところで、ナクが足を止める。
「次は、もう少し深い階層だ」
「はい」
「今日より、静かに行く」
「……はい」
ナクは、そこで初めて、ほんの僅かに口元を緩めた。
「それができれば――」
言葉を切る。
「お前は、“撃つ役”じゃなくなる」
それが、何を意味するのか。
マティルナは、すぐにはわからなかった。
だが、悪い意味ではないとだけは、はっきり感じた。
刻印は、静かだった。
銃も、銃剣も、呼ばれていない。
それでも、今日は生きて帰ってきた。
それが、この日の結論だった。
マティルナ・ロウェルは、空を見上げ、静かに歩き出す。
――次は、撃たずに終わらせられるか。
その問いを、胸に抱えたまま。




