第4話 結
ヒューイ伯爵家の応接間は、無機質な静寂に包まれていた。
贅沢な装飾など一切ない。だが、ひとつひとつの調度品が完璧な配置で並べられており、部屋全体がひとつの巨大な兵器のように緊張感を纏っていた。
その空間の片隅で、ガブリエル・ティーゲルは立ち尽くしていた。
指先は冷たく、背筋は凍るように伸びている。胸元には鈍い緊張が宿り、足先までそれが染み込んでいた。
扉が開く音。
「来たか」
その低く抑えた声だけで、空気の密度が変わった。
振り返った先にいたのは、黒の軍装じみた衣を身にまとい、鋭い光を放つ瞳を持つ青年だった。髪は深緑。瞳はワインレッド。動きは無駄がなく、姿勢は一分の揺らぎもない。
レオ・ヒューイ――。
統率の権化。冷徹な支配者。ヒューイ家の次男にして、貴族の中でも異端の存在。
そして、ガブリエルにとっては――まさに救世主だった。
「……ガブリエル・ティーゲルです。本日は、お招きいただき、誠に……」
「前置きは良い。まぁ、座れ」
返礼も形式も無視した指示。だが、ガブリエルは即座に動いた。反射的だった。言われる前から動きたくて仕方がなかったのだ。
「失礼いたします」
ぎこちなくも素早く椅子に腰を下ろすと、レオは卓上の書類を手に取り、彼女に視線を落とした。
「ステファニーから大まかな話は聞いている。お前は、何も選ばず、何も拒まず、ただ従うことに幸福を見出すと聞いた」
「……はい、レオ様」
「命令がなければ、自分で何も決められない?」
「はい。自ら決断をすることが、怖いのです。私は……誰かの所有物になってでも、生き延びたい」
その言葉を聞いた瞬間、レオの表情がごく僅かに緩んだ。
「ならば、お前は我が鵜となれ」
ガブリエルの呼吸が止まる。思わぬ事を言われて少し面食らう。
「鵜?」
「そう。鵜。コーモラント」
ケラケラと面白そうに、レオは笑う。意外と可愛らしい顔で笑うのだな、とガブリエルは思った。
「私はお前の鵜飼だ。お前を導く者だ。お前は私の命令に従い、指示された範囲内でのみ生きていく。それが、今後の契約となる」
「…………っ」
その瞬間、ガブリエルの目が潤んだ。喉の奥から湧き上がるのは、涙でも嗚咽でもない――どうしようもない程の、歓喜だった。
生きてて良かった。
この人に出会えた。
ようやく――ようやく、あの命令のある日々が戻ってくる。
「はい……! レオ様の鵜として、命を預けます……! どうか、私をお導きください!」
涙混じりの声は、まるで神に祈りを捧げる聖女の様だった。
「まさか、鵜呼ばわりされて喜ぶとはな……良い返答だ。人間、素直が一番だ。ふふ……下位貴族は上位貴族に従うものだよ」
レオは椅子から立ち上がり、背後に歩み寄ると、ガブリエルの頭にそっと手を置いた。そのまま優しく撫でながら、甘い言葉で囁く。
「まずは、明朝から私の朝食の準備に入れ。今日はここに泊まり二十二時に就寝。五時起床。準備後、六時に食堂。服装は黒、白のエプロン。髪型は……今のストレートはイマイチだな。サイドテールにし、前髪は必ず留め具で固定。第一指令だ」
「……了解しました、レオ様……!」
「次に、午前中は私の書類整理を手伝え。昼以降の予定は追って指示する。それ以外の行動は無用だ」
「はい、はい……!」
喜びが、ガブリエルの全身に広がっていた。
脳が命令に酔っていた。
意味が与えられることに、存在の重みを再認識していた。
「他の男に好意を抱くことも禁ずる。理解したか? そのうち気が向いたら抱いてやる」
「はい……レオ様。私のすべては、貴方の指示のもとに。……生憎、私にはそういった経験はありませんが、喜んで処女を捧げましょうとも」
彼女の顔には、最早、迷いや不安の影はない。
それは鵜飼に操られる鵜の様だった。
だが、命令によって存在が保証される、その絶対的な構造の中に、彼女はこれ以上ないくらいの幸福を見出していた。
応接間の外でその様子を見ていたリサは、ドアに手をかけたまま、動けずにいた。
(……駄目だ。これは……いや、私は分かってはいたはず。こうなるって事は……)
どこかでわかっていた。
ガブリエルにとっての救いが、誰かに支配されることであるなら、それは依存ではなく、信仰へと容易に変質してしまう。
命令さえあれば何でもできる。
ならば、その命令がどんな内容でも、彼女は盲目的に従うのだろう。
「……もう、戻れないな」
リサは、ひとつ、息を吐いた。
この邂逅が、救いになるのか、地獄への一本道なのか。今はまだ、わからない。
だが、ガブリエルは生き返った。
それだけは、間違いなかった。
新しい鳥籠を得た彼女の顔は、これ以上ないくらいに穏やかだったから。
読了、お疲れさまでした。これにて、本作は完結です。
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