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3.故郷

 サイレンの遠鳴りが輪郭を得つつある。仕事の遅い警察を尻目に、イムティヤーズは悠々とバイクを出した。路地裏から殺し屋は、一般車両の走る中に姿を晦ませた。


 ありふれたゴミ収集車一台を、ただ何となく追うためだけに。


 行き先はわかっていた。そう遠くない。この街の外れには、ゴミ山がある。


 都会の夜景を転がしている内に、人の熱気が噴霧するマーケットを横切り、次第に喧噪は鳴りを潜めていく。トタンだかコンテナだか判然としない、家とも呼べない人の棲み処は先刻の路地裏よりも剣呑としており、バイクに悪どい視線が注がれている感覚をイムティヤーズは肌で味わった。空が狭い。通りを挟んで向かいに縄を渡して、物干しにしているのだ。


 剣呑な道を抜けると開けた場所に行き着き、目の前に鉄柵がそびえている。そこがゴミ山だ。


 ゴミ山の前の道を駆ると、バイクで風を受けていても流せない強烈な悪臭が鼻を刺す。


 公式な扱いは霊園である。だが、旧植民地時代にもたらされた都市計画と、当時に崩壊し今更になって復活させられた慣習――死生観の不一致や半端な氏族主義とは見事に反りが合わなかった。


 そこまでなら良かった。国が独立を遂げた後は、コロニアル様式の恩恵を引き継ぐ形で列強と肩を並べられるだけの下地を有していたのだ。


 それが、戦争で塵に帰してしまった。旧宗主国は立場こそ明確にしていなかったが、よりにもよって敵陣への供与は明確である。それが決定打となった。


 復興の兆しは、目覚ましくはあった。法整備を後回しにした急進的な産業発展、そして倫理の欠けた功利主義。言ってしまえば国民の草の根根性が、それを可能にしたのだ。


 手本は西側諸国である。ただし、市井に芽生えた異文化嫌悪は拭い難く、その捻れを内包したまま国は再建の道を歩んだ。一国を跨ぐコンプレックスの解消のため、民族感情の高揚は復興のお題目となり、戦前からあったコロニアル様式の建造物は文化財保護の議論が出るまで片端から取り潰された。


 その嫌悪感情は自然と霊園にも向かう。枯れた弔花から始まり、タバコの吸い殻が皮切りとなった。ゴミの量と種類と大きさは日を増す毎に膨らみ、企業から個人まで何食わぬ顔で不法投棄を繰り返してきた。


 実質的な最終処分場と化して久しく、そこでくたばる連中も含めて、死者の安らぐ地は文字通りのゴミ溜めへと転落していた。


 スラムと鉄柵で隔たる一面のゴミ景色は、死んだように静かにたたずんでいる。廃棄物同士の化学反応による自然発火、幾層ものゴミの下層で燻る火種は、毒ガスの煙を幾条も空に返している。それは霊が天に召される姿にも似て、いつか雨粒となって街を焼くであろうことは紛れもなく、それはまさしく、怒れる霊魂の具現であった。


 火種燻るゴミ山へ、ゴミ収集車は日々、そして今も新たな火種をもたらした。


 傾けた荷台から大量のゴミが捨てられるや否や、幽鬼の如く人々が姿を現した。十人、二十人、八十人、もっとたくさん……ゴミの陰によくもこれだけ潜んでいたと思わずにはいられない大群が、新しくもたらされたゴミの恵みに群がっていく。


 みすぼらしい格好の子供や老人、見目麗しいが芯の荒さを隠せない女、暴力に物を言わせてきたであろう男……一見して出身も、経歴も異なる人々が一堂に会する。互いが目に入らない様子で、しかし我先にとゴミを漁る光景は無秩序であるように見える。


 しかし、路地裏にも秩序が泰然と存在する。


 力自慢が弱者を殴り、蹴り、金目の物を手にする。しかしそれは、ゴミ収集業者に上手く取り入って車に同乗させてもらった要領の良い住人のおこぼれに過ぎず、その出涸らしでしかない金目の物は懇意の女狐に渡り、ゴミ山の外のヒモに渡る。縄張りを荒らす連中に焼きを入れるため、ギャング気取りが遅れて出張り、ガラクタ同然の銃をちらつかせ、選別された金品を徴収する。


 弱者はリスクを承知で痛い目(リスク)に遭うか、大人しく指を咥えて順番を待つだけ。分を弁えていれば、殺されやしない。


 弱肉強食と適者生存、そこに最低限の人命尊重――くだらない命をいたずらに潰し、埋葬する手間を省くための口実を、優しく加えた秩序。


 そこに、年端もいかない子どもが捨てられていた。


 骨と皮ばかりで、ギラつく瞳で油断なく瞠り、ゴミの争奪戦を離れた場所から観察する、正しくスカベンジャーの子どもだ。


 イムティヤーズも昔は、あの子どもと同じだった――あるいは、今も。


 常に空腹で、生への渇望に駆られ、それ以外の全てが身につかない、無名の少女だった。夢を持たず、見る夢は常にゴミ漁りの続きでしかない。毎日経験していることなのに、眠れば翌朝に新しい一日が始まるという当たり前のことですら、少女にとっては思いもよらないことだった。タガが外れる以前にタガなどなく、少女はゴミ山の秩序からすらも贅を削ぎ落とし、残った骨子を信条とした。


「常に勝てば死なない」


 それは、片目の欠けた裸の人形だった。ゴミ山の連中からも見捨てられた、みすぼらしい玩具だったが、少女はどうしてもそれから目を離せず、拾い上げ、空虚な瞳をまじまじと見つめた。無機質な素材のそれは、どこをどう見てもゴミ山での生存競争と無縁の物だ。だが、理由も理屈も、その体験の意味も未だにわからないが、少女は人形を抱きしめて初めて、いつか名を得る(イムティヤーズの)肉体の外側にも世界が広がっているのだと、名状しがたい微かな感覚を抱いたのだ。


 その人形の頭が、武骨な手にむんずと掴まれる。


 ゴミ山のチンピラだった。凶暴さを隠した薄ら笑いで、少女に訴えかけてくる。寄越せ、わかるだろ?


 大方、人形の目が金になると勘違いしたのだろう。高級な人形の瞳に本物の宝石を埋める好事家が、何かの弾みで手放した。それを少女が見つけたのだと。だが、それに相応しいのはお前じゃない。


 そんなロマンチックな話など、ゴミ山に似合わないことくらい、チンピラも少女も理解していた筈だった。なのに、少女も手を引けば良いものを、この時ばかりは無気になって大の大人と人形を奪い合い――一方的に暴力に揉まれて自分の足で立てなくなっても、力一杯相手の手首を掴んで睨み返した。


 捻れば千切れそうな少女から発せられた気迫に射抜かれ、臆病風に吹かれている――チンピラは自覚した。自覚した途端、頭に血が上って禿げ頭が赤くなり、手加減を忘れて殴る、蹴る、掴まれた腕で逆に軽々と持ち上げて、ゴミの斜面に叩きつける……。


 少女は、気を失うまで意地でも手を放さなかった。


 気がついた時には辺りは暗く、チンピラの姿は消え、みすぼらしい人形はみすぼらしい残骸と化して残されていた。


 全身が血みどろの肉団子に腫れ上がるまで耐えて得たのは先人からの教訓である。その対価は広い世界と等価の物。粉砕されたプラスチック片と、ナイロン製の剥がれた毛根が、目覚めと同時に目に飛びこんだ。


 少女の死を虎視眈々と待つ鳥の群れが、ゴミ山の稜線に並び、ゴミ山の上空を旋回している。大胆な数羽は、少女のすぐ傍に降り立ち、一番乗りする気で俊膜を瞬かせている。


(ンだよ、てめえ……!)


 言い知れない怒りが全身に漲ったかと思うと、少女の身体は勝手に動いた。頭の中で何かが弾け、普段は何かに阻まれてそのまま消え入るそれが、体の隅々へ電流の如く流れた感じがした。


 気づけば、うつ伏せの姿勢から近くの鳥に飛びかかっていた。散り散りに逃げる鳥。だが、自分でも満身創痍とは信じられない機敏さを発揮し、一羽の首に、その小さな手をかけていた。翼で撃たれ、爪で裂かれ、鳴いて耳を聾してくる。


 迷わずへし折った。ねじ切り、滴る血で喉を潤し、満たせるだけ腹を満たした。


 骨の髄が漏れて、身に染みた。酷い味だ。脂にここで漁った餌の味が混ざっている。でなければ、教訓は今日まで少女の信条とはならなかっただろう。


(勝てば、死なない……!)


 結局、鳥の肉は腹の足しにならなかった。脂がゴミ臭く、胃が受けつけなかった。人形の喪失感を胃と涙腺から追い出す。自分のと鳥のが混ざった血反吐と血涙に誓って、感傷から覚めた後から、ゴミ拾いの習慣の意味が変わった。


 死なないために、勝とう。


 集めたガラスや金属片は、少しだけ取っておいた。煙の昇る底をむせながら掘り返し、手を爛れさせながら湧いた液体を容器に詰め、チンピラの溜まり場から漁り場までの経路に考えつくだけの手を加えた。


 そのチンピラは今、ゴミ雪崩に呑まれて腐り果てたか、そのときの火事で消し炭になっているだろう。


 舐めた輩には火の制裁を、すり寄る者には血の粛清を。そんなにゴミが好きなら、ゴミに溺れて息絶えてしまえ。


 少女に空腹以外の欠落を思い知らせたチンピラ。憎いあのツラをくべた炎を、少女はいつまでも眺めていた。炎の舌は高く夕空を焼き、轟轟と毒の黒煙を唸らせ、少女の頬を煤で撫で潰した。


 後に“赤猫(せきびょう)”と呼ばれる殺し屋の、産声であった。死体の出るゴミ山には小さな子供の目撃談がつきまとい、常に赤く染まるか、赤く照らされていたから。


 現在、同じゴミ山で、かつてのイムティヤーズと同じ歳の頃の子どもが、同じような目で食い扶持を探っている。衆目を集めると知りつつも、路肩にご立派なバイクをつけて、何の気もなしに少年の動向を探る。


 ふと、ゴミ山の人だかりの足元を縫って、空き缶が転がった。丸まっていた少年が首をもたげる。


 空き缶はなかなか悪くない。集めれば金になるし、容器にも、厚めのスチール缶なら鍋にも使える。叩いて研げば一応の武器にもなる。


 少年もそれは心得ているようで、目にするや空き缶に飛びつこうとした。


 その指が届く直前、傍でゴミを漁るゴロツキが先に足で缶を踏みつける。ゴロツキの足元はボロの安全靴とサンダルでちぐはぐで、少年の爪が切れるような距離で、靴の方が振り下ろされた。


 少年の見上げた先で、ゴロツキの一瞥がぶつかり、影を落とす。


 一瞬が粘ついて、長く感じた。ゴミを奪い合う喧噪が二人から遠ざかる。年齢を隔てた二人の男が腹を探り合う空気――闘争が忍び足でやって来る。


 奪え。イムティヤーズは念じる。さもなきゃ、殺せ。


 不意にバイクがハンチングし、排気音が強まった。


 チッ、と男が舌を打つ。腰巻代わりのビニール紐に括ったビニール袋に手を突っこみ、ぞんざいに中の物を投げやった。すかさず少年はそれに飛びつき、二人は何事もなかったかのようにそれぞれの仕事に戻った。


 ウレタンクッションだった。


 空き缶には劣るが、ここでは貴重な、まだマシな方の燃料だ。


「おい何見てやがる!」


 背後からいきなり肩を掴まれ、反射的に裏拳を放った。顎を揺らした手応えの後、大きな何かがズズンと倒れる気配がした。「見たな、っ?」「見……?」と、出遅れ気味に尻すぼみの威嚇が、方々からバイクの元に集まってくる。


 よくある強請りの手口だ。馬鹿の一つ覚えのセリフを大声で、大勢で間断なく叫び、相手に考える余地を与えず、勢いのまま適当な因縁をつけ、威圧だけで見物料ないし取材料名目で金を要求する。


 小悪党が徒党を組んでも、出鼻が挫かれては烏合の衆か。


「見……ッ、み? あ、え……ち、治療費!!」


「そ、そうだ治療費だ!!」


 金のことを覚えていられるだけの逞しさは持ち合わせていたらしい。昏倒した先兵を跨いで、次から次へと降って湧いた治療費のシュプレヒコールが威勢を増していく。


 どいつもこいつも及び腰で、強請りに特有の馬鹿みたいに近い詰め方は鳴りを潜めているが。


(――馬鹿馬鹿しい)


 口を動かす前に、俺をボコす根性のある野郎もアマもいやしねえ。


 水を差された気分になった。イムティヤーズはバイクをいななかせ、前輪を頭上高く上げた。ウィリーのままその場で一回転して見せると、強請りの連中はタイヤに触れてもいないのに薙ぎ払われたように飛び退いて、我先に逃げ出した。


 ダンッ、と前輪を地面に叩きつけ、サスペンションが衝撃を殺し切らないまま、イムティヤーズは来た道を戻る。何もできなかった腑抜け連中が、一塊になって負け犬の遠吠えを投げているのを背中で感じた。


 来るんじゃなかった。何が見れると期待した。人形を失った日、あの時と同じゴミ山の様相を目の当たりにすれば、満足したのか。あのガキが俺みたいになる瞬間に、お仲間が生まれる瞬間に立ち会いたかったってのか、ええ、イムティヤーズ。


 知らない間にゴミ山は様変わりしたようだ。遠ざかるにつれて、過日と同じ様相を呈すというのに。


 イムティヤーズに知る由もないことだった。ガキ一匹でもキレちまえば、赤猫みてえのが出ちまう。物事の分別がきっちりつく年頃になるまで、痛めつけるのはほどほどに、生かさず、殺さず、手をつけない。その内にくたばれば上出来だ。もし生き残ったとしても、赤猫ほど尖った野郎にはならねえ。


 イムティヤーズが目にした出来事は、彼女自身が変えた、ゴミ山の新しい秩序であった。

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オラに元気を分けてくれ!

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