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8.選手交代

本文短いので投稿時間ずらしました。

 朝食を終え、イムティヤーズはアリーシャの着つけと整髪を手伝う。


 クローゼットの折り戸をアリーシャが開けようとすると、イムティヤーズが戸を押して閉じ返した。アリーシャは怪訝そうに振り返る。イムティヤーズは小声でぼそぼそ何か言っている。聞こえないので何度も聞き返す。


「……選ばせろ」


 たっぷりもじもじと沈黙を含んだ挙句、似合わない自覚に苛まれて口をついた一言だった。そのらしくない一面に、目に見えてアリーシャの乙女心が全開になる。所在なくショートパンツの裾を握る手が取られる。両手に包んで、勇気づけるように振ってくれた。温かい手だ。


「良いよ。良いよぉ! イムちゃんが選んだ服が良い!」


 頼んでおいて何だが、当人よりやる気を出すアリーシャが理解できないイムティヤーズであった。


 ベッドマットに所狭しとファッションアイテムが並ぶ。ドレスは勿論アクセサリーまで、クローゼットで目に留まった物ならイムティヤーズは何でも引っ張り出した。背後から、待ちきれない様子のアリーシャの女児めいて踏むステップと鼻歌。


「気が散る」


 元よりさっさと決める気でいたが、とてもゆっくり見ていられる心地にはなれない。装飾を手に取って、心が傾きかけたと感じたら、そのまま前のめりに倒れるつもりで次々と選ぶ内に、花束のようになったそれを、ドンとアリーシャの首元に突き出した。


 深紅のワンピースドレスから大胆に肩と胸元を露出し、控え目なペンダントを添える。ブロンズベージュのストールをかけると大人びた雰囲気だ。遊びのあるシニョンの髪型に良く似合う。


 姿見の前でクルクルと踊ってチェックするおめかしさんが「へえ、こういう趣味なんだ」と値踏みするようで居心地の悪いイムティヤーズだったが、「すっごく素敵」と言いたげに頷いたので、イムティヤーズはベッドに置きっ放しだった扇子を掻っ攫って、勢い任せに差し出した。


「笑うな。いちいちイラつかせやがって」


 風に誘われるように扇子が手から離れた。広げ、口元を隠して頷き直すアリーシャへ、イムティヤーズは「今日、暑いから」とそっぽを向いて一つ頷いた。


 納得したように頷き返すアリーシャは長く目をつむり、開くと同時に「では、留守を頼みます」と砂漠の夜のように冷たい雰囲気を漂わせた。イムティヤーズと二人きりのときでも時折見せる一面が、次に帰るまで明けない夜の訪れのようだった。


 出かける主人を部屋の出口まで見送る。


 おもむろに立ち止まったアリーシャが、ショルダーバッグから吸入器を取り、自ら吸った。吸い終えたそれをイムティヤーズの方に向ける。


「お元気で」


 目線の下から差し出されたそれを、イムティヤーズはただ口で咥える。ボタンをアリーシャに預け、呼吸を合わせる。霧状になった薬を、気持ちだけ長く胸に留めた。


 これは、二人の間に交わされた契約――儀式の一つであった。片割れが外で仕事をする間、残った方は薬抜きで片割れの帰りを待つ。常軌を逸していると、イムティヤーズは思う。だが、常軌を逸してなお二人が生き延びる限り、それは運命に祝福された道を歩んでいるに他ならない。


 そうでも思わないと――


 こんなのに付き合う俺も大概だな。イムティヤーズはそう自嘲する。


 吸入口へ伸びる唾液の糸が、ぷつんと切れた。


「……ほら、もう行けって」


 口を離してしばらく、アリーシャは出かける素振りを見せない。凍った時間が過ぎる。イムティヤーズがそっぽを向いて「い、ってらっしゃい……ませ……」とたどたどしく主人の意を汲んだ。


「からかうときはスラスラおっしゃるのに」


「からかってるから言えんだよ」


 にこりと微笑み「行って参ります、イムティヤーズ」と残して、アリーシャは出口の向こうに姿を消した。


 ドアの傍にはアブー爺やが控えていた。


「おはようございます。アリーシャ様」


「ご機嫌よう。こちらを」


 タブレットと一緒にメモリを返すアリーシャ。写真がタブレットに表示されている。ジープから身を乗り出した男が歓声を上げる、まさにその瞬間を切り取った一枚だ。


「こちらは?」


「昨日、クファールで最も稼いだ殿方です。車を出してくださいます、爺や?」


 朝の挨拶もそこそこに、アリーシャのご用向きを伺う。


「どちらへ?」


「この殿方とカジノへ」


 淀みなく言い切った。むしろ矜持さえ抱いているような。爺やは「それはそれは」と朗らかに。


 折しも、イムティヤーズがテレビのチャンネルをザッピングした瞬間。飼い主に騙されて動物病院へ連行されたネコがブチギレているという、ネット動画が番組で紹介されていた。届いた荷物を開けるのに心を奪われているイムティヤーズには、どちらも知る由もない。ただ一回だけ、ラクダの餌やり映像のところでリモコンの手が止まる。


 ナプキン包みと見比べて、またチャンネルを変えた。「近くでラクダに会えるスポット」とスマホに検索させた。


 大河の流れは正される。アリーシャは爺やを連れて、エレベーターからクファールの朝を望みながら思う。流れが正されると、川の蛇行した部分は取り残されて、三日月湖になる。今生は大河の恵みに与れない、惨めで孤独な、閉ざされた湖に。


 惨めな湖は一体、クファールに幾つできるかしら。


「アリーシャ様、お伝えしなければならないことが」


 傾けた耳朶に、白い髭を寄せる。エレベーターの密室すら疑う耳打ちに、アリーシャは余所行きの顔が剥がれかけた。


「運命がなさる悪戯は、未だにセンスを疑います」


 展望エリアを過ぎて、ガラスの向こうがコンクリートの闇に染まると同時。鏡面になったガラスに映る口元の本性に、アリーシャは扇子を広げた。

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オラに元気を分けてくれ!

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