5.荒療治
最上階はクラブフロアの中でも部屋はロイヤルスイートのみ、それも数えるほどしかない。薄暗い中へ一歩踏み出すと、エレベーターのマットとは比べ物にならない柔らかな絨毯の感触が、ぞわぞわと背筋を這う。磨いた黒檀仕上げの壁が伸びる廊下。寂しい間隔で、今にも倒れそうな花瓶に、誇張したアフロヘアのように生けた花が、ショーケースの中にライトアップされてある。寂しさの合間を繋ぐのは、やはり寂しいサイズの獅子のレリーフのみだった。
一見すると廊下が左右に伸びるだけで扉がない。イムティヤーズはあるレリーフの前で立ち止まり、咆え猛る獅子の口にカードキーをかざした。すると、ロックの外れる軽い音と共に、壁の一部が陥没し、スライドしていく。中にはドアノブが隠されており、これだけやってようやく入室できるようになる。
金が余ると人間、馬鹿になるのか。無一文で馬鹿より劣るままくたばるよりはマシだが。
扉を開けた途端、瀬戸際めいて喘ぐ声がくぐもって聞こえた。聞く人によってはギョッとしかねない、媚びを忘れた若い女の粗い息遣い。
靴箱へ一旦荷物を置いてコートハンガーにリュックとコートを掛け、見果てぬ白波を彷彿とさせる調度品を集めたサロンで、テーブルに目が留まる。テーブルには手当たり次第のアメニティグッズが集まっていた。歯ブラシやドライヤーなどが冗談のようなバランスで積まれて、何がどうしてベニサンゴの形を保っている。
あいつ、またやったな。
ベニサンゴの前衛芸術に一瞥をくれて、一直線にベッドルームに向かう。喘ぎが鮮明になってくる。乱暴にドアを開け放ち、叫び声の逆風へと踏みこんだ。
ベッドの上で身悶えするそれに、平然とイムティヤーズは「帰ったぞ。生きてっか」と一瞥もくれず、ベルトを解いてポシェットをマットへ投げ渡す。自分のベッドに荷物を置き、枕元のビスクドールの頭を指で愛でるように撫でる。
その間、隣のベッドでアリーシャが独り、悶え苦しんでいた。
アリーシャの髪は艶やかだ。見るからに手入れが行き届いているものの、今や癖がつこうが意に介さない。否、介す意がない。官能が差し出る余地などなく、女は純粋に苦悶している。
目を見開き、瞳孔は震え、呼吸は「ぜひゅ、ぜひゅ」「ほご、ほご」と風が喉を切り裂くばかりにかすれている。窒息の元を絞め殺したいとばかりに喉と胸に爪を立て、めくれ返ったワンピースネグリジェは滝のような汗で透け、シーツも枕もしわが寄った部分に水が溜まっている。
アリーシャはイムティヤーズの帰りに気づく素振りも見せず、天井辺りに目を泳がせ、まるで苦行に勤しむようであった。
今にも絶えそうな耳障りな呼吸をBGMにして、イムティヤーズはファスナーを下ろす。一瞬、サウナに似た熱気が鼻面に当たる。ブーツを蹴り飛ばし、テキパキとライダースーツを脱ぎ捨てる。アンダーウェアを裏返す。
すっかり身軽になったら、眠り姫ならぬ苦しみ姫が横たわるベッドにずんと腰をかけた。ここで溜め息を一つつくと、やっと仕事が終わった気がする。
「おい、とっとと吸えよ。死ぬぞ」
束の間、疲労を血が押し流す感覚に浸ってから、しつこい喘ぎに諭してやった。
アリーシャは息を取り戻すのに精一杯なようで、すぐ傍にあるポシェットの中身――吸入器にすら気づいていない。「おいって」苛立ちを露わに肩を揺すっても反応がない。アリーシャの肩は頑として、汗はじっとりと冷たかった。
直前とは別種の倦怠感に見舞われて、イムティヤーズはどっと肩で溜め息をつく。ポシェットを拾い、吸入器を取り出し、軽く振る。
アリーシャを覗きこみ、吸入器を目の前に示してやる。
「薬の時間だ」
異界を見つめていたようなアリーシャが、未だ蒼白ながら少しは血の通った表情を取り戻す。瞳孔が吸入器に絞られる。縋ろうとする細指からイムティヤーズは吸入器を離し、耳に入れないとわかっていても「慌てんな。身体、起こすぞ」と断って、彼女の肩に腕を回した。
華奢な身体からは想像もつかない力で、背筋がグイと伸びている。苦しいのか、それとも嫌がっているのか。おそらく両方だろう。意識が朦朧として、何が何だかわからないに違いない。ただ、命にかかわる薬が宙に浮かんで見えただけで。
(ちゃんと起こせねえな)
アリーシャの頭を自分の肩に乗せさせて、不格好なリクライニングの姿勢を取らせる。吸入器を口元に添えると、イムティヤーズの手ごと無理に引き寄せようとする。
「馬鹿、まず息全部吐け」と言っても聞かず、微動だにしないイムティヤーズの手を痛いくらいに握り締めてくる始末だ。
「この……!」頭に血が上ったイムティヤーズは身を翻してお転婆のマウントを取り、ポジションチェンジの流れのまま、全体重プラス勢いを乗せた膝頭で麗しいみぞおちを捻り潰す。
「ごほっ!? ……っか!?」
引き絞られた瞳孔に、涙が溢れた。アリーシャが肺の空気を吐き切ったのを見逃さず、嗚咽で突き出た舌へ吸入器を滑らせる。膝をどけ、息の吸い始めと同時にボタンを押す。プシュッと噴射した薬が、アリーシャの胸の隅々に行き渡る。息を吐き返す気配を感じ、イムティヤーズはすかさず彼女の口と鼻を塞ぐ。
断末魔が手に伝わる。
「たった五秒、辛抱しろ」
五秒、吸った霧状の薬を肺に留める。だが、錯乱したアリーシャには思い至らない。息を吐きたくてたまらない。窒息してしまう。本能的で滅茶苦茶な動きで、しかし折れそうなほど繊細な細腕で敵を殴り、引っかき、全力で抵抗する。
さっき始末した連中よりよっぽど手強い。そうイラついている内に五秒経ち、呼吸を解放してやる。まだ粗いが、直前よりも喉に潤いを取り戻した音色だ。
次第にその呼吸は穏やかになり、間隔が伸びるにつれてアリーシャの目には疲労の色が湧き、気絶も同然に寝息を立て始めた。
息が乱れないか、呼吸に異音が混ざらないか、しばらく覆い被さったまま、半開きの口元をじっと見ていた。大丈夫だと思った途端、どっと疲れが溢れて、ごろんとアリーシャの隣で仰向けになり、一息ついた。
(こりゃあ、メモリは手渡しの方が確実だろ)
ふとビスクドールの方を見る。一部始終を見られていたところでどうってことはない。どうってことはないのは承知しているが「今見たのは全部忘れろ」と世迷言が口をついた。
「残業になるよな、これ。な?」忘れろと言った矢先の話題がこれではおかしいか。いや、そもそも人形に語りかける時点でか。胸のむかつきを覚えたイムティヤーズはおもむろに上体を起こし、今さっきアリーシャに与えた吸入器を、自分にもあてがった。
そういや、まだシャワーも浴びちゃいねえ。
ついでに歯も磨こうかと、ベニサンゴの枝と化した歯ブラシを取る。枝の先っぽを取っただけだ、なのに、途端にベニサンゴはガラガラと崩れ、雑然とした物品の寄せ集めに帰した。片づけるのは俺なのに。一旦無視して、イムティヤーズはシャワーのことだけを考えるようにした。
バスルームで汗と臭いを流していると、湯が引っかき傷に染みる。死にかけが一転、アリーシャの呑気そうな寝顔が心に浮かんだのが忌々しく、イムティヤーズは舌を打った。折角、無傷だったってのによ。ったく。
長袖のシャツと適当なパンツに着替え、首にかけたタオルで髪を乾かしながら、無駄にデカいテレビにリモコンを向ける。丁度、速報で先刻の銃撃現場から生中継している。死傷者数や事件の経緯など曖昧も良いところな報道だが、こういうのは速さが物を言う。テレビ局のフットワークを誇示する絶好の機会だからだ。
『現場は旧アル=バンダーク邸跡地付近の住宅地で、五年前に反社会的勢力同士による武力衝突が頻発して以降、表立った騒動は起きておりませんでしたが――』
次々とチャンネルを変える。映画専門チャンネルを過ぎ、戻す。西洋の悪魔祓いがモチーフの古い作品が字幕放送されている。静かな夜の気分じゃない。かといって放送の中身を頭に入れる気にもならない。こういう何を言ってるかわからない映画が丁度良い。
ソファーに背中から跳びこみ、ローテーブルに無造作に置かれていたルームサービスのメニュー表を広げる。もう一杯、くつろぎが欲しかった。腹の足しになるものと、それから……。
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次回以降は1日1話18時投稿予定です。
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