18 休日
朝の光は、平日よりも少しだけ優しかった。
カーテン越しに差し込む淡い陽射しが、部屋の床に細い帯を作っている。
鳥の鳴き声。遠くで誰かが扉を開ける音。
学校の鐘も、集合の気配もない。
マティルナは、布団の中で小さく息を吐いた。
「……休み、だ」
口に出して、ようやく実感が湧く。
平日は、起きた瞬間から頭のどこかが張り詰めている。
講義、演習、模擬戦、班の動き。
銃を使う以上、いつも“次”を考えていなければならなかった。
けれど今日は違う。
弾数も、間合いも、結界もない。
ここは自分の家で、今日はただの休日だ。
マティルナはゆっくりと上体を起こし、伸びをする。
寝癖のついた髪が肩に落ち、視界の端で揺れた。
小さな机の上には、昨日のまま置かれた教科書とノート。
その隣に、丁寧に畳まれた制服。
――今日は着ない。
そう思うだけで、少し気が楽になる。
着替えを済ませ、部屋を出ると、家の中には朝の匂いが満ちていた。
焼き立てのパンと、温めたミルクの甘い香り。
「おはよう、マティルナ」
台所から、母の声がする。
「おはよう」
返事をしながら、マティルナはエプロンを取った。
これは、いつもの流れだ。
「今日は手伝うよ」
「助かるわ」
母は笑って、鍋を指差す。
「スープを混ぜてくれる?」
木のスプーンを受け取り、鍋を覗き込む。
野菜が柔らかく煮込まれていて、湯気がふわりと立ち上る。
ぐるり、ぐるりと混ぜながら、マティルナはふと思う。
――こういう時間、久しぶりかもしれない。
学校に入ってから、休日も演習や自主練で潰れることが多かった。
家にいても、頭の中では戦いのことを考えていた。
母は、そんなマティルナを横目で見ながら、さりげなく言う。
「最近、忙しそうね」
「うん……ちょっと」
「大変?」
その問いに、マティルナは少しだけ迷ってから答えた。
「……楽しい、よ」
嘘ではなかった。
怖いこともある。
難しいことも多い。
けれど、自分の居場所がある。
頼れる仲間がいる。
母は、その答えに満足したのか、深くは追及しなかった。
「じゃあ、今日はゆっくりしなさい」
「買い物もあるし、手伝ってもらうけどね」
「うん」
朝食は、いつもよりゆっくりだった。
慌てて食べる必要もなく、会話も途切れない。
町の噂。市場の話。近所の人の話。
学校とはまるで違う、穏やかな時間。
食器を片付け終えたあと、マティルナは一度自室に戻る。
銃は、召喚していない。
銃剣も、今日は手に取らない。
代わりに、肩掛けの鞄を手にする。
「じゃあ、行ってくるね」
「気をつけて」
母の声を背に、家の扉を開ける。
外は、休日らしい空気に満ちていた。
通りを歩く人の数も、どこかゆったりしている。
――今日は、学校じゃない。
そう思いながら、マティルナは市場へ向かって歩き出した。
この一日は、まだ始まったばかりだ。
市場は、朝よりも少し賑わっていた。
露店の呼び声。
野菜を選ぶ人の笑い声。
焼き菓子の甘い匂いが、通りに漂っている。
マティルナは、母の隣で籠を持ちながら歩いていた。
「じゃがいもは、これくらいでいいかしら」
「うん、それで」
返事をしながらも、目はつい周囲を見回してしまう。
人混みの中にいると、自然と“周囲確認”の癖が出る。
――いけない。
今日は休日だ。
マティルナは、意識して肩の力を抜いた。
「……最近、姿勢がいいわね」
母が、ふとそんなことを言う。
「え?」
「前は、もう少し猫背だった気がするんだけど」
言われて、マティルナは自分の背筋を意識した。
確かに、伸びている。
剣の踏み込みを止める位置。
銃を構えるときの軸。
全部、無意識に身についている。
「……学校で、色々やるから」
「訓練?」
「うん」
それ以上は、詳しく話さなかった。
話せば話せるけれど、全部を伝える必要はない。
母も、それを察してか、深くは聞いてこない。
次に立ち寄ったのは、布地の店だった。
「新しい服、いる?」
「……今のので、足りてる」
即答すると、母は少し困った顔をする。
「そう言って、ずっと同じの着てるじゃない」
「動きやすいし」
「そればっかり」
小さく笑いながら、母は棚を指差した。
「これは?」
淡い色合いの、シンプルな服。
装飾は少ないが、仕立てがいい。
マティルナは、しばらくそれを見つめてから言った。
「……それなら、いいかも」
戦うための服ではない。
けれど、“普通の時間”を過ごすための服。
そういうものも、必要だと――最近、少しだけ思うようになった。
買い物を終え、昼前には家へ戻った。
昼食の準備も、マティルナが手伝う。
野菜を切り、パンを温め、食卓を整える。
包丁を持つ手つきは、銃剣とはまるで違う。
それでも、刃物を扱う慎重さは共通していた。
「……本当に、変わったわね」
母が、ぽつりと言う。
「いい意味で、よ」
その言葉に、マティルナは少しだけ照れた。
「……班の人たちが、ちゃんとしてるから」
「班?」
「うん。四人で動くの」
思い浮かぶ顔が、自然と浮かぶ。
冷静で現実的なカミラ。
控えめだけど、周囲をよく見ているエルナ。
静かで、よく考えているリヒト。
そして、自分。
「みんな、強いよ」
その言葉は、少し誇らしかった。
昼食後、食器を片付けたあと、マティルナは居間の椅子に腰を下ろす。
窓から入る光が、ゆっくりと床を移動している。
静かだ。
学校では、常に誰かの声や音がある。
魔法の気配。
剣の風切り音。
銃声――は、まだ珍しいけれど。
それらがない空間は、どこか落ち着かない。
マティルナは、ぼんやりと天井を見上げた。
模擬戦。
ダンジョン。
冒険者登録。
思い返すと、ここ最近の出来事は濃すぎる。
――守られてたな。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
一対一のときは、否応なく自分で戦う。
でも、班で動くときは違う。
前に出てくれる人がいる。
間を作ってくれる人がいる。
背中を預けられる。
それは、心強い。
同時に、少しだけ――引っかかる。
マティルナは、無意識に自分の手を見る。
何も持っていない手。
銃も、銃剣も、今日はここにない。
「……」
そのまま、しばらく何もせずに過ごした。
午後になれば、また別の時間が流れ始める。
この休日は、まだ続いている。
静かな違和感を、胸の奥に抱えたまま。
午後の陽射しは、昼とは少し違っていた。
窓から差し込む光は柔らかく、影も長い。
家の中にいると、時間がゆっくり伸びていくように感じられる。
マティルナは、居間の床に座り、布を広げていた。
午前中に買った服。
まだ洗ってもいない、折り目の残る布。
指で触れると、思ったよりも柔らかい。
「……動きにくくは、なさそう」
誰に聞かせるでもなく、独り言がこぼれる。
戦闘用の装備ではない。
けれど、日常を過ごすには十分だ。
そのことに、少しだけ安心した。
しばらくして、母が声をかけてくる。
「これ、たたむの手伝ってくれる?」
「うん」
洗濯物を一緒にたたむ。
布と布を重ね、角を揃える。
単調な作業は、考えごとを呼び起こす。
――銃剣だけで、いいのかな。
自衛用の武器。
冒険者として動くなら、最低限の備え。
カミラからもらった銃剣は、信頼できる。
近接で使えるし、いざとなれば“持っている”という安心感もある。
でも。
模擬ダンジョンでは、どうだったか。
前に立っていたのは、リヒト。
横を支えていたのは、カミラ。
後ろから補助してくれたのは、エルナ。
自分は――決める一撃を撃っただけ。
「……」
その事実が、重くも軽くもないまま、胸に残る。
守られていた。
それは、事実。
嫌ではない。
むしろ、ありがたい。
けれど、それだけでいいのかは、まだ分からない。
洗濯物をたたみ終え、母が台所へ戻ると、家はまた静かになる。
マティルナは、窓辺に寄り、外を眺めた。
通りを歩く人。
子どもの笑い声。
遠くで鳴る鐘の音。
学校とは、別の世界。
ここでは、銃も、ランクも、評価も関係ない。
それでも、頭の中では自然と整理が始まってしまう。
一対一なら、撃たざるをえない。
距離を詰められれば、刃を使うしかない。
でも、班で動くなら。
自分は、どこまで前に出るべきなんだろう。
銃は強い。
けれど、弾数は限られている。
銃剣はある。
でも、専門ではない。
「……もう少し、考えよう」
答えを出すには、まだ早い。
夕方になり、母が夕食の支度を始める。
香ばしい匂いが、家に広がる。
マティルナも、自然と手伝いに入った。
「学校、楽しい?」
唐突な質問。
「……うん」
少し考えてから、答える。
「前より」
「それは、よかった」
母は、それ以上何も言わなかった。
けれど、その声には、確かな安堵があった。
食事を終え、後片付けをして、日が沈む。
夜の気配が、家を包む。
マティルナは、自分の部屋に戻り、ベッドに腰掛けた。
今日は、戦っていない。
撃ってもいない。
それでも、頭はよく動いた。
銃剣を持つ自分。
銃を撃つ自分。
仲間の後ろにいる自分。
どれも、自分だ。
どれか一つに決める必要は、まだない。
ゆっくりでいい。
この休日は、そう教えてくれている気がした。
マティルナは、灯りを落とし、布団に潜り込む。
外では、夜風が静かに吹いていた。
明日も、きっと――続いていく。
静かで、さわさわとした時間の先へ。
部屋の灯りを落とすと、世界が一段、静かになった。
窓の外には、夜。
遠くで誰かが歩く音と、風に揺れる木の葉の擦れる音だけが聞こえる。
マティルナは、布団の中で仰向けになり、天井を見つめていた。
今日は、何も起きなかった。
戦闘もない。
演習もない。
誰かに評価されることもない。
ただ、起きて、手伝って、話して、考えて、眠るだけ。
それなのに、不思議と心は満たされていた。
――守られていたこと。
それを、改めて思い出す。
模擬戦でも。
ダンジョンでも。
自分は、いつも誰かの後ろか、間にいた。
それを「弱い」とは、もう思わない。
班で動くというのは、そういうことなのだと、少しずつ理解してきている。
一対一なら、戦う。
撃つしかない時もある。
刃を使わざるをえない場面も、きっと来る。
でも――。
「……全部、私がやらなくてもいいんだ」
小さく、そう呟いた。
銃剣は、手元にある。
銃も、必要な時に使える。
それで十分だ。
少なくとも、今は。
もっと強くなりたいと思う気持ちはある。
でも、それは焦るものじゃない。
今日の一日は、そう教えてくれた。
母の声。
家の匂い。
何気ない会話。
それらが、自分をちゃんと「戻してくれる」。
戦うためだけに生きているわけじゃない。
撃つためだけに、ここにいるわけでもない。
布団の中で、体の力がゆっくり抜けていく。
明日は、また学校だ。
また、班のみんなに会う。
話して、笑って、考えて、時々戦う。
その繰り返しの中で、きっと答えは見つかる。
マティルナは、目を閉じた。
夜は、静かだった。
――大丈夫。
そう思える自分が、ここにいる。
それだけで、この休日は、十分だった。




