7.サアドゥーン家の食卓
風呂上がりの着替えがてら、イムティヤーズはサアドゥーンの財布事情を軽く吐かせた。
「デポジットはどうしたんだよ」チェックインの際にフロントには充分な保証金を払っていた。
「差額超えちゃった♪」
「幾ら」
「え~?」悪戯を告白するようにもじもじするアリーシャが耳打ちした額に、イムティヤーズは青ざめた。
「てめっ……! えっ、てめえ!? よくも……」昨晩のスローワルツの味が急に悪くなった。「何だあのジュース!? よく出す気になれたな!? 信じらんねえ!」
「ジュースぅ……?」一拍置いてアリーシャは思い出したようで、手をパンと叩いてパッと明るく言い返した。「あ~、そうそう! あのモクテル、イムちゃんコーラ好きだから……どう? 美味しかった?」
「美味しかった? じゃねえ。理由はわかるな?」
イムティヤーズが仕事の顔で詰めても「わぁ、怖~い」とアリーシャは動じない。どころか、「イムちゃんだって何か買ったでしょ~。あの箱」
バシン! と己の額に平手を打った。搾り出した「そーだったぁー……」と一緒に消えてしまいたい。
「共犯者だね~」
「ぐるぅ……」知らず知らずの内とはいえ、こいつと同じヘマを侵したってだけで、泡吹いてぶっ倒れそうだ。
調子に乗ったアリーシャはバスルームから出るや鏡台を前にして「イムちゃん、髪梳かして」ときた。
「て、てめえな……」
「稼ぎに行くんだもん。うんとおめかししなきゃ」
あまり強くは出られない。が、ただ黙らせられるのが癪だ。つけっ放しのニュース番組をBGM代わりに、イムティヤーズはドライヤーと櫛で御髪を巧みに捌きながら「てめえが稼ぐのは当たり前だ」と釘を刺した。「俺と爺やの雇い主はてめえなんだからな」
「爺や、雇ってないよ」スキンケアをしながら、シレッと言った。
「今度は何の冗談だ」
「だってお金払ったことないもん。頭掻いて」
「ああ」イムティヤーズは自分の頭を掻いた。話題、間違えたな。
「ねぇ~、まだ~?」イムティヤーズが絶句する隙に、ルームサービス表を手にアリーシャは内線をかけていた。「あ、ホブズのモーニングセット二つと~……」
心臓が変な跳ね方をしたイムティヤーズだったが、「おい」と声を潜めながら咎めてもアリーシャはにっこり返すだけだった。止めようがない。今ここで変に騒いで、通話相手に疑念を抱かせてしまう。それは絶対に避けるべきだと判断できるだけの理性は、辛うじて残っていた。
整髪の手が止まっている間にも、アリーシャはするすると注文をつける。
「フムスと~、ムタッバルと~、ファットゥーシュ! あっ、チキンソーセージとオムレツつけちゃおっかな~!」
聞いているだけで、空の財布から神経の削りカスを払っている気分になる。
「イムちゃんは?」
「……セットはチェバブにチェンジ」
「それだけ?」
「喉通んねって」
「まーま~、アリーシャちゃんが戻るまで、くつろげるだけ頼んどきなよ~」
妙な説得力に誘われて「ウムアリとバクラヴァ、デーツは山盛りで」とつい口走ってしまうイムティヤーズの揺れる気持ちも知らず、アリーシャは「え~?」と苦笑した。「虫歯になっても知らないよ~?」
「ハハハ」笑いにドライヤーを当てて、頭のどこが痒かろうが無関係に掻き毟ってやった。
給仕の仕事を待つ間に、爺やからの届け物を渡す。軽く礼を伝えつつ、アリーシャは受け取ったそれをタブレットのスロットに挿入し、中身を閲覧する。鏡台の前に座ったまま、卓上の化粧水やら乳液やらのボトルにコンパクト、リップなどを、異次元のバランスで積み上げていく。どうやったら片手間にそんな芸当ができるのか、イムティヤーズには理解できなかった。
朝食が配膳され終えたと伝えても生返事。目はずっとタブレットを向いたままだ。話にならない。手を取って連れて行こうとすると、今度は自らゆったりと立つ。そのままダイニングスペースへ誘導し、席に着かせた。
食事をつつきながら、話を再開する。
「そもそも何で急に金が足りなくなんだよ」
「いや~、たまには楽して稼ぎたいな~、って……その~……んモグモゴ」
言い淀むのとは裏腹に、ピタパンにヒヨコ豆ペーストをつけて口まで運ぶ手捌きよ。
呑みこむまでイムティヤーズは腕を組んで返事を待つ。
「美味ひ~ぃ」
「楽して稼ぎたいから、どうなんだよ」
「お金はほとんどラクダレースで紙切れになっ、ちゃっ、たっ」
ゴマとナスのヨーグルトペーストにピタパンが向かう。アリーシャの持ち手にフォークがかすめて、ピタパンはテーブルクロスに縫われる。フォークを逆手に持つイムティヤーズの怒気が、銀色のカトラリーに乱反射している。
「私が紙切れにした愚か者です……」と言い直すアリーシャ。
「いつの間に、何てことしでかしてんだ!」
ピタパンを刺したまま、イムティヤーズのフォークは次にソーセージも刺した。微かに覗く尖端をアリーシャに向け、「だからギャンブルは止めろっつったんだよこのタコ!」と怒鳴った口にアラブ風ホットドッグをねじこんだ。
「ラクダは喜んでたよ~?」ペーストへ再度挑戦。「すごいの。聞いて。どこかのベンチャーが開発した新素材のチケットの実地試験でね、ハズレ券もラクダの餌やりに使えて無駄がないの~」
アリーシャのこめかみに風が当たり、背後の壁にナイフが刺さった。
「うん、仲間はずれは嫌だよね……」アリーシャがスッと差し出した拾ったハズレ券の束がナイフで細切れになった。茶目っ気が鳴りを潜めて「お金を無駄にしてごめんなさい……」と言い直すアリーシャだが、今度こそ目当ての料理にありつけた。食べ物にかかった紙吹雪と化したラクダの餌をちょいちょいと摘まんで除く。
「餌やり目当てのレース観戦はさぞ楽しかったことでしょうねえ、ええ? アリーシャお嬢様」
稼ぐ気すらなかったのかよ。とは声にもならなかった。むしろ貢ぐ気だったろ。貢いで足りなかったんだろ。ラクダのユニークな顔、くりくりの目、長いまつ毛、長い脚にはしゃいでいるアリーシャの姿が目に浮かぶ。小箱にしか見えないロボット騎手を乗せ、砂漠を我先に駆けるラクダを追い、並走するランドクルーザーから半身を乗り出して、砂塵を浴びながら応援するお転婆も。大一番で負けた阿鼻叫喚も。負けがこむだけラクダに餌をやれるのが満更でもない様子も。餌やり体験で機嫌を直して、ハズレ券拾いに勤しむあまり、嬉々として膝を砂で汚す様子も。
……まさか砂を吸ったストレスで発作を起こしたんじゃねえよな。
席を立ち、壁に刺さったナイフを回収がてら、アリーシャの近くに寄ったついでに「卑しくも嫉妬深いイムティヤーズめは、寂しさのあまりラクダになってしまいそうです」と一言、ラクダのように唾を吐く真似をして脅かした。本気の悲鳴を上げる浪費家へ「本当に吐く訳ねえだろ、馬鹿」とおちょくってやった。
紙吹雪をナプキンにまとめて包みながら、アリーシャがむくれた。
「むう、意地悪ばっかりする子は、バラクラヴァ一個没収だもんね~」
ピスタチオをたっぷり詰めた一口大のパイは、摘まむだけでサクサク感が耳朶を打つ。アリーシャは一つ、口内にぽいと放り投げる。だが「聞こえてるからな」とイムティヤーズはキャッチした。
「あれっ?」とアリーシャが振り返る。イムティヤーズは片足立ちで、手をアリーシャの眼前に、もう片足の指で壁のナイフを抜くところだった。見ようによってはフィギュアスケートの選手にも見える格好だが、「もぉ~、お行儀悪いよ~」
「うっせえ、いやしん坊」と意に介さないイムティヤーズ。取り返したバラクラヴァを一口にして、壁のナイフを抜いた足で肩越しに手へ回す。直立に戻り、壁を向く。
「外で発作が起きたらどうすんだよ」
二個目のバラクラヴァを盗もうとする手が、寸前で止まる。
「なーに~?」アリーシャがからかう視線を投げた。「イムちゃん、私の心配してくれるんだ?」
「違ぇよ」ナイフ痕をしげしげと見つめて爪でいじる。「俺だけじゃ薬の処方一つでも骨だからな」
「私のこと、絶対安静の重病人と勘違いしてない? 私の体調くらい、ちゃんと把握してるよ」
「あのなあ……!」
振り返ったイムティヤーズの鼻先に、吸入器を突き出すアリーシャ。
「仕事は交代制。仕事に出る方が薬を持つ。待っている方は無茶をしないこと。私が言い出したことだよ。忘れたりしない」
「……なら、良い」
「イムちゃんも少しくらい、羽を伸ばしたって良いんだよ」
「俺にゃ良くわからん」
ナイフの痕は誤魔化しようがなさそうだった。ナイフの痕も、発作の原因が何かについても、目を瞑ることにした。
『ラクダ一頭の落札額としては過去最高です』
ニュースキャスターがタイムリーな話題に触れた。一瞬、アリーシャが固まり、キョロキョロとリモコンを探す。無理もない。結構な額をスッたレースを思い出すツラなど見たくもないだろう。そうこうしている間に、案外愛嬌のある顔でチケットを食むラクダが映り、レースで一位だったと紹介された。落札の瞬間の映像が流れ、競り落とした人のアップのカットが入る。
『落札者は富豪で知られるファーフーリー氏族長ディルガーム氏のご子息、ディヤーブ氏で……』
大喜びを身体で表すラガーマンのような男の腕を掴んで、一緒になって喜ぶアリーシャの姿が映った瞬間、テレビの電源が切れた。男の顔にデジャヴめいたものを覚えたが、電源と共に真っ黒に塗り潰した。
「……」目で訴えるイムティヤーズ。言いたいことはわかるな?
「……」気まずそうに目を反らすアリーシャ。ちゃんと向いているのはリモコンの送信部とテレビの受信部だけ。
聞えよがしにイムティヤーズは溜め息をついた。この上まだ隠し事があるのかよ。アリーシャの肩身が狭くなる。
「で、どーすんだ」席に戻りがてらデーツを頬張る。紙吹雪入りナプキンをぶっきらぼうにかすめる。ぱあ、と笑顔を咲かせるアリーシャを見て見ぬ振りをする。サアドゥーンの家計は最初に聞いた。今更内訳でどうこう言う意味がない。
許されたのを察して緊張が解けたアリーシャも、せがんだので一粒手渡す。着席し、スパイスたっぷりのパンケーキをギコギゴ切り分ける。
「稼ぐあてはあんのか」
「甘~い」デーツに口腔をねっとりさせながら「その点は心配ご無用だよ~」
知ってるでしょ。って、得意げになるな。
「残ったお金と~、借りるお金と~、……爺やからお小遣いを前借りすれば充分だよ~」
こいつ執事に無償で奉仕させるに飽き足らず小遣いせびってんのかよ! 格好悪! こんなヤツさっさと見限れよ、爺やも!
「何か失礼なこと考えてない?」
「別に……あ」ふと、昨日から色々不可解だった出来事が繋がった。「……やっぱり、爺やをここで働かせたの、てめえか!」
アリーシャの喉にソーセージとハーブサラダのピタサンドが詰まった。
「んぐっ、べっ」何とか嚥下する。「別に、私からお願いしてないもん……」
把握してやがる。爺やのアレは単なる暇つぶしではなかったのだ。
「立場考えてからもの言えや! 道理で追い出されてねえ訳だ! あの働きぶり……人身御供も同然じゃねえか!」
「今も泊まってられるのは私の信用のおかげだもん……」
「爺やの働きぶりより先に口をつくのが失墜しかけてる信用って、爺やが浮かばれねえよ!」
どこかの客室でベッドメイキング中の爺やがくしゃみをした。
「爺やの犠牲は無駄にしちゃだめなのはわかってるもん!」
二人の心の中の爺やが「まだ死んでおりませんぞ」と、ほっこり指摘する。「さあさ、お二人とも、境遇を嘆いたところで何も進みませんぞ」イムティヤーズ側の爺やが彼女の思考を代弁し始める。アリーシャの無茶苦茶に頭が疲れたせいか。「お労しや、イムティヤーズ様」
しつけえ。頭の中で会話を始めたらいよいよだ。頭を振って余計な考えを追い払う。
「……まあ、わかってんなら、もう良い」
何をもってもう良いのかわからなかったが、朝飯抜きで真面目な話はできないことだけは確かだ。デーツシロップをたっぷり吸わせたパンケーキにがっつく。少しムッとしたアリーシャも、自分が妙なテンションになっている自覚があったのだろう。ようやくタブレットを伏せて、食事だけに向き合った。
口に余る一切れを、一口に圧縮する。喉に詰まった甘ったるさを、甘さ控えめのミルクコーヒーで飲み下すまで、食器同士の立てる音だけが雄弁だった。けぷ、と胃から空気が上った。
「ねーえ~」目をすがめるアリーシャに「人心地ついた合図だよ」と鬱陶しそうにイムティヤーズ。親指のつけ根で口を拭い、話を仕切り直す。
「出稼ぎ、しても良いんだぞ」
「なりません」ゾッとするほどの冷淡さがアリーシャに垣間見え、すぐまた元の調子に戻る。「イムちゃんは秘密兵器ですので~」
「金はどうすんだよ」
「お金のことは本当に心配いらないから。爺やの働きも倍にして報いるわ」
幾ら悠然と言い放とうと、一言一句ダメなギャンブラーの常套句だ。しかし、アリーシャに限っては悠然とした態度に軍配が挙がる。相手の目を瞬きせず凝視するとか、声を大にして胸を張るとか、そういう詐欺師のマニュアルに書いてありそうな小手先ではない。持って生まれた資質と培われた感性、そして何より、実績だ。
「じゃあ、何で金欠のこと話したんだよ。秘密にしときゃ誤魔化せるだろ」
革のポシェットをアリーシャは顔の横で振った。「私たちの運命は別ち難いから」
「運命狂いめ」
熱いアラビア風パンプディングをスプーンで混ぜて冷ます。
「そう、狂っている」仄かな皆既日食が瞳に宿る。「ご存知かしら、イムティヤーズ。いかなる大河も治めなければ蛇行するの。だから、自ら矯正しようともするわ。流れの強いところから、岸の弱いところへ。弱い岸は抗えない。長い年月をかけて削られて、まるで近道を明け渡すように、その先の流れへ繋がるの。ゆるやかな一本の大河に戻るのよ。運命も同じ」
狂いは正される――アリーシャはそう断言する。例え話はピンと来なかったが。
「……あー、そういのは、あれだ」
丁度良い温かさになったそれをはふはふ頬張って、イムティヤーズは一つ息を吐いた。
「お互い隠し事はなし、って言えば良くね?」
アリーシャは心底白けた目を向けた。別ち難い運命に亀裂の入りそうな。おいコラ、てめえから離れるのだけは息絶えたって許さねえぞ。
「ともかく俺が言えるのは、だ。ギャンブル以外なら何でも構わねえ。稼いで戻るまで仕置きは保留だからな、わかったな」
「うん。じゃあいつも通りだね」ピカッとはにかんで、アリーシャはオムレツを口に運んだ。
「おう」とは言ったイムティヤーズだが、何かおかしい。いつも通りではいけないから、こうして話の場を設けたはずだが……。確か、宿代を賭博にスッて、でも、その分に色をつけて取り戻すから万事解決だから……。
「どうしたの、難しい顔して」
悩み知らずに頬一杯の食事を楽しむアリーシャの顔を、どう殴ってやろうか考えていた。なんて口走っては、イムティヤーズの方が何かに下ってしまう気がして、増々難しい顔になってしまった。スローワルツも頼んどきゃ良かった――。
「あ、そうだ」
急に憑き物が落ちて、イムティヤーズはキッチンへ向かった。アリーシャが目で追う先で、イムティヤーズは冷蔵庫からグラスに入った青い飲み物を取り出す。それを「スローワルツの礼だ」として差し出した。
「これを?」イムティヤーズは頷く。「イムちゃんが?」頷く。「私に?」
「早よ飲め。ほら乾杯」
今日一番の嬉しそうな表情が見ていられなくて、イムティヤーズはさっさとコーヒーカップで一方的にグラスをぶつけた。戸惑いながらもアリーシャは口をつける。ノンアルコールのはずだが、ほうと蕩けて赤らむような味わいだったらしい。
「美味しい……何てモクテル?」
待ってましたと、にやけたイムティヤーズは「ヴァージン・エクソシスト」と教えてやった。
しばらくアリーシャは意味を噛み砕いて、ハッと気づいて「誰が悪魔憑きよ~!」とへそを曲げる。てっきりそうなるかと期待していたのだが、当のアリーシャは「私これ大好き~」と変わらない調子で喜んだ。
ゆっくり、一口一口を大事そうに味わいながら、んくんくと飲み干す。思い通りにならない主人に「敵わねえなあ」と内心毒づくも、イムティヤーズはミルクコーヒーを飲む振りをして口元を隠した。
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オラに元気を分けてくれ!