第3話 転
朝の光が差し込むティーゲル家の食堂には、コーヒーの香りが立ちこめていた。
だが、その香りも、空気を暖かくはしなかった。
ガブリエル・ティーゲルは白いティーカップを前に、何も口をつけず座っている。顔には淡い微笑み。だが、その顔は、さながら死人の様に青白い。父親である男爵も、彼女の母もなんと言葉をかけて良いか分からない様子だった。
ガブリエルはまるで、昨日と同じ思考を繰り返す、壊れた機械のようだった。
「……エミリオ様……」
小さな声で名を呼ぶ。それだけ。
窓際では、侍女のリサ・ハヴォックが、黙ってその様子を見つめていた。今のガブリエルは、もう『自己』という存在を喪失しかけている。
かつての許婚、エミリオ・バリアの不義と婚約破棄。そこまでは、ギリギリで耐えられることだった。
だが、深刻なのは愛を失ったことではない。『命令してくれる存在』を失ったことだった。
リサはそれを理解していた。だからこそ、何もできずにいる。
「……ガブリエル様に本当に必要だったのは、対等なパートナーじゃなかったんだ」
ぽつりと漏れた言葉に、背後から声が重なった。
「『正解』と『司令塔』ってやつだろ?」
声の主は、同じくメイドのステファニー・ホーモン。リサとは旧知の仲だ。今は別の貴族――ヒューイ伯爵家で仕えている。
「……ステファニーか」
「話は聞いてる。……ちょっと用事でこちらまで来たから顔出して見たけど。大分やられてるみたいだね」
ステファニーは目線で少し場所を変えよう。と、示した。リサはガブリエルとその家族に少し席を外す事を告げ、部屋を後にする。
空き部屋で、2人はソファに腰かけ、スカートの裾を整えながら話の続きをした。
「選ぶのが怖い。間違うのが怖い。だったら誰かに全部命令してほしい。そうすれば責任取らなくていいし、怖くもない……そんな風に思ってるよ。ガブリエル様」
「……自由とは、同時に大いなる責任もともなう。それに、ガブリエル様は押しつぶされちゃった、と?」
「私がもっと早く気づくべきだった。あの子の本質に。こんな重度の依存体質になる前に。私が、クズ婚約者に依存しきる前にフォローしてあげられたら……」
「あんまり自分を責めるな。今さらだろ。それに主人と従者の間には、どうしても見えない壁がある」
普段は陽気なステファニーは珍しく真面目な表情で続ける。
「良かったら、うちの主を紹介するよ」
「え?」
「レオ・ヒューイ。伯爵家の次男坊。けどな、馬鹿みたいに勘が鋭い。政治も、戦略も、駆け引きも全部得意。でも、性格は冷静で、必要以上に情に流されないタイプ。年もガブリエル様と大して変わらん」
「……」
「なにより有能。1年前、うちの国で飢饉が起こっただろ?」
「……ええ。酷い有様だった。思い出したくもない」
「レオ様はな、その時、適切なタイミングで食料備蓄を供出して、飢えた人たちには各種支援も行い、食料を買い占めて転売したり、値段を釣り上げようとした悪徳商人は徹底して処罰した。おかげで、うちの領民達のほとんどは飢え死にせずに済んだ。地元の庶民達の間じゃ、ヒーローさ」
「そりゃ……偉人なんだねぇ」
「ただ」
「ただ?」
「少し人格がな……」
ステファニーはそう言って頭をかいた。
「まず割と下の人間を見下す。……いや、見下すというのは語弊があるな。なまじ有能だから、下の人間を、自分に従うべき迷える子羊と思ってる節がある。ナチュラルに独裁者気質。領民を「愚かなる人民共」とか平気で言う」
「そりゃ……面倒くさいね。高位貴族に生まれなくて良かった……というのは流石に失礼かな?」
「実際、実績はあるのが逆に厄介だ。それに、婚約者はめちゃくちゃ束縛するタイプ。これまでの婚約者は、所謂『自立した女性』ってやつ。バチバチにやり合って、結局破局。今は独り身。……レオ様、こう言ってたよ」
ステファニーは言葉を区切った後、低い声で、男のように真似て言った。
「『ついてくるなら守る。が、命令には従ってもらう。大丈夫。俺についてくれば生き残れる』」
「…………」
「ま、ガブリエル様みたいな子には……ぴったりだと思うよ。強くて、賢くて、命令してくるけど、ちゃんと責任も取ってくれる。主従って関係を前提にするなら、最高の男」
リサは、しばらく沈黙した。
あの子が欲しいのは、「対話」でも「共闘」でもない。
導かれること――ただ、それだけだった。
その事実を否定することは、もう誰にもできなかった。
「……レオ・ヒューイ、ね」
「考えておいて。紹介するのは簡単だけど、彼、さっきも言った通り、超実利主義者の独裁者タイプだからね。気に入られなかったら即見限るタイプよ」
「大丈夫……今のあの子なら、縋りつくようにでも命令を欲しがる」
リサはため息をついた。
それが『治療』なのか、『依存の再構築』なのかは、もはや分からない。
だが――。
鳥籠を失った小鳥には、新たな巣が必要だ。
それがガブリエルにとっての救いであるなら、リサは、その導線を作るのが自分の役目だと思った。
「……お願い、ステファニー。会わせて」
「おっけー。スケジュール、明日にでも空けておくよ」
(……なら、きっと、まだ間に合う)
リサは、ぎゅっと唇を引き結んだ。
――導く先が、破滅でないことを願って。
鳥籠で飼ってる鳥を外に逃がしたらね、死ぬんだよ(無慈悲)