22.追跡
エレベーターが途中で止まる。開く扉の先に見た者に、イムティヤーズは眉間にしわを寄せた。昨晩一緒になった老人と護衛だ。
「また君か。ご一緒するよ」
老人たちは答えを待たなかった。三人が黙然と、閉ざされた扉に向いている。静寂。エレベーターの駆動音のみが尾を引いている。前回が目にも耳にも饒舌だっただけに、沈黙が重く、膜のようにまとわりついた。
口を開いたのは、老人からだった。
「喜びと理想は車の両輪、と言ったのを覚えているかね」
表情険しく、イムティヤーズは黙する。老人を背中側から見ると、昨日と違って髪色相応に衰えた姿に見えた。問いの返しがなかった。老人は気にかけない。
「もっと早くあの問答をしたかったよ」
沈鬱な響きが後を引く。降下するエレベーターに、一匹狼の遠吠えめいた駆動音が白糸の垂の水のように細く、三者の耳を滑り落ちていく。
「あんな答え、そこら中に掃いて捨てるほどある」たっぷり溜めた後、イムティヤーズは応えた。「あんたが、気づこうとしなかっただけだ」
鞄一杯の札束が、奪うしか知らなかったせいで奪われた富が、脳裡をよぎった。
「じゃなけりゃ、見て見ぬ振りをしたかだ」
閉口する。
一階に到着し、老人に先を譲られた。
「二人目は、八枚目」
去り際にイムティヤーズが老人に告げる。謎めいた耳当たりだった。「辛気臭え野郎は嫌いなんだよ」その疑念へ忍び寄るように、去る背中が「ラッキーナンバーだ」と言い残した。
● ●
クラクションがけたたましく走り抜ける。走る車間を縫って、男二人を乗せたラクダが蛇行していた。速度は時速四十、五十キロの間を行き来している。自動車よりも遅い。しかし、俯瞰した交通状況から最適な抜け道を選べる視点の高さ、そしてバイク並に小回りの利く走行性能は、自動車に勝っている。
信号で止まる車両を尻目に、ラクダは我が物顔で交差点へ侵入する。信号無視するラクダへ驚愕するドライバーたちの心境を、クラクションと急ブレーキの大合唱が代弁する。
持てるアドバンテージを活かす手綱捌きは、ラハイの腕である。
「ハッハー! そうだ走れバハドゥル! 風のように!」
「カウボーイ気取りか、ラクダオヤジ」ラハイに手足でしがみつくターイウが啖呵を切った。
「僕あまだ二十代だい!」
「男二人乗せた落第競争駝で逃げられるとでも」
「当たり前だ! この子にはねえ、他のラクダにゃねえ勇気があんだっつーのよ!」
「親馬鹿がよお」
二人が荒らしたトラックは、ディヤーブが競り落としたラクダを輸送するためのものだった。ディヤーブにとっての汚点、掴まされた偽物は、ラハイには手塩にかけたバハドゥルである。確かにバハドゥルは競争向きではない。それは育てたラハイが一番良く知っている。だから送り出すならせめて、不相応でも貫録を与えてやろうと、鞍から手綱まで化粧装具でめかしてやったのだ。
ラクダを人目につかせたくないため、目の届く場所に秘匿したディヤーブ。そこにラハイの思い入れが重なってもたらされた僥倖であった。
ただし、二人分の鞍までは用意できなかった。競駝騎手は軽量化に傾倒するあまりに子どもが主役を務めた時代もあったし、今に至っては極小のロボットが代役を務める始末である。大人二人分の重量を乗せて、レース時の速力を発揮できようもなかった。
脚の遅さを補うためにちょっとばかり無茶な乗駝が続いている。ただでさえ跨れる鞍のないターイウには苦痛の一言であった。また信号を無視する。
「お世辞にもマナーがなってるとは言えんね、お宅の愛息子さん」
「愛娘だよ! 二度と間違えるな!」
「そりゃすまんな。親が勘違いしてなきゃつけそうもない名前だったからよ」
「言いっこなしでしょうよ! それは!」
間もなく次の交差点に差しかかる。信号は青、言い合う二人と一頭の前に、停止中の車両の群を分けて一台、横から立ち塞がった。窓から銃、銃、半身を屋根上に出して銃を構える男二人。目が合うラハイたちが悲鳴を上げる。
ラクダの先を行く車両が、次々と横っ腹に衝突していく。スクラップ団子となった自動車を避けて、ラクダは交通規則を守って走り去る。団子から人が大急ぎで抜け出した直後、一台残らず事故車両は爆発炎上した。
「訂正する。今日はみんな、マナーがなっちゃいない」と、呆然と後ろを見つめるターイウが零した。
「ほらね! 速けりゃ良いってもんじゃないのよ! 急がば回れ、さしずめ、ラクダは無理せず真っ直ぐにってことだねえ!」
「落ち着け」ラハイの頭を叩いた拍子に、中折れ帽が風に飛ばされて行く。
今度は後方からバイクが接近する。ライダーはホルスターから銃を抜き、帽子のことで揉める二人に狙いを定め、帽子が顔面に圧着したかと思えばバイクのコントロールを失い、転倒。火花を散らして車体が道路を滑る。避けようとした後続車両が列を乱し、玉突き事故が続発。事実上道路を封鎖、酷い交通渋滞を誘発した。
二人は呆気に取られながらラクダに揺られる。ほぼブーイングの意でしかないクラクション地獄が遠ざかっていく。
いや、ブーイングが止んでいく。
後処理に頭が痛くなるような車両製のダムを、オフロード車が性能任せにこじ開けた。一台、二台と後続し、交差道路からも似たような荒い運転の自動車が合流する。対向車もUターンし、ラクダを追跡する。
ラハイたちの背後一面、追跡車両だ。その先頭組が、窓からあるだけ銃器で狙いすましている。
「ディヤーブの仇討ちにしちゃ早くないかい!?」
乾いた発砲が、アドリブめいてざっくばらんなリズムを刻む。ラハイたちは姿勢を低くし、ラクダを蛇行させ、一般車両を盾にしつつ逃走した。角を曲がる。中道に入る。網の目のような街を最大限に活用するも逃げる余裕はなく、ただ生存にしがみつくのみだった。
追跡車両の乗員の一人が、ディルガームと通話回線を開く。
「獲物を追跡中です。速やかに処分します」
『誘導、挟撃の手配は』
「前進しかさせません。空港近辺に別動隊を配置、臨機応変に対処できます」
『息子の仇だ。死んでも逃がすな。儂が着くまでに始末した者には最低でも島一つやる。あらゆる貢献に報奨もやる。ただし、ヘマ踏んだ野郎は全員砂漠で迷うと思え』
「良い結果をお持ちします」
通話を切る。護衛の運転でラハイたちを追うディルガームは、渋面にして後部座席で自動小銃へマガジンを装着する。空席や足元にも、予備の銃身やマガジンが転がっている。
「ラクダで逃げているそうだ。どこまでも儂を愚弄しおって」
「あちこちで事故を起こしています。もう、カーナビの渋滞情報で追えますよ」
リアルタイムで交通状況を表示するスマホアプリからでも同様に推測できた。ハンドルに装着したホルダーから現状を把握したイムティヤーズは、呆れる護衛に応えた訳ではないが「つまりてめえらの案内はここまでってこったな」と、アクセルを回して車両の横についた。自動拳銃を抜き、引き金に指をかける。
窓越しに、ディルガームと目が合った。
● ◯
――ディルガームが同じホテルに宿泊している。イムティヤーズと同じエレベーターに乗った。
その情報は、ラハイを捕まえる前に爺やからアリーシャへ、カジノ帰りにアリーシャからイムティヤーズへ、情報化の加速に逆行するかのような鈍足さで伝わった。
最初の獲物はアル=バウワーブと決めていたアリーシャをして塞翁が馬であった。ディヤーブがラクダの落札を揉み消すため、一家内の情報を統制するのは予想できた。ボスである父、ディルガームは特に状況から隔離したいだろう。しかし、まさか同じホテルに泊まるとは計画外だ。ディヤーブのバカさ加減に眩暈を覚えた。いや、いっそ言い切ってしまおう。あのファザコンめ。
それでも、急に鼻先に吊るされたご馳走には違いない。だが、あれの命はホテルに、つまり表社会に守られている。事を起こせば嫌でも人目を引く。イムティヤーズと一緒の生活を棒に振るくらいなら、仇敵を見逃す方がましだ。
一抹の不安を抱えながら、アリーシャはカジノで計画を実行した。気が散っている自覚はあった。自覚があったから、不安を手懐けられた。イムティヤーズに示しをつけられる自分でありたかったから。
それを、あのドラ息子が踏みにじったのだ。
だから、弾みで殺してしまった。大本命を友釣りするため、生かしておく予定だったにもかかわらず、一時の感情に任せてしまった。
不可抗力だ。状況に則した判断だった。自分に言い聞かせて納得しかけた折に、ラハイたちの逃亡とキャッシュカードの細工である。頭を掻き毟りたくなるが、そうしたところで傷口が広がるだけだ。お情け、あるいは餞別のキャッシュカードの残高すら、アリーシャの手緩さを嘲っている気がした。
思わず両替機に向かって拳を上げる。
瞬間、指先で冷えた血が、予定外と失敗とが重なって生じた亀裂に注がれ、穴の底からピースが浮かんで来た。ディルガームの顔が浮かぶ。このピースが、計画の綻びにぴったりはまったような気がした。
アリーシャは脳が髄からクリアになる感覚を追った。
“命を賭ける”ことを、“タマを張る”と言い換える歪な組織が極道である。一家の根幹を揺るがす大事――家長のボンが殺されるなど――があればカチコミに発展する。ボスの求心力が試される局面だ。後方で安穏と座していれば、身内にも他所にも舐められる。特に一家内の勢力図がガラッと変わる今回は、読み誤れば内部分裂、勢力争い、抗争に転落しかねない鉄火場であった。
今が良くても後が釣り合わない。ディルガームは前線に出る。
つまり、ディルガームを泳がせれば、ラハイたちの居場所もわかって一家にも打撃を与えらえる。千載一遇の好機が訪れる。
アリーシャは運命からの接吻を感じた。
◯ ●
「一回休み。頭冷やしな」息子が働きすぎっつったんだろ。
片輪を前後共に撃つ。バーストしたタイヤが抵抗を生み、車両は急激に減速。ハンドルを取られ大きく三度蛇行した後、ディルガームの車は盛大に横転した。
車中で予備のマガジンに揉まれたディルガームの額から血が流れる。天井となったドアから上体を出すも、既にイムティヤーズは姿を晦ませていた。
「クソォッ!!」
車体に拳骨を叩きつけ、直前に通話していた部下を呼び出す。
「襲撃だ。車がやられた。頭の先からケツの穴まで真っ黒な、タッパのある女だ! 屁みてえに吹かすバイクに跨った女を追え! こっちに一台寄越せ今すぐ!」
この連絡を受けて、ラハイ追跡班で動揺が二色に別れて広がった。親ディヤーブ派と、それ以外の派閥である。親ディヤーブ派の車内が騒然とする。
「兄貴を殺りやがったアマだ! 引き返せ! ぶっ殺してやる!」助手席が運転席へ言う。
「眠てえことほざきやがって! どこ転がすかもわかんねえバイク一台をどう探すんだよ! それよか若頭の仇が目の前ちんたら走ってんだぞ!」
「知るか! 腑抜けの七光りカスなんざ遅かれ早かれ!」
「上等だ! この恩知らずを降ろせ!」
「降りるのはてめえだ!」
後部座席の二人が示し合わせて、運転手を引き摺りこむ。助手席に運転を代わるよう指示し、そのまま元運転手は後部ドアから捨てられた。
結果は違うが、似たような諍いが半数近くの車両で勃発した。
ここ二日だけでアル=バウワーブ一家親ディヤーブ派は極度の緊張を強いる事態に晒され続けてきた。同じ派閥に属したところで、共感、縁故、利害など、組員たちの間で所属する動機の差異は今や浮き彫りとなっている。一家全体の問題としてラクダを追うか、兄弟の恨みを晴らす道に帰るか。車一台ごとに対立が激化し、同乗者間でディヤーブへの信奉度合いに差があればあるほど足並みは乱れていった。
ある一台は襲撃者を取り、ある一台はラクダを追う。綺麗に方針を定めた車両はごく僅かで、残りは少数派を無理矢理下車させ、主導権を握った。あるいは事故を起こして離脱する。
他派閥からも襲撃者への対応に向かうという声もあったが、これを親ディヤーブ派が拒否。ラハイ追跡班の実に四分の一が離脱したが、事故で走行不能となった車両を除けば、全体の一割に満たない数まで減らしていた。
薄くなった弾幕に、ラハイがおっかなびっくり後ろを窺った。
「何だよ、仲間割れ!? 何がどうなってんのもう!」
目と鼻の先に鉛弾がよぎり、襟を正して逃亡に臨んだ。
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オラに元気を分けてくれ!