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9.客室清掃

 サアドゥーン氏の泊まるロイヤルスイートの清掃は骨が折れる。客室清掃員の間では、そう囁かれていた。特に今回はバスルームの荒れようが酷いし、女二人泊まりのくせにベッドがグシャグシャ、おまけにテーブルや壁に見覚えのない疵まで増えている始末だった。部屋が広いだけに被害が広いのだ。


 ただ、部屋の外に限って言えば、サアドゥーン両氏の素行に問題は見られなかった。確かにイムティヤーズ嬢の方は隅々から育ちの悪さがにじみ出ているが、よくよく観察すれば乱暴なだけで礼儀は弁えているのがわかる。アリーシャ嬢は……どちらがどういう風にベッドをああしたかはともかく、言わずもがな淑女だ。


 ただ、二人きりだと、急に弾けるだけで。


 勿論、残念なことに宿泊客の中には、気が大きくなった拍子に変なスイッチが入って、室内を滅茶苦茶にする輩が紛れている。このホテルも例外ではない。いや、そもそもクラブフロアで出る被害は主に備品の盗難や宿泊費の踏み倒しであって、こういう腕尽くの類はそれこそ例外だ。


 異例中の異例の二人組。


 この日の清掃を担当するスタッフも、今日に限らず無残になり果てた部屋を度々目にしてきた。が、サアドゥーン氏の部屋の荒れ模様は、言葉にし難いが、今まで目撃したどの事例とも違うような気がした。散らかっているところはとことん散らかっているし、逆に今朝の食事の片づけのように綺麗なところはとことん綺麗に使っている。


 まるで、普段は危ういバランスで制御している力加減を、何かの弾みで間違えたような突拍子のなさ。あるいは、二人にとってのジンクスに従った行動。


 何にせよ、ただ悪辣に荒らしたにしては、あまりにバランスが悪い有り様だった。


 万に一つもない特例の二人組だ。


(そんなことよりも……)


 今日、部屋に残っているのはイムティヤーズ嬢の方だ。各間取りに割り振ったスタッフから作業完了の報せが次々と挙がってくる。イムティヤーズに報告しなければいけない。だが、最後のスタッフが報告しても、誰一人報告に向かわない。それとなく誘導を試みても、誘導する前にはぐらかされる。


(こいつら、臆面もなく押しつけて……!)


 その客室清掃員――班長を務める女は、イムティヤーズが苦手だった。


 プロフェッショナルとして、苦手意識は悟らせない。それは鉄則なのだが、彼女は得体が知れなさ過ぎた。


「終わったら知らせろ」


 そう言って、イムティヤーズはバルコニーのプライベートプールの方へ行った。掃除中、たまに様子を伺ったが、泳いではいないようだ。プールの水面は凪いで、青空を鏡面に映している。というか、気配がない。


 またか。客室清掃員は内心うんざりしつつ、バルコニーのガラス戸を引き、一礼しつつ伺いを立てる。


「サアドゥーン様、大変お待たせいたしました。お部屋のクリーニングを終えましたことをお知らせ……」近くを見回しても、影も形も見当たらない。「あの、サアドゥーン様?」


 そろそろと、遠慮がちにバルコニーに出る。観葉植物に囲まれた白いプールサイドには、パラソルとビーチチェアを備えている。いない。まさかずっと潜っているのか。いない。東屋のジャグジー。いない。縁からの眺望は格別だ。いない。


 このプライベートプールの出入り口は一か所だけだ。


「サアドゥーン様? どちらにおいでですか?」


「一回で良い」


 背筋がざわついた。いつの間にか、イムティヤーズは後ろにいた。子どもの頃、夜道の後ろに感じていた何か、すっかり忘れた恐ろしいものが急に質量を得て現れたように。


 イムティヤーズの在室中は、これがあるから困るのだ。広くはあるが限られた室内にいながら、居場所が全くわからなくなる。野生的な風貌も相まって、彼女の本性が怪物であるかのように思えた。


「ンだよ。聞いてんのか」


 ごくありふれた、ぶっきらぼうな言い草だった。しかし、客室清掃員の耳に「一回で良い」が残響していた。ドラマの見過ぎか、武装組織を取材したニュースが多すぎるせいか、あの響きは、射撃訓練の指示を彷彿とさせる。


 蒼白な顔を客向けに繕い、客室清掃員は振り返る。上背のあるイムティヤーズは、いざ対面すると威圧感がある。背筋がざわつく類の得体の知れなさは感じない。感じないのだが、この晴天の中、汗一つかいていないのは不気味だ。


「失礼いたしました。バルコニーの清掃はいかがいたしましょう」


 丁重な態度に返ってくるのが、よりにもよって舌打ちである。「いちいち聞くなよ。くだらねえ……」何が彼女の機嫌を損ねるかわからない中、スタッフは手探りで接客するしかなかった。


 呆れた溜め息、というか深呼吸。


「やれ……いや、やってくれ。終わっても知らせなくて良い。俺は寝る」


 乗り切った。


「ごゆっくり、お休みなさいませ」


 ベッドルームへ行くイムティヤーズを、清掃スタッフ総出で頭を下げて見送る。彼女がドアを閉めて、やっとスタッフの緊張が解けかけて、ふと悪い予感が浮かんだ。寝る、ということは、些細な物音でも立てれば気分を害するのではないか。


 もう少し、気の重くなる仕事が続きそうだった。


 一方、イムティヤーズはベッドマットに腰掛け、届いた荷物を解いていた。“初心者でも安心のステップアップレッスン! 趣味のドール服縫製”と題した本を開く。分厚いページ数にめげそうになったが、よく見るとほとんど箱で、付録の型紙や布地が入っている。


 確かに安心だ。部屋の外で清掃員が細心の注意を払う裏で、イムティヤーズはくつろいで、改めて表紙を開いた。


 文面にスマホのカメラをかざし、読み上げる音声に傾注する。

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オラに元気を分けてくれ!

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