15 模擬ダンジョン 2回目
模擬ダンジョンの運用開始から、一日が経っていた。
朝から、校舎内の空気はどこか重い。
廊下ですれ違う生徒たちの会話には、いつもより抑えた声と、短い言葉が多かった。
「……昨日の班、途中撤退だったらしい」
「ボス、硬すぎるって」
「三人で囲んでも、全然止まらなかったとか……」
断片的な情報が、噂として流れている。
どれも、あまり良い話ではない。
模擬ダンジョン二回目。
今回は、明確に“難度が上がっている”。
ゴブリンに加えて、ボス個体。
しかも、班単位での評価が強調されている。
――倒せなければ、減点。
――無理をすれば、さらに減点。
曖昧だが、厳しい。
本日三組目として潜ることになったマティルナ班は、ダンジョン前の待機室に集まっていた。
白い壁。
簡素な長椅子。
そして、中央に浮かぶ魔法陣。
この奥が、模擬ダンジョンへの入口だ。
「……思ったより、静かだね」
エルナが、小さく言った。
声を張るでもなく、緊張を誤魔化すでもない。
ただ、感じたままの感想。
「逆に、嫌だな」
カミラは、装備のベルトを締め直しながら答える。
「派手に失敗した班が多い時ほど、運営は何も言わない」
「……確かに」
エルナは苦笑する。
マティルナは、少し離れた位置で、火縄銃の点検をしていた。
弾丸は五発。
これは、演習で確認した通り。
多くはない。
だが、少なすぎるわけでもない。
――問題は、いつ撃つか。
銃身をなぞりながら、マティルナは心の中で繰り返す。
撃てば、終わる可能性は高い。
だが、撃てば、次はない。
装填にかかる時間。
視界の確保。
仲間の位置。
どれか一つでも狂えば、ただの大きな音だ。
「マティルナ」
名前を呼ばれて顔を上げると、リヒトが立っていた。
いつも通り、落ち着いた表情。
だが、視線は鋭い。
「昨日、確認した通りでいい」
「……うん」
「ゴブリンは、君の弾を使う相手じゃない」
念押しだった。
マティルナは、静かに頷く。
わかっている。
だからこそ、少しだけ、緊張する。
撃たないという選択は、撃つよりも難しい。
魔法陣が、淡く光り始める。
「マティルナ班、準備を」
監督役の教師の声が響く。
四人は、自然と位置を確認した。
前。
横。
後ろ。
誰かが号令をかけるわけでもない。
それでも、立ち位置は決まっていた。
エルナは、後方寄り。
精霊を呼び出すため、視界と距離を確保できる位置。
カミラは、中距離。
状況に応じて前にも後ろにも動ける。
リヒトは、前。
剣を抜かずとも、そこに立つだけで“壁”になる。
マティルナは、最後尾。
撃つための場所。
魔法陣の光が強まり、足元の感覚が一瞬だけ失われる。
次の瞬間――。
視界が切り替わった。
湿った空気。
低い天井。
不規則に配置された岩柱。
模擬ダンジョン特有の、作られた地下空間。
「……来る」
リヒトが、短く告げる。
気配は、すでにあった。
前方、岩陰。
複数。
――ゴブリン。
緑がかった肌。
歪んだ体格。
粗末な武器。
前回と同じ。
だが、数が違う。
「エルナ」
「うん」
エルナが、小型精霊を呼び出す。
淡い風が流れ、視界が広がる。
「左、三。右、四……後ろは、今はいない」
「十分」
カミラが、低く言う。
ゴブリンたちが、こちらに気づいた。
甲高い声。
武器を振り上げ、突進してくる。
「行く」
リヒトが、一歩前に出る。
剣を抜く音はしない。
だが、その動きだけで、ゴブリンの進路が歪む。
カミラが、即座に動いた。
間合いを詰めすぎず、確実に止める。
エルナの精霊が、足元を乱す。
連携は、昨日の演習通り。
マティルナは、撃たない。
銃を構えながらも、引き金には触れない。
――まだだ。
ゴブリンは、倒せる。
銃がなくても。
目の前で繰り広げられる戦闘を、マティルナは冷静に見つめていた。
撃たないという選択が、正しいと信じながら。
そして――。
ダンジョンの奥。
さらに重い気配が、ゆっくりと動き始めていることを。
まだ、誰も口にはしなかったが。
“本番”は、これからだった。
ゴブリンの群れは、数こそ多いが統率はない。
突っ込んでくる者もいれば、様子を見て距離を取る者もいる。
その曖昧さが、かえって厄介だった。
「左、寄せる!」
カミラの声に、エルナの精霊が即座に反応する。
風が床を撫で、足元を取られたゴブリンが体勢を崩した。
そこへ、リヒトが踏み込む。
剣は最小限の軌道。
振り回すことはしない。
止める。
押し返す。
前に出させない。
剣先が閃くたび、ゴブリンは致命傷こそ負わないものの、確実に動きを奪われていく。
「――数、減ってきた」
エルナが、短く報告する。
マティルナは、後方から全体を見渡していた。
銃は構えている。
だが、狙いは定めない。
撃てば、数は一気に減る。
だが、それは“今”ではない。
――撃たなくていい。
その判断を、胸の奥で何度も確認する。
ゴブリンが一体、岩陰から飛び出した。
リヒトの死角を突くような動き。
「右、来る!」
マティルナが声を上げる。
リヒトは、振り返らない。
だが、踏み込みの角度をわずかに変えた。
剣圏に入った瞬間、ゴブリンは押し返され、床を転がる。
「助かった」
「まだ、撃たない」
短いやり取り。
それで十分だった。
カミラは、息を乱さずに動き続けている。
実用重視の動き。
派手さはないが、無駄がない。
「……前より、落ち着いてるね」
エルナが、ふと漏らした。
誰に向けた言葉でもない。
だが、マティルナにはわかった。
前回の模擬ダンジョン。
自分が撃って終わらせた場面。
あの時とは違う。
今は、みんなが動いている。
そして、自分は――待っている。
ゴブリンの最後の一体が、逃げるように距離を取った。
だが、リヒトが前に出る。
剣を振るうことなく、進路を塞ぐ。
ゴブリンは、結界に触れ、強制的に無力化された。
静寂が、戻る。
一瞬だけ。
「……全滅」
カミラが、周囲を確認して言った。
マティルナは、銃口を下げる。
引き金は、まだ引いていない。
弾丸は、五発のまま。
――よし。
だが、安堵は長く続かなかった。
空気が、変わる。
遠く。
通路の奥。
今までとは、明らかに違う気配。
重い。
鈍い。
それでいて、確実にこちらを認識している。
「……来るね」
エルナの声が、少しだけ硬くなる。
リヒトは、何も言わずに前に出た。
その背中が、いつもより大きく見える。
「ここからが、本番」
カミラが、低く呟く。
マティルナは、ゆっくりと銃を構え直した。
撃つためではない。
撃つ“可能性”を、そこに置くため。
ボスが、どんな相手かはわからない。
だが、一つだけ確かなことがある。
――撃つか、撃たないか。
その判断が、この班の評価を決める。
マティルナは、息を整えた。
まだ、引き金は引かない。
だが、もうすぐ――その時が来る。
重い足音が、通路の奥から響いてきた。
一歩。
また一歩。
床が、わずかに震える。
姿を現した瞬間、全員が理解した。
――これは、今までのゴブリンとは違う。
体格は倍近い。
皮膚は厚く、魔力に焼かれたような斑が走っている。
手には、粗末だが巨大な棍棒。
「……ボス、確定」
カミラが短く言う。
ゴブリンボスは、こちらを視認すると、咆哮を上げた。
音圧が、空気を叩く。
エルナの精霊が、反射的に光を強めた。
「前に出させない!」
リヒトが、一歩踏み込む。
剣が振るわれる。
だが、斬るためではない。
棍棒の初撃を、正面から受け止める。
衝撃が、模擬ダンジョン内に響いた。
リヒトの足が、わずかに床を削る。
だが、下がらない。
「……重い」
それでも、声は落ち着いていた。
カミラが、すぐ横から回り込む。
「足、狙う!」
棍棒が振り上げられる前に、側面から斬り込む。
完全なダメージではない。
だが、動きを止めるには十分だった。
その瞬間、エルナが魔力を流す。
「今、風!」
床を這う風が、ボスの足元を絡め取る。
動きが、一瞬だけ鈍る。
――今だ。
マティルナは、反射的に銃を構えかけて、止めた。
違う。
まだ、違う。
距離はある。
だが、角度が甘い。
ボスは、止まっていない。
止まりきっていない。
ここで撃てば、当たるかもしれない。
だが、外れた場合――次はない。
「……待つ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
リヒトは、わずかに首を振る。
理解している。
ボスが、再び踏み出す。
棍棒が振り下ろされ、床が砕ける。
結界が、淡く光った。
その衝撃で、足元が乱れる。
「っ……!」
エルナの精霊が、弾かれそうになる。
「下がらせない!」
リヒトが、さらに前に出た。
剣圏防壁が、一瞬だけ展開される。
聖属性の薄い光が、ボスの動きを押し返す。
だが、長くは持たない。
――ここで、決めるか。
マティルナは、深く息を吸った。
弾丸は、五発。
だが、使うつもりは――一発。
撃つための条件を、頭の中で並べる。
・ボスが止まる
・味方が射線から外れる
・逃げ道がない
どれも、まだ足りない。
「カミラ、もう一度足!」
「了解!」
カミラが、踏み込む。
今度は、より深く。
棍棒の死角。
膝裏。
鈍い衝撃。
ボスの体勢が、大きく崩れた。
「今です!」
エルナの声と同時に、光が走る。
視界が一瞬、白く弾ける。
――止まった。
完全に。
マティルナは、銃を構えた。
照準は、胴。
だが、狙いはそこじゃない。
魔力の流れ。
重心。
防御の薄い一点。
引き金に、指をかける。
迷いは、ない。
ただ一つだけ、思った。
――これで、終わらせる。
引き金を、引いた。
一発。
轟音が、空間を震わせる。
魔力弾は、一直線に走り――ボスの中心を、撃ち抜いた。
次の瞬間。
結界が、激しく軋んだ。
粉々に砕けるような音が響き、光が弾け散る。
教師たちの声が、外から重なる。
「結界再展開!」
「出力、上げろ!」
だが、それはもう――結果が出たあとだった。
ボスの巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
動かない。
完全な、撃破。
静寂が、遅れて訪れた。
誰も、すぐには声を出せなかった。
マティルナは、銃を下ろした。
――当たった。
それだけは、わかる。
だが、実感は――まだ、なかった。
静寂を破ったのは、結界の再構築音だった。
砕け散った光の破片が、ゆっくりと空間に溶けていく。
教師たちが制御を取り戻し、特殊部屋は再び白い静けさを取り戻していた。
「……終わった?」
最初に声を出したのは、エルナだった。
信じられない、というように。
それでも、視線は倒れ伏したまま動かないボスへ向けられている。
「……倒した、よね」
カミラが、呆然としたまま呟く。
ほんの数秒前まで、あれほど圧を放っていた存在が、今はただの“演習用魔物”として沈黙している。
リヒトは、剣をゆっくりと下ろした。
視線は、ボスではなく――マティルナへ向けられていた。
「……一発で」
それだけ言って、言葉を切る。
続きは、誰も口にしなかった。
マティルナは、銃を見下ろしていた。
硝煙の匂い。
まだ、微かに残る反動。
確かに撃った。
確かに当たった。
けれど――
「……え?」
不意に、そんな声が漏れた。
自分でも、驚くほど間の抜けた声だった。
胸が高鳴るわけでもない。
手が震えるわけでもない。
ただ、頭の中が、少しだけ空白になっている。
――終わった。
それだけが、事実として浮かんでいた。
「……マティルナ?」
エルナが、恐る恐る近づいてくる。
「……大丈夫?」
「……うん。大丈夫、だと思う」
そう答えながらも、どこか現実感が薄い。
すると、次の瞬間。
「っしゃああああ!」
カミラが、思い切り拳を突き上げた。
「やった! やったでしょ、今の!」
その勢いのまま、マティルナの肩を掴む。
「見た!? 一発! 一発でだよ!」
「……ちょ、ちょっと……」
引き剥がそうとするより早く、エルナも駆け寄ってきた。
「す、すごかったです……! ほんとに……!」
そして、気づけば。
三人分の体温が、重なっていた。
ぎゅ、と。
強く抱きしめられる。
「……っ」
その瞬間だった。
胸の奥に、遅れて何かが落ちてくる。
熱。
実感。
重み。
――倒したんだ。
一人じゃない。
みんなで。
止めて、支えて、作った一瞬を――撃ち抜いた。
マティルナは、ゆっくりと息を吸った。
「……うん」
今度は、ちゃんとした声で。
「……倒した」
その言葉を聞いて、エルナの目が潤む。
「……よかった」
リヒトは、少し離れた位置から、その光景を見ていた。
剣を収め、静かに頷く。
「……見事だった」
その評価には、貴族も剣聖も関係ない。
ただ、一つの戦いを終えた仲間としての言葉だった。
やがて、講師の声が響く。
「マティルナ班、ボス討伐成功。退出せよ」
出口へ向かう途中。
マティルナは、最後にもう一度だけ、振り返った。
倒れたボス。
再構築された結界。
そして、隣を歩く三人。
――実感は、もう薄れない。
これは、確かに。
マティルナ班の、勝利だった。




