26.ダブケを踊る
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イムティヤーズがアリーシャを呼びに行く間、ラハイたちはギャラリー奥の商談室で待たされた。アリーシャと商談という体である。
間もなく爺やとイムティヤーズを連れて、アリーシャが席に着いた。書き出した各種カード番号の一覧を基に、三人で得た総額をアプリ上で確認していく。
各人の出資額を還元した上で分配の協議に入る。アリーシャは迷惑料とばかりに吹っかけたものの、イムティヤーズに対抗する手段がないラハイとターイウは首を縦に振るしかなかった。それでも配分自体は誰もが納得できる額に落ち着き、協議は呆気なく議決に至った。
各自の持つ口座に送金し、各々が残高を確認して、つつがなく山分けは終わった。
「はい皆様、ご苦労様ですわ」
可愛らしい、ルンとしたアリーシャの一本締め。そしておもむろに「さ、お祝いしましょう! 勿論、皆様疲れと怪我を癒してからでいかがですか」
「いいねえ。で、どこで?」前のめりになるターイウを押え、「忘れた? 手切れ金」と嫌そうにラハイが言う。
「お忘れ? 私どもの貸し」
「迷惑料取ったじゃん!」
「それはイムティヤーズへの報奨です」
「え。じゃあ少ねンだけど」
「イムちゃん今はちょっと黙ってて?」
イムティヤーズの負傷した肩に、尋常ではない握力がかかる。商談室の外、画廊のホテルアテンダントたちの耳まで、獣の断末魔が届いた。後のホテル七不思議“叫ぶ野獣の絵”である。
後の七不思議の正体が、ソファに仰け反り捻じくれ、呪詛を搾りながらビクビク悶えている。それを爺やがなだめようとしても、キレたネコのようなパンチが返るばかりだった。
アリーシャの話の腰は折らないでおこう。残った男二人は心に誓った。
アリーシャの咳払いで話が再開する。
「さて、件の手切れ金も甘んじて受け取りました。残るは、爺やの腰の礼ですわ」
「ああ、そうきた?」
きっちり明細を分けて三下り半を突きつけるべきだったと、ラハイは頭を抱えた。「お安いものでしょう?」見ていなくても、アリーシャのにやけ面が思い浮かぶ。
「わかったよ。どうせほとぼりが冷めるまで待つつもりだったんだ。どこへでもご一緒しようじゃないの。それで本当に最後! もうこれっきり! オーケー?」
「ええ」
手切れの後に握手も何だと、クラブレストランの予約をもって、商談は成立と相成った。
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その後、ディヤーブの死を契機に勃発した騒擾事件は、アル=バウワーブ一家内の派閥争いとして処理された。本件にて父親にして一家の長であるディルガームが落命。頭を失った一家が情報統制はおろか表の顔を取り繕う能力を喪失するのは当然で、瞬く間にファーフーリー一族の仮面で隠した本性が露見する。連日、ディルガームらの悪行の話題で持ち切りながら、アル=バウワーブの手は公権力の汚職にまで及ぶ。汲めども尽きない陰謀の数々にマスコミも視聴者・購読者も魅了され続けている。
当然、マイスィル・アル・カサルにも公安のガサが入り、同様の捜査はあちこちで展開されている。加えて、組織の弱体化につけ入って、他の反社会的勢力による残党狩り並びに下部組織の吸収合併が散発。カジノの金の追跡はおろか、下手人の捜索もままならない。残党は自分の身を守るのに精一杯で、アル=バウワーブ一家の崩壊は時間の問題だった。
ラービフとギヤースは、留置所に繋がれていた。ディヤーブの殺人現場に居合わせた二人だが、両名とも負傷し、拘束されていたおかげで容疑はかからなかった。
殺人現場に居合わせたとして事情聴取を受けたが、二人とも意識を失っていて犯人の顔は見ていないの一点張りを決めこんでいた。ディヤーブに世話になった恩よりも、アリーシャに命拾いさせてもらった恩が上回る。二人なりの義理の通し方だった。
「釈放だ」
空耳かと思ったが、守衛は牢を解き、再び同じことを言う。腑に落ちないまま留置所を後にする二人を迎えたのは、爺やを連れたアリーシャだ。
「御機嫌よう」日傘を傾けて、アリーシャは白い歯を見せた。「二度と顔を見せるなとおっしゃってらしたのに、お言いつけを破っちゃいました。腕のお加減はいかが?」
ラービフは軽々とギプスを持ち上げて、ぎこちなく口角を上げて示した。
「保釈金、あんたが出したのか」
「庇ってくださったお返しです」
「館長の仇がのこのことお出ましとはな」
「その気ならとっくにチンコロなさっているでしょう? あら、どうして私は外にいて、貴方がたも外にいるんでしょう?」
ラービフは忌々しそうに舌を打った。
「礼は言わねえ」
「結構。では代わりにこれを」
アリーシャは封筒を押しつける。「ご検討いただけるようでしたら、いつでもご連絡くださいまし」
すたすたと去る背と封筒を見比べて、ラービフはやっと「おい」の声が出せた。
「ウチの子のお迎えがありますので、これで」
二人は、日傘が白い点になるまで見送った。
砂をまぶした郊外の一角に、廃墟同然のビルがある。テナントは診療所一軒、薬局一軒のみ。看板なし。名声なし。確かな腕あり。暴力沙汰の絶えないクファールでは、一部の者から頼りにされる隠れた名医であった。
「うちは獣医じゃない」
くたびれた医者が、退院手続きに来たアリーシャへ愚痴た。まさか麻酔銃を使う日が来るとは思わなかった、とも。
イムティヤーズの肩は手術が必要だと説明した。来院からずっとアリーシャの小さな背にべったり隠れていたイムティヤーズは、手術と聞いて豹変した。
「嫌だ!!」
ビルの外壁から砂がサラサラと落ちた。その後の一騒動は「ああなのだろうな、トラ狩りとは」の一言が物語っている。トラ狩りの立役者は、可愛らしい人質であった。
当のトラは肩周りをすっかりギプスで固められ、書類にサインするアリーシャと対面し、四足で抱きつきながら、うなじに顔を埋めてスネている。無事な方の手にはビスクドールを握って。
アリーシャは赤子をあやすようにその背中を、リラックス時の心拍のリズムでぽふぽふ叩いた。
「お世話様でした」
書類を返すアリーシャ。不備がないと認めた医者が、定期検査の日程を伝えようとする。
「もう来てやんねえし……」
保護者も主治医も苦笑いだった。「じゃ、先にいつもの」と、医者は呼吸器の薬二人分の処方箋を出す。アリーシャは粛々と受け取ろうとしたが、医者の節くれた指はグッと紙面から離れない。
「まだ吸入器を共有しているのか」
アリーシャはすっとぼけた。
「推奨しない。衛生的にも、君らの人生設計にも支障がある」
「何度も申し上げておりますが」
「わかっている」医者がやれやれと遮る。「これでも医者の端くれだ。言うべきことは言わねばならん」
乾いた日差しの下、車が騒がしく走っている。医者はまだ指を離さない。火事場から運ばれたばかりの頃は今に自刃すると思わせたあの人の孫は、綺麗に育った。この子の心が蘇ったのは、いや、何とか形を保っているのは、黒いギプスのおかげだろう。今の姿はまさにそれを象徴しているようだ。
「良かったな」
美貌に困惑が漂う。医者は頭を横に振った。
「お大事に」
処方箋がアリーシャの手に渡る。「イムちゃん降りて」なだめてやっと診察室を出る間際に、イムティヤーズがトラの顔で振り向いた。
「死ね!!」
ビルの外壁から砂がサラサラと落ちた。
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レストランの予約当日。爺やを含め五名が同じテーブルを囲う。「私めが同席してもよろしいので?」と爺やは不安げだったが、アリーシャの「爺やの腰のお礼の会ですから」という鶴の一声で、万感の思いが目頭に溢れた。
「食ったらすぐ帰るからね。帰るったら帰るからね」
無下にできない雰囲気に負けじと宣言するラハイだが、一杯やるとゲラゲラと居座っていた。
食事中の話題は、自然と互いの近況報告になった。イムティヤーズの入院騒動を皮切りに、興の乗ったラハイが続く。ゲストハウスを転々として適当に過ごしている。とか、行きつけの店の親父に身に覚えのないツケを払わされた――ああ、やってくれたなアリーシャ。とか。
「君には敵わないなあ! 世界で一番お姫様!」
もはや、豆がフォークからコロコロと逃げても爆笑するほど酔いが回っていた。
ターイウは「あの日に比べりゃ退屈でさあ」で終わり。
食後のデザートと紅茶が運ばれて来た。配膳後、アリーシャはデザートを、イムティヤーズは紅茶を、阿吽の呼吸で交換した。
「で」ラハイもそれに倣ってデザートをやる。「君はどうなの」
アリーシャはふふん、と鼻を鳴らした。
「マイスィル・アル・カサルの経営権を買います。ラービフたちを雇い直して、新しい資金源にする予定ですわ」
「まあ嫌だターイウ聞きました? 大きく出たよ、この子ったらもう!」ラハイは爆笑した。
「いかがですか。投資、一枚噛まれてみては」
「出た。ファイナンシャルプランナー」ターイウは覚えていた誘い文句にかけて冷やかす。
「いーや、もうお腹いっぱい! 今なら乗ると思った? そうはいかないんだよなあ。僕あ、故郷で若隠居させてもらいやす」
「あら、残念」と言いながら、アリーシャは満足そうに頬杖へしな垂れる。
ふと、照明が落ちた。フロア中央のパフォーマンスエリアをスポットライトが照らす。弦楽器に管楽器、打楽器の楽隊が、中近東情緒の漂う旋律を奏で、癖になるリズムを刻む。
「ダブケをご覧になったことは?」
アリーシャにラハイは「だぶけ?」と首を傾げた。
ダブケとは、祝いの場で披露される中近東のラインダンスである。触れれば切れそうなステップを刻み、かつ重力から解放されたかのような足捌きで舞い飛ぶ。達人ともなれば、その足技はヘビクイワシの狩りを彷彿とさせた。一糸乱れず列を成すその力強さは、見る者を圧巻する。
民族衣装で装いを凝らしたダンサーたちに、フロアが見惚れる。アリーシャに至っては、リズムにつられて身体が動いてしまっていた。
デザートを貪るイムティヤーズの裾が引かれた。水を差された気分で首をもたげると、アリーシャが目を輝かせてダンサーたちを指している。飛び入り参加したくてウズウズしている顔だ。
「てめえなんかショーの邪魔」
アリーシャは親指を立ててプログラム概要を見せた。飛び入り歓迎。ゲストが踊るエリアが決まっていれば、インストラクターも割り振られていた。チラシの隅っこに小さく、アリーシャの近影が載っている。
イムティヤーズは嫌な汗をかいた。
「今宵のショーは、不肖このアリーシャ・サアドゥーンの協賛でお送りしま~す」
「その散財癖どうにかしろ!」
「まあまあ、もう始まっちゃったんだから楽しも?」
悪びれずウインクし、アリーシャは舌をチロリと出してはにかんだ。
客の我儘を許すにも限度がある。アリーシャを止めるヤツはいなかったのか。キャストの仕事も尊重しろ。贅沢ホテルが。
「それに、何のためにパンツスタイルにしたと思ってるの」
とっくにアリーシャは椅子から腰が浮いていた。リズムに乗る腰遣いが、アレだった。
「行儀悪いぞ」
「イムちゃんも」
「安静」肩をビッと指す。
「じゃ僕が」立候補するラハイ。
ウェイターの運ぶトレイをイムティヤーズが奪う。ボトルとグラスをラハイの前に並べる。
「てめえはアラック・トーマでも飲んでろ!」
「すげー! 透明な酒が水割りで白くなったぞ!」
まるで大発見かのように、ラハイは隣のターイウに見せつけた。興味をそそられたら直前の関心は霧散する。絡み酒である。
茶器を置いて襟を正しながら立つ爺やに「てめえは腰」とイムティヤーズが制止する。
「一人で行ってこい。ちゃんと撮ってやっから」
不安と不満の気配が漂うのに先回りする一言だった。これがアリーシャに効いた。アリーシャは親の許しを得た子どものように、喜ぶ足に任せてヒールを脱ぎ、ダンサーたちの前に踊り出た。
太鼓のリズムに合わせて、アリーシャがプロ顔負けのステップ、キック、ジャンプを繰り出すと、客席から歓声と拍手が送られる。パンツスタイルのドレスとハーフスカートの翻る様は、まさにヘビを狩る猛禽にも劣らぬ美しさに映る。
カメラ越しに臨む姿はライトの下に眩く、人の眼では拝めない神々しさを帯びていた。目を離してしまえばそのまま飛び立ちそうな軽やかなステップは、きっとアリーシャの神にも届くに違いない。
天とアリーシャの狭間にある二人の寝所で、ビスクドールのガラスの瞳はトルソーを映している。トルソーにかけた衣装は作りかけで、その完成を待ちわびて、じっとベッドの横に腰かけている。
これにて一旦最後とします。ここまでお読みいただきありがとうございました!
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オラに元気を分けてくれ!