0 入学刻印式
魔法学校の入学刻印式は、祝祭というよりも裁定に近い空気を纏っていた。
広い講堂の中央に描かれた巨大な刻印台、その周囲を取り囲むように並ぶ新入生たちは、誰一人として無駄口を叩かない。
――この儀式で、人生が決まる。
そんな言葉が、誰に教えられたわけでもなく、全員の胸に沈んでいた。
刻印式とは、生涯ただ一度きり。
刻印士によって描かれた魔法陣に自らの魔力を流し込み、召喚体系を確定させる儀式だ。精霊か、魔獣か、武器か、それとも英霊か。何を召喚できる存在になるかは、この場で決まる。定着した刻印は二度と修正できず、覆す手段もない。
だからこそ、刻印士は選ばれし専門家であり、刻線一本一本が慎重に刻まれる。
失敗は許されない。許されるはずがない。
マティルナは、自分の順番が近づいていることを示す名簿を見下ろしながら、小さく息を吐いた。
緊張していないと言えば嘘になる。
だが、過剰な期待もなかった。
彼女は町人の娘だ。両親も、祖父母も、代々特別な力を持った者はいない。召喚ランクが低くても不思議ではなく、むしろそれが普通だと理解している。
――ランクIでも、仕事には就ける。
――家計の足しにも、なる。
そんな現実的な考えが、胸の奥で静かに揺れていた。
名前が呼ばれる。
「マティルナ・ロウェル」
その声に応じ、彼女は刻印台へと進み出た。
無数の視線が背中に集まるが、気にしない。刻印式では、誰もが同じように見られる。
刻印士は白髪交じりの初老の男だった。落ち着いた手つきで、専用の刻印具を取り、マティルナの右前腕に魔法陣の下書きを施していく。複雑な線が幾重にも重なり、召喚の枠組みが形を成していく。
「動かないように」
「はい」
短いやり取り。
刻線は順調だった。刻印士の動きにも、迷いはない。
やがて、最後の一本を残すのみとなる。
講堂の空気が、さらに張り詰めた。
刻印士が息を整え、刻印具を下ろそうとした、その瞬間――
「……っ、へっくしゅん!」
不意に、乾いたくしゃみが響いた。
刻印具がわずかに跳ねる。
ほんの数ミリ。されど致命的なズレ。
刻線は、隣の符号へと誤って接続された。
一瞬の静寂。
そして、誰かが小さく息を呑む音が、やけに大きく聞こえた。
刻印士の顔から血の気が引いていく。
だが、もう遅い。
「――魔力を、流してください」
その声は、かすかに震えていた。
マティルナは違和感に気づきながらも、指示に従った。
刻印式とはそういうものだ。始まってしまえば、止められない。
彼女の魔力が、刻印へと流れ込む。
その瞬間、魔法陣が淡く光り――
空気が、歪んだ。
刻印に流れ込んだマティルナの魔力は、最初こそ穏やかだった。
淡い光が刻線をなぞり、魔法陣が完成へ向かう――はずだった。
しかし、途中で様子が変わる。
光が、止まらない。
本来であれば、刻線に沿って均等に広がる魔力は、ある一点で引っかかるように滞留し、やがて逆流を始めた。まるで、完成したはずの構造そのものが、何かを拒んでいるかのように。
「……おかしい」
刻印士が、誰に聞かせるでもなく呟いた。
講堂に設置された魔力測定器が、甲高い警告音を鳴らす。
数値は跳ね上がり、次の瞬間には意味をなさないほど乱れ始めた。
「測定器が……」
「いや、これは……」
教師たちがざわめく。
マティルナは、自分の腕を見下ろしていた。
刻印は確かに光っている。だが、それは見慣れた召喚式の輝きではない。線が、わずかに脈打つように揺れ、描かれたはずの形が、別の形へと変わっていく。
――増えている。
刻線が、自動的に書き足されていた。
誰も刻んでいない線が、刻印の内側に浮かび上がり、既存の符号と接続していく。複雑で、しかしどこか合理的な構造。既存の召喚体系には当てはまらない、未知の回路。
「刻印が……再構築されている?」
教師の一人が、信じられないものを見るように呟く。
刻印士は、何も言えなかった。
自分の失敗が引き金になったとは、口が裂けても言えない。だが、目の前で起きている現象が、通常の刻印式ではありえないことだけは理解していた。
刻印が完成へ向かうにつれ、講堂の空気が重くなる。
魔力が集束する。
召喚陣が、刻印台の上に浮かび上がった。
「召喚……?」
誰かが呟いた、その直後だった。
轟音が、講堂を揺らした。
――ドンッ!
爆ぜるような音と同時に、白い煙が立ち上る。
反射的に悲鳴が上がり、人々が後ずさる。
「伏せろ!」
「何が起きた!?」
視界を覆う煙の中、マティルナはその場に立ち尽くしていた。
手の中に、確かな重みがある。
煙が薄れ、姿を現したのは、長く、黒光りする金属と木材の塊だった。
銃。
それが何であるかを、この世界で正確に理解できる者はいない。
だが、それが“武器”であることだけは、誰の目にも明らかだった。
マティルナの頭に、情報が流れ込む。
構造。
火薬。
弾丸。
装填手順。
引き金を引くという行為の意味。
知らないはずの知識が、最初からそこにあったかのように理解できる。
彼女の体は、考えるより先に動いた。
銃を構え、刻印台の先に設けられた耐久試験用の石標へと照準を合わせる。
「ま、待て!」
誰かの制止の声が届く前に、指が動いた。
再び、轟音。
閃光と衝撃。
石標が、粉砕された。
沈黙が落ちる。
魔力測定器は、もはや数値を示していなかった。
針は振り切れたまま、微動だにしない。
教師たちは言葉を失い、刻印士は青ざめたまま立ち尽くしている。
そして、マティルナは――
「……すごい音」
そう呟いて、銃を見下ろした。
恐怖も、興奮も、過剰な感情はない。
ただ、理解している。
――これは、自分の刻印だ。
煙の残る講堂で、誰もがそれを否定できなかった。
静寂は、長くは続かなかった。
「全員、下がれ!」
試験官の怒号が講堂に響き渡る。
生徒たちは我に返り、ざわめきながら距離を取った。誰もが、刻印台の上に立つ少女と、その手にある“異物”から目を離せずにいる。
教師数名が前に出て、魔力遮断の結界を展開した。
刻印台を覆う淡い光が、ようやく安定する。
「……召喚を解除しなさい」
そう告げられても、マティルナはすぐには動けなかった。
解除の方法が、分からない。
頭に流れ込んだ知識の中に、それはなかった。
この武器は、呼び出して終わりではない。撃ち、使い切ることまで含めて、一つの召喚なのだと、直感的に理解してしまっていた。
「解除……できません」
正直に答えると、教師たちの顔が強張る。
「魔力反応は?」
「……測定不能です。数値が安定しません」
魔力測定器の担当者が、震える声で告げた。
反応自体は確かに存在する。だが、その質が既存のどの召喚系統にも一致しない。精霊でも、魔獣でも、武器召喚ですらない。
――体系外。
その言葉が、誰かの喉元までせり上がり、飲み込まれた。
刻印士は、マティルナの腕に刻まれた魔法陣を凝視していた。
自分が刻んだはずの線と、見覚えのない線が混ざり合い、ひとつの完成形を成している。
――私が、壊した。
くしゃみの瞬間が、何度も脳裏をよぎる。
だが、それを口にすれば、刻印士としての立場は終わる。彼は唇を噛み締め、苦し紛れの言葉を選んだ。
「……本人の魔力が、刻印を自動調整したものと思われます」
一瞬の沈黙。
教師たちは互いに視線を交わした。
納得できる説明ではない。だが、他に言いようがなかった。
「魔力反応は……強い。極めて強いが、規格外だ」
「ランク測定が、できません」
「前例は?」
「ありません」
結論は、すぐに出た。
「評価不能だ」
淡々とした宣告だった。
刻印台の魔力が収束し、銃は徐々に光を失っていく。
やがて、それはただの重たい物体となり、マティルナの手から消えた。
「本日の刻印式は、ここまでとする」
その言葉で、儀式は強制的に終わった。
生徒たちはざわめきながら退場していく。
好奇、恐怖、憐憫――様々な感情が、マティルナへと向けられる。
彼女はそれを、正面から受け止めていた。
怖くないわけではない。
だが、後悔もなかった。
――これが、自分の刻印。
それだけは、はっきりしている。
刻印士は、最後まで彼女の背中を見つめていた。
謝ることも、真実を語ることもできずに。
講堂を出る直前、マティルナはふと立ち止まり、自分の腕を見下ろした。
刻印は、すでに沈黙している。
「……まあ」
小さく呟く。
「生きてはいけそう」
誰に聞かせるでもない、その一言が。
この“事故”が、終わりではないことを、静かに告げていた。
家の扉を開けた瞬間、夕飯の匂いが鼻をくすぐった。
「……ただいま」
マティルナの声に、真っ先に反応したのは妹だった。
「お姉ちゃん!」
駆け寄ってきた小さな体が、勢いよく抱きついてくる。続いて弟が顔を出し、目を輝かせて見上げた。
「刻印式、どうだった?」
無邪気な問いかけに、マティルナは一瞬だけ言葉を探す。
「……音が、大きかった」
「え?」
「あと、煙」
それだけ言うと、妹と弟はきょとんとした顔で互いを見た。
台所から、母が顔を出す。
「無事だった?」
「うん。ちゃんと終わったよ」
その言い方に、母は何かを察したらしく、少しだけ表情を曇らせた。
父は椅子から立ち上がり、マティルナの腕へと視線を向ける。
「刻印は?」
マティルナは袖をまくり、前腕を見せた。
そこに刻まれた魔法陣は、既存のどの模様とも違う、奇妙な線の集合体だった。
父は、黙ってそれを見つめる。
「……ランクは」
「まだ、決まってない」
正確には、評価不能だ。
だが、そう言い直すほどの必要も感じなかった。
母はそっと息を吐き、言った。
「……体は大丈夫?」
「うん。元気」
嘘ではない。
本当に、どこも痛くないし、違和感もない。
夕食は、いつも通りだった。
煮込みの鍋を囲み、妹と弟が学校の話をし、父が相槌を打つ。刻印式の話題は、それ以上深掘りされなかった。
家族は、無理に聞かなかった。
それが、ありがたかった。
食後、マティルナは自分の部屋に戻った。
ベッドに腰掛け、袖をまくって刻印を見つめる。
昼間の感覚が、まだ残っている。
手の中にあった重み。
引き金を引いたときの反動。
頭の中に流れ込んだ、知らないはずの知識。
不思議と、怖くはなかった。
――これで、何ができるんだろう。
考えてみるが、すぐに答えは出ない。
そもそも、明日から学校が始まる。考えるのは、それからでいい。
マティルナはベッドに仰向けになり、天井を見上げた。
刻印式で人生が決まる、と皆は言う。
確かに、それは本当かもしれない。
けれど。
「……まあ」
小さく、独り言をこぼす。
「なんとかなるでしょ」
楽観でも、諦観でもない。
ただ、自分の足で歩いていくという、当たり前の感覚。
刻印は、もう変えられない。
なら、受け取って使うだけだ。
外では、夜風が窓を揺らしていた。
静かな家の中で、マティルナは目を閉じる。
明日から始まる魔法学校の日々が。
この刻印を“異端”と呼ぶのか、“力”と呼ぶのか――。
それを決めるのは、きっと、これからだ。




