ラクダの恩返し
ラクダは笑った。
にひひっと、笑った。
「な……、なんだ、コイツ!」
慌ててピストルを取り出す島根県人たち。
しかしラクダが呪文を唱える。
すると砂丘が激しく揺れだした。
「うわあああーっ!」
島根県人たちは声をあげながら砂の中へ呑み込まれていった。
「あ……、ありがとう」
繭は必死な顔でこぶに掴まりながら、ラクダに礼を言う。
「でも……。どうしてあなたは砂に沈まないの?」
ラクダはにひっと笑うと、自分の足の裏を見せた。
「あっ……!」
繭は思わず驚きの声を上げた。
〜 〜 〜 〜
まだ3月だというのにまるで8月のように暑い日、T県K市にあるK西高校二年生の打吹繭は空を飛んでいた。たまたま涼みに訪れた川辺で見つけた羽衣を身に纏ったところ、それは飛行能力を有していたのだ。
気持ちよく空を飛んでいると、島根県人たちが後を追いかけてきた。彼らは島根県人こそ日本を作った神の末裔であると信じ、その妄想力で空を飛ぶこともできたのだ。そして、ゆえに鳥取県人が空を飛ぶことをけっして許さなかった。
島根県人たちは繭を砂丘へ追い詰めた。しかしそこには鳥取県の守護神が待っていた。ラクダだ。
ラクダは繭に借りがあった。
〜 〜 〜 〜
「あーあ」
繭は教室の窓から外を眺めながら、額の汗を拭いた。
「暑いねー」
隣の席の女の子もハンカチで汗を拭く。
「まだ3月半ばとは思えないよね」
「うちの学校、クーラーつけてくれないからなぁ」
「ねーねー」
女の子のグループがみんなでやって来た。
「学校帰りに駅前の土産物屋で集団試食して帰らん?」
「あっ。あたしはいいや」
繭は笑顔で手を振った。
付き合いが悪いと陰で噂されるのはわかっている。
でも、タダでお菓子を食べて、食い荒らすといってもいいほどに食べて、お店の人からキツい視線を投げかけられることは繭には耐えられなかった。
〜 〜 〜 〜
暑いので高いところへ登りたかった。
山道を歩いて登り、そして下ると、涼しい風を蓄えた川辺に出た。小鳥のさえずりが空気を優しく揺らし、玉のような小石が木漏れ日にあかるく笑っていた。
流れる透明な川の水をてのひらで掬うと、繭はその匂いを嗅ぐ。
「うーん……。こんなに透明なのに……臭いなあ」
飲もうとして、やめた。なんだか細菌兵器のような臭いがしたのだ。
誰も見ていないので制服を脱いだ。小学校の続きみたいなジャンパースカートの制服は嫌いだった。
ぱんつ一丁になると川へ入る。
「冷たっ!」
暑い日とはいえ、3月に水に入るのはさすがに寒かった。すぐに水から出ると、木にかけておいた制服をまた着ようとして、ふとそれを見つけた。
少しむこうの木の枝に、シルクの白い羽衣がかけてある。薄汚れてなんて全然なくて、それはまるで天女が脱いでそこにかけたものに見えた。
好奇心に抗えず、繭はそれを手に取った。あまりの肌触りのよさに、袖を通した。お土産物屋さんで試食をすることには罪悪感を覚えるのに、誰も見ていないところで他人の服を着ることには抵抗がなかった。
身につけると天女になった気分だった。踊るように手を広げ、APTを歌いながらぴょんぴょん飛び跳ね、「とうっ!」とジャンプすると、地面が遥か下にあった。
優雅な鳥のように飛んでいる自分に気づき、気の抜けた呆然とした顔をようやく驚かせた。
「何これ!」
すぐにその顔を笑わせた。
「あたし……天女になっちゃった!」
青い空を自由に飛んだ。風は涼しく、綺麗な水のような匂いがした。あてもなく飛び続けていると、後を追って何かが飛んでくるのに気づいた。
「止まれ!」
「我々は島根県人だ!」
「鳥取県人が許可なく空を飛ぶことは許さん!」
黒服に身を固めた3人の島根県人だった。
繭は、逃げた。捕まったら何をされるかわからないと思ったのだ。何も悪いことをしていないのに警察官に追いかけられているような、心細い気持ちに襲われた。しかし考えたら実際に盗みを働いていた。天女の羽衣窃盗罪──しかし島根県人たちが追いかけて来ているのはべつの理由からなのは明白だった。
島根県人たちは追いかけて飛びながら、言った。
「島根県人こそ日本を作った神の末裔である!」
「神のごとく空を飛ぶのは島根県人のみに許されることぞ!」
「鳥取県人が空を飛ぶことは許さん!」
繭は逃げた。
飛行速度は繭のほうが少しだけ速かった。島根県人たちがじわじわと離れていく。
しかしうっかり海のほうへ飛んでしまった。青い色が見えてきた時、繭はしまったと思った。今日の日本海は大人しく凪いでいたが、それでも海の上を飛ぶことは憚られた。途中で下りる陸地がないのはとても不安だった。
海岸線を横切って隣の兵庫県へ行くのも怖かった。繭は鳥取県から出たことがなかったのだ。
仕方なく、海の手前の砂丘で下りた。
島根県人たちも着陸し、追って来た。3人とも懐から黒光りするピストルを取り出し、サングラスの奥の目を狂わせながら追跡してくる。
「どうしよう……! どうしよう……!」
繭は逃げながらべそをかいた。
「あたし……、空を飛んでただけなのに……!」
目の前に、革紐で繋がれたラクダが横向きに立っているのが見えてきた。呑気な顔をして、目を半開きにしてじーっとしていた。
「ラクダさん!」
繭はその身体のむこうに身を隠そうとした。
「かくまって!」
ラクダは繭の顔を見ると、イケメンな笑顔になった。
「追い詰めたぞ!」
島根県人たちが立ち止まった。
「そのラクダの陰から出てこい!」
「貴様を逮捕する!」
仕方なく、繭はラクダの上から顔を覗かせた。
踏み台に乗り、なんとなくラクダの背中にまたがった。
何をしたらいいのかわからなかったので、とりあえずピースサインを決めてみた。
許してもらえることを期待して、愛想のいい笑顔を作って首を傾げてみた。
「貴様を処刑する」
しかし島根県人たちは職務に忠実だった。
「島根県をバカにしやがって」
「神の末裔として、貴様をけっして許さない」
銃口を繭に向け、3人揃ってピストルの銃爪をひいた。繭は思わずラクダの背中にしがみつくように身を伏せた。
しかし弾丸は当たらなかった。弾が入っていなかったのだ。いかに神の末裔といえど、島根県人たちも日本の銃刀法には逆らえなかった。
しかし島根県人たちは勘違いした。
「……あっ!」
「バリアだ!」
「ラクダがバリアを張りやがったのか!?」
何しろピストルは所持しているものの、一度もそれを撃ったことがなかった。ゆえに発砲したもののラクダが張ったバリアに弾丸を防がれたものと勘違いしたのだ。
ラクダが笑った。
にひひっと、笑った。
ラクダの顔とは、真顔でも笑っているように見えるものなのだ。
「な……、なんだ、コイツ!」
慌てて新たなピストルを取り出す島根県人たち。これには弾が入っているかもしれない。
ラクダが呪文を唱えるように口を動かした。
実際には口をクチャクチャと動かしただけだが、3人の島根県人たちには呪文を唱えたように見えた。
すると砂丘が激しく揺れだした。
「うわあああーっ!」
島根県人たちは声をあげながら砂の中へ呑み込まれていった。
ちょうどその時起こった地震で、ふるいにかけられるようにして、砂に腰まで埋まって止まった。
「あ……、ありがとう」
繭は必死な顔でこぶに掴まりながら、ラクダに礼を言う。繭もラクダが呪文を唱えたと思い込んだのだ。
「でも……。どうしてあなたは砂に沈まないの?」
ラクダはにひっと笑うと、自分の足の裏を見せた。
「あっ……!」
繭は思わず驚きの声を上げた。
ラクダはわらじを履いていた。正確には、ラクダの足の裏はわらじのように平べったく、それゆえに重い身体をしていても砂に沈まないのだ。どういう理屈なのかはよくわからないが。
ふいに繭は思い出した。
小さな子どもの頃、両親に連れられてこの砂丘に遊びに来たことがあった。
その時、確かラクダに乗った。ラクダの背に乗って、おじさんに手綱を引かれながら、決められたコースを周回しただけだったが、幼い繭には夢のようなひとときだった。自分が砂漠の王女になったような気持ちだった。
そのお礼にと、繭はその背中から降りる時、ラクダのほっぺにキスをした。
「あの時の恩返しをしてくれたんだね?」
繭は再びラクダのほっぺにキスをした。
「あれはお礼だったんだから、恩になんて着なくてもよかったのに」
ラクダは何も言わず、にひっと笑った。