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25.ジャーファル

 アル=バンダーク。家名を復唱するディルガーム。大きく見開いた瞳はそのままに、怒気は風に吹かれて消えてしまった。アリーシャの相貌をつぶさに認める。そんなこと、あり得ない。自らに言い聞かせようとするが、何をどう見ても、最後に見たあの少女の顔と皆既日食から今日までの歳月はまろやかに融け合い、小さな画面の中で冷たく笑みを凍らせる美女の姿に帰結する。


「アリーシャ」


 少女の名を知ったのは、首領ヤフヤー・アル=バンダークの応接室に通されたときだった。祖父に呼ばれたアリーシャは、無重力感あるバランスで奇岩を積む手を止めて、しっかり「はい。お爺様」と返事をした。そんな些細な態度一つから、聡明さが表れた子だった。


「こちらはディルガームさん。これから大事なお話をするから、別のお部屋で遊べるかな?」


 アリーシャは初対面の大人にきちんと挨拶をし、積み石をきちんと仕舞ってから「ご本を読んでまいります」と言い残して、一礼と共に部屋を後にした。ディルガームはヤフヤーの孫へ素直な感想を述べ、当のヤフヤーはまんざらでもないながら謙遜する。


「何とも、お孫様の積み木はユニークでしたな」と、ディルガーム。


「ロックバランシングというそうでね。一目で業の冴えを伝える力は、中々どうして侮れません」


「一目瞭然の強み、ですか。あやかりたいものです」


 そのような当たり障りのない掴みから本題に入った。


 戦火を生き延び、植民地時代の様式を受け継ぐアル=バンダーク邸周辺には、同家の庇護を求め、人々が無許可で住居を構えるようになり、今や一大スラムを形成するに至っている。同家は惜しみなく自立支援へ家財を投じるも、その成果は微々たるものだった。


 そこへディルガームが提案するのは、一帯の再開発計画だった。


「目指すのは最先端技術の殿堂です」資料を広げ、ディルガームはヤフヤーに説明する。「世界最高クラスの教育・研究施設を導入します。この街の、いえ、この国の躍進の柱になるのは確実でしょう」


 ふむ、とヤフヤーは相槌を打ち、資料を手にした。老眼鏡をかけ、黙々と目を通す。品の良い部屋で紙をめくる音だけが安っぽく浮いていた。資料を持ちこんだディルガームもまた、自分自身が場違いに感じる。邸宅は門から玄関にかけて、噴水のある広大な庭園を有している。晴れの下、アル=バンダーク主催の炊き出しに門戸を開いた賑わいに混ざって、水の噴射音が応接室まで届いた。


 流れる時間も、呑む唾も、粘りつくようだ。


 ヤフヤーは紙束を机面に当ててまとめた。


「今の素封家からはそうそう出ないご意見だ。それだけでも有意義なご提案です」理知の光る声音だった。ディルガームは期待をにわかに膨らませ、背筋を正して返事をした。


 部屋を後にしたディルガームは、資料を手ずから破ろうとした。


 ヤフヤーは期待していたよりもずっと庶民派だった。


 例えば、ディルガームの計画によって、立ち退いた人々にどれだけの恩恵があるか尋ねたとき。立ち退き料の財源確保から、新居の斡旋、就職支援など、用意したプランをその通りに説明しようとしたが、ヤフヤーは途中で遮った。


「立ち退き自体に問題はないでしょう。元より我々は流離う民族なのだから、どこへ行こうとそれなりにやっていけます。損得が絡むなら尚のこと」


「おっしゃる通りです。それに、終戦より復興ムードは熱を持ったままです。鉄は熱いうちに打つべきでしょう」


 しかしね、と大儀そうに一息つくヤフヤー。


「折角知識を掻き集めたとて、それを人々に還元するには、教育基盤が弱すぎます。学校に通えている子どもが一体どれだけいるか、君にもわかるでしょう。通えている一握りにしても、教育水準は依然として低いままです。進学の問題もあります。糊口をしのぐのもままならず、我が家を頼る方々の最終学歴を尋ねて愕然としたものです」


「お言葉ですが、近視眼的なご意見かと。長く未来を見据えれば、列強と同水準の知識と技術の確保は喫緊の課題です。学力の平均値を上げるにも、まず目標となる知性を、国家を代表する知性を擁立しなければ、誰も追従しません」


「今のままでは、目標となるような人材すら育めないと申しておるのです」老眼鏡を外し、ヤフヤーは眉間を揉んだ。「ある困難に直面したとしましょう。我々は場当たり的に解決しがちだが、先進国は長い時間をかけて分析し、体系化を経て、汎用性のある解決策を創造しています。生活力は我々の強みではあります。しかし、先進性を支える根気強さからは国民性からしてかけ離れすぎています。これでは知識を掻き集めたところで、今の我々には宝の持ち腐れです。外国に便利に使い潰されるのは明白でしょう」


「義務教育実現への課題は山積していると理解しています。しかし、それでは世界から」見向きもされない。ヤフヤーから、ディルガームも。


「高みばかりを見ていては足元をすくわれましょうに。君はすぐ傍のことを、いささか疎かにする癖があるようです」閉口するディルガームに、ヤフヤーは諭す。「いや、誤解なきよう。君の意見は絶対に必要なものです。それは保証します。しかし、少し頭を冷やしてご覧なさい。君の理想は、民族の中で実を結んでこそでしょう。それを蔑ろにして何とします」


「かと言って、下々を気にかけるだけの金も時間もないのはご存知でしょう! 先進国の力を借りねば、抜本的な解決にはなりませんよ!」


「君、先進国は魔法の国ではない。人々の地力を育む余裕がなければ、プランは破綻してしまう」


「だからこそです! あらゆる資本をクファールに導く導線が、全て解決します!」


 ヤフヤーは溜め息をついた。眉間に寄せた皺に指を当て、項垂れたまま手を振った。


 今日のところはお引き取りください。と出口を開けられたのが、つい先刻のことだ。また案を聞かせて欲しい、人々のためになると判断したら必ず力になろう。それはヤフヤーなりの気遣いにしか聞こえなかった。


 大物に夢を理解されなかった腹立たしさを、書き上げた書類に向けた瞬間。横からその手を慌てて止められた。


「待て待て待て待て。こっぴどくやられたか、え? ディルガーム殿」


 その男もまた、アル=バンダーク家の者であった。彼は、気持ちの整理がつかないディルガームを横目に資料をかすめ取り、パラパラと目を通した。


「親父殿は頭が固い。こうやって」資料をパシパシと叩いて強調する。「世の中から一目置かれる工夫もなしで、地道なことも何も実現できる訳がないでしょうに」


 まるで聞いたように語る男へ、ディルガームは恥を見られた気になって、睨んだ。


「あいや、決して盗み聞きしたかった訳では。こっちも親父殿に色々と言いたいことがあるもんでね。わかるでしょう?」


「何の用ですか」軽薄な口調に、ディルガームはたまらず声を荒げた。


「まま、お疲れでしょう。お時間は?」ディルガームが腕時計をまくるや「場所を変えましょうや」とその腕を取り、男は強引に私室へ連れこんだ。


 男はアンティークチェストを探り、ボトルを出した。


「総督府時代の置き土産さ。屋敷を補修すると、こういうのがたまに見つかる」


 その洋酒の銘柄はディルガームも知っていた。しかし、現行のラベルに比べ大いに古めかしい。相当なヴィンテージである。


 澄んだ氷の浮かべた洋酒が振る舞われる。酒は経典に反する物である。忌避に見せかけて、ディルガームの遠慮は見え透いていた。


「おいおい、ハイヤームだって四行詩集(ルバイヤート)でしこたま飲んで(やって)たろ。違うか? 進んだ男にこそ、この一杯が似合うんじゃないか」


 たった一言で絆されるディルガームではなかったが、拒む手に握らされた杯をまさか床に落とす訳にもいかなかった。漂う氷が艶めかしく融け、水と酒精が濃密な対流を生んでいる。美酒を口で転がす男に見蕩れていると、手の中で氷がカランと揺れた。


 冷たい酒は舌に滑らかで、喉を下るに豹変して焼けるようだ。僅かに舐めただけでむせた。男は愉快そうに眺めて、それを肴にまた酒を含んだ。


「ヤフヤーは何もわかっちゃいない」酒がディルガームの口を軽くする。「あんなに悠長に構えては、いつまた余所者の好きにされてもおかしくない」


「そうそう、悠長のろま後の祭り、ハゲに床屋の優待券」と男は調子を合わせて頷いた。「まるで一旦、国ごと表舞台から姿を消すのが一番だと思っているようだ」


「馬鹿馬鹿しい! ソマリアではあるまいし!」


「そうだ、俺たちゃクファールっ子でい。クファール万歳!」


「クファール万歳!」


 勢いで掲げた杯を、何に捧げようかという話になった。


「親父殿の気の長さに?」


「気のクソ長さに!」ディルガームが同調する。


「老い先短さに」男はその杯と縁同士を合わせ、鳴らした。


 ディルガームも乗ったが、フレーズを口ずさむにつれて、酔いが醒める思いが募る。


「滅多なこと言うもんじゃない」


 悪心の澱から浮上したような妄想が浮かぶ。恐れ多くも身の程を弁えない考えだ。


「親父殿に退いていただく」


 ディルガームの杯を満たしながら、男は囁くように意図を汲んだ。


「そうなると喜ぶだろうなあ、ってお友達の顔がわんさか浮かんじまうのよ」


 注がれる琥珀色の酒の筋越しに、ディルガームは男の笑みを見た。大悪魔(シャイターン)が顕現すれば、このような姿なのだろう。


 ノックに驚き、なみなみ注がれた酒をこぼした。


「お父様」外から幼い少女、アリーシャの声がする。


「後になさい、アリーシャ」男は答えた。「パパ今、大事なお話をしているところだから」


「でも、お爺様が、富める者は施すべし、って」


 外の炊き出しの賑わいは、相変わらず室内に届いている。うんざり、という体で男は唸った。


「わかったよ。ディルガームおじ様とお話を済ませたらね」


 素直に納得した少女が去るのを聞き届け、見えぬ娘ににこやかに手を振る男は、その軽やかな足音が消えるや、元のうんざりした顔に影を濃くした。


「確か、ディルガーム殿のご子息と同じ年頃だったかな」


「ええ。甘えたで」ディルガームは苦笑した。「それに比べてご息女は、可愛らしいのにしっかりしている」


 酒瓶がディルガームをかすめる。男が投げた瓶は壁に当たり、瓶はけたたましく割れ、たっぷり残した中身で壁一面を塗り、床に残骸を撒いた。


 年代物の洋酒が台無しになった惨事にディルガームは慌てふためき青褪めつつも、いきなり激高した男に無言で問うた。


 男は、とても同じ酒を飲んだとは思えない、冷めた面構えだった。


「妾腹の娘だ。二度と褒めそやすな」


 固唾を呑んだディルガームをよそに、男はハッと粗相に気づいたようにして「あーあー、貴重な古酒が」とぼやき、気怠そうに立ち上がった。ディルガームの前を過ぎる際に「いやあ、お騒がせした。これ」とスキットルを「お詫び、同じの」と握らせる。


 破片を拾う男に「儂も」と立つディルガームだったが、男は「ゲストに尻拭いさせるほど落ちぶれちゃいないって」と制した。ガラス片が手の中に重なり、チリチリ鳴るにつれて、ディルガームは酔いが醒める思いに苛まれた。


「あれは――」男が背中を丸めたまま語る。「すっかり親父殿に懐いちゃって。可愛くないねえ。親父殿ってば、目先に餌を撒くのが上手いの何の。どっちが実父だかわかったもんじゃない」


 ディルガームはスキットルを強く握った。壁に広がる酒の跡は、丁度アリーシャの頭の高さほどのように見えた。


「ディルガーム殿。あれのような新しい世代の台頭は、こっちが思うよりも早い。それに悔しいことだが、親父殿はそういう草の根から人心を集める達人だ。あまり悠長なことでは、取り返しがつかなくなるような予感がしないもんかねえ」


 手中のスキットルが重い。ディルガームは杯を一気に飲み干し、結露の輪を残すテーブルに置いた。踵を返し、ドアノブに手をかける。


「小便か?」


「長居しすぎたようだ。もう行くよ」


「ああ、じゃあ渡したい物が」男はメモを走り書き、千切って差し出す。「直通の電話ね。いつでも来てくれ、ディルガーム殿。()()()は、あんたの仲間、いや、杯を交わした兄弟と思ってくれて構わない」


 わんさか浮かぶと言うお友達の顔ぶれに、コレクションされたような気がした。


 皆既日食の暗闇から我らの道は伸びて、男とディルガームたちが灯した炎の下に浮かび続けている。


『ジャーファル・アル=バンダークの居場所を謡いなさい』


 今、ディルガームの眼前で、火に焼かれたはずの亡霊が、罪を裁こうと化けて出ていた。


「あり得ない」ディルガームは慄いた。「あの子は、あの火事で」


『運命が生きよとお命じになりました。さあ、謡いなさい』


「儂は正しかった!」老人が狂乱し、咆える。「今のクファールを見ろ! 儂が望んだ姿ではないが見違えるほど立ち直った! それを阻んでいたのは他ならぬ貴様の祖父だ! 儂らがどのような覚悟で手を汚したか!」


『三下のようなアヤをおつけにならないで。息が臭っていてよ』


 リボルバーの銃口が後頭部を押す。ディルガームは声を奪われ、どうにかして口を開こうと渋面を七変化させた。


『ジャーファルは、どこにガラを隠していますの?』


 リボルバーの圧が強まる。慌てたディルガームの口をついたのは「知らない」だった。


『とぼけてらっしゃい』


「本当だ! 奴は巧みに息を潜めておる! 居場所など見当もつかん!」


『あれとは手を切ったと?』


 ディルガームは狼狽した。声を出せず、引きもせず、喉を際にして波打っているようだった。


 アリーシャは目を細めた。


『そのリボルバー、時代遅れの銃をディヤーブが持っていたご事情、おわかりですか?』


「し、知るかそんな……」


『気に食わない者同士で、ロシアンルーレットをさせるためです。己に楯突く愚か者が憔悴していく様子が何よりも見物だとか、得意になっていました』


 親子でしょう。そんなことすら知らないのですか。アリーシャの声から興が失せていく。何重にも包まれたおどろおどろしい封印を剥がすにつれ、その正体が陳腐であったかのような。しかし、その皆既日食の瞳はディルガームをつぶさに観察するにつれ、気が変わっていくようだ。


 喜色を隠しきれず、失笑した。


『ですが中々……貴方のそのザマ! やっとあの男に共感できました』


 路地裏に高笑いが響く。涙を浮かべ、腹がよじれるアリーシャは、むせ返るまで笑いが落ち着かなかった。


「この魔女め!」


 ディルガームの精一杯の悪態も『魔女で結構』で済ませてしまう。


『私たちの犠牲の上に立つ繁栄。貴方がたがそれを謳歌してもよろしいのでしたら、私たちは繁栄を燃やしてワルプルギスの灯りとしましょう。その前で、魔女(私たち)が暗夜を踊り明かすのも道理ですわ』


「恥を知れ小娘! 神は全てを見ておられる! 貴様らは必ず地獄に……!」


『土の上で溺れたご経験は?』


「……な」


 不可解が不可解の体を成す前に、ディルガームのタマが延髄から弾けた。血がスマホ画面に飛散する。息子の遺品のリボルバーから硝煙は、魂の道標の如く、白く、細く、日の沈んだ街から昇って、消えていった。


 クラクションが、残響を上塗りするように鳴る。


「何今の銃声」


 色々身に降りかかって麻痺した様子のターイウが、バハドゥルを連れて帰って来た。イムティヤーズと、足蹴にされた遺体を目の当たりにする。表情を、存在を限りなく無に寄せて、その脇を通り過ぎ、ラハイの乗る自動車へ急いだ。


『イムちゃんお疲れ様』血の帳が画面を伝い落ち、アリーシャが見えた。『もう帰れそう?』


 ラハイはずっと待っている。急げ、と身振りがうるさい。


「ワキガ野郎の誠意次第」


 イムティヤーズは、ラハイに見えるようにキャッシュカードをまとめてアルミホイルに封印した。それに銃を向けてる。


「おいおいおい何を!」


 カード束を身体で遮り、狙いを外して自前の銃を絞った。意味が不明瞭な声でラハイが喚く。人の苦労が水の泡だ、というのがギリギリ理解できた。


「位置情報、カードから割れてっぞ」


 イムティヤーズが言うが早いか、ラハイは服のあちこちに隠したキャッシュカードをおひねりだとばかりに投げ寄越した。拾い、「これで全部だな?」「追われても守れないからな?」と負傷した肩を叩いて念を押す。ふんふんラハイは頷いた。


 アルミホイル巻きをもう一束こしらえる。車に向かうイムティヤーズに「撃たないのか」とラハイが尋ねた。イムティヤーズは悪びれず「ああでもしねえと素直に全部出すか怪しいんでね」と無事なアルミホイル巻きを二束見せた。


「何だよ。俺とアリーシャの言うこと鵜呑みにできたか? ええ? こっちはマジで追われたくねンだわ。必死にもなンだろ」


 サイレンの遠鳴りが集まる気配がした。「このことは後回しだ」と憎々し気にラハイが吐き捨て、イムティヤーズは略奪した自動車に駆けこんだ。ホテルの場所をラハイに伝え、シートに身体を預けて休む。美味くもない薬が肺に染みた。


「で、これからどうする」


 ラハイとイムティヤーズの声が被った。バックミラーを介して二人の目が合う。イムティヤーズはスマホを指してラハイを黙らせた。通話中のアリーシャが『どうかした?』と尋ねるのを、イムティヤーズは適当に誤魔化した。


『残高を確かめて、すぐ分け前を決めましょ♪』


「へえ。アルミの外に出した途端位置がバレるってのはやっぱり嘘だったと?」


「って、ワキガラムマサラが言ってっけど」


「ラーハーイー!」


『銀行も店舗番号も口座番号も暗証番号も全部覚えています。対応するアプリで残高を調べれば一発です』


「嘘つけ。そんな暇どこにも」


『一目でトランプの順番を覚えるのと同じです』


「……ああ。ふーん。へー。すげえ説得力」


「おい待て」ラハイとアリーシャの応酬にイムティヤーズが割りこんだ。「じゃあ何だ? 報酬を盗られたっつー話は嘘だったのか? あ?」


 スマホの画面一杯に鬼気迫るイムティヤーズの顔に、アリーシャは一つ空咳をした。不意にイムティヤーズは口を塞がれた気になった。


『だって、そうでも言わなきゃイムちゃん、梃子でも動かなかったでしょ』


 また空咳。アリーシャはズルい。余計なことを話して喉を酷使したくないと、これ見よがしに。イムティヤーズは胸がムカついたが、吸入器を握るだけで口元に持っていきすらできなかった。


 ラハイーー何がアリーシャを気にかけさせるのか知らないが、運転を預けていなかったらボコボコにしているところだ。


『さて。お金は私の手の内、であれば、貴方が私に差し向けたのは純粋な拒絶しか残りません。私、残念で残念で……』


 その気になればラハイたちを見捨てて、カードの中身を残らず抜くことができた。キャッシュカードを手中に収めるアドバンテージなど最初から存在せず、結果的にラハイたちは、手負いとはいえアリーシャを凌ぐ狂犬を傍に招いたことになる。


 それをアリーシャは『残念だったので、イムティヤーズを遣わしたのは、純粋に厚意からですわ』などと平然とうそぶいている。


 カジノが現金渡しでなかった時点で、裏切りの線は潰えていたのだ。


「……あー参った! もう降参! 知ーらね知らね! もう好きにしてちょうだい!」


『承知しましたわ。お越しになるまで、こちらで口座の連携を進めておきましょう』


 この短時間に事故、事件の多発した一帯を大きく迂回して戻る。その後ろを無人のバイクと、グリップに結ばれたハズレ券を追うラクダが続いて、危険が去るのを隠れ待つ街の寂れた道を走り抜けて行く。


 ラハイが白い上着を、後ろのイムティヤーズの顔に投げた。


「ホテルの人にその傷は見せられないでしょ。それで隠しなよ。白くて目立つから工夫するんだよ」


「袖通すンも面倒なんだけど」


 ホテルに帰る。さしものドアアテンダントも、ラクダを預かったのは初めてだった。

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オラに元気を分けてくれ!

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