20.優れたる子
◯ ●
最初に殺してから、少女は独学で腕を磨いた。人殺しにだけ注目すれば、ゴミ山の環境は独創性を育む宝の山であった。ガラス片の屹立する落とし穴を掘る。リチウム蓄電池に釘を打って破裂させる。ピアノ線や釣り糸で作った罠で身動きを封じる。不法投棄された酸を浴びせて殺したこともあるし、その辺のゴミと反応させて毒ガスを撒いたことだってある。道具を使った応用力では、同じ年頃の間では抜きんでていた自負があった。
その子どもの機嫌を損ねれば死ぬ――噂が広がるにつれ、外の大人が尋ねて来るようになった。
思い返せば、野良の鳥獣の餌づけも同然だった。温かい餌に釣られて巣穴を出て、わざわざ餌を口から遠いところに持っているこの野郎は何だと訝しみ、隙だらけだから奪い、巣穴に戻って一心不乱に貪った。
食べたものが何だったのか覚えていない。ただ、信じられないくらいに、美味かった。
「もっと欲しいか」穴の外から声がする。「なら、依頼を受けろ」
堆積したゴミの穴蔵は暗闇に閉ざされて、出入り口が唯一の光のように中の少女を照らしている。黒肌は闇に溶けて浮かばず、二点の白眼がその存在を示すのみ。唯一の光は差し伸べられた手で塞がれて、邪魔に感じた少女は手を伸ばした。それが同意を意味するかどうかなど、知ったことではない。外に出たところで穴蔵よりマシな程度。少女にとっては、この暗闇の延長に過ぎなかった。
実際にゴミ山は常に化学火災の発煙で薄暗く、街中もビル、路地裏、ゴミ箱、下水道網に続くマンホール、人混みの足元など、陰差す場所に事欠かない。依頼人に連れられる道すがら隅々まで嗅ぎ回ったのは、興味本位というよりかは、ゴミ山流の方法で新しい環境に順応するためだった。
いつか想像した、収集車が来なくなったゴミ山。街はその具現だと思った。武器と罠の材料が少なすぎる。それを察してか、それとも最初から少女流のやり方を当てにしていなかったのか、彼らは彼女に武器を提供した。
初めてまともなナイフを握った。銃の使い方も習った。
初めて街中で人を殺した。場当たり的だと環境を利用しづらかったが、事前に準備すれば概ねゴミ山と同じようにこなせた。健康不良の子どもだと侮らせ、ゴミ袋(このときは花束)に紛れさせた武器で標的を始末し、追っ手の足止めはゴミの撒菱で。フェンスの穴、下水道を通り、ゴミ箱に身を隠す。子どもならではの狭小な逃走経路を使って完遂だ。
常に勝てば、死なない。
死なないための手段、その選択肢が、各段に増えた。
最初の依頼の達成を祝う前に、風呂にぶちこまれた。茹でられると思って滅茶苦茶に抵抗して、結局、桶に石鹸水を溜めて、少しずつ身体を拭かれた。臭いだの、汚れが落ちないだの、身体を好き勝手されながら言われるのは不服だったが、大人しくしていれば早く食事にありつけると言われたので我慢した。汚れでなく、肌が異常に黒いだけだとわかったのは、しばらく身を清めてからだった。
連れて行かれたレストランは、何だか寂しい内観だった。無駄がないというか、不自然に物を没収している感じがして居心地が悪い。今にして思えば高級店相応の調度品ばかりだったのだが、少女にとって等級は未知の概念である。席に座ったときなどカトラリーが武器にしか見えず、殺し合いが始まるのではと身構えたほどだ。が、一旦食事が運ばれて来れば、この店内は料理と少女だけのものとなり、傍目があることなど意に介さず、皿にかぶりついては色々こぼし、手づかみで次々と口に放りこみ、テーブルクロスで気持ち悪いソースを拭いた。
依頼人は少女を懐柔するつもりだったのかもしれない。食事の他に金も渡し、街中での巣穴も提供してくれた。ずっと大人が見張っているせいで窮屈な思いをしたが、広い部屋にちゃんとした寝床、それに明かりも好きなだけ使える。どこかから外気とは違う温度の風が吹く。少なくとも、ゴミ山よりも居心地は良い場所だった。他に大量の紙切れを受け取ったが、こんな物、ゴミ山でも屑中の屑でしかないのは常識だ。依頼人たちはそれを金だと呼んだが、少女の学のなさを嘲る冗談にしか聞こえなかった。少女にとってこの棲み処こそ破格の報酬であり、オマケで渡された紙など取るに足らない物にしか見えなかったのだ。
そのようなすれ違いが重なったせいか、依頼人はすぐに少女を持て余した。
少女は、街中でもゴミ山と同じように生きた。窃盗、恐喝、器物破損、不法侵入……突発的な感情が起こし得る犯罪は全て経験したし、その全てに殺人、または傷害の修辞がついた。金を払えば良いと説明を受けたが、少女の知る金とは硬貨である。何故、なけなしの貴重品をそう気安く払えと言えるのか、神経を疑った。大体、盗んだ物はどれも少女の全財産を軽く上回る額である。それに手放すくらいなら、暴力で欲しい物を獲る方が良いに決まっている。
一度、ショーウインドウを割って盗んだ人形が、ガラス片に引っ掛かって裂けてしまったことだけは、自分の短慮を後悔した。
何回か殺しの依頼をこなした帰りのこと。少女は部屋に入れなかった。鍵が合わない。すぐ依頼主に説明を求めた。が、「もう充分働いてもらった。元の生活に戻るだけなら簡単だろう」と言い渡され、紙切れのギッシリ詰まったバッグを押しつけられて、それっきり門前払いされた。
まあ、確かに。でもこれ、邪魔だな。手放す理由もないけど。
以降、殺人依頼は、依頼人が直接ゴミ山まで訪ねるか、初代依頼人が仲介人として紹介するかのどちらかになった。ゴミ山で生活していること以外は、街で生活しているのと変わらない。仕事をして、報酬に飯を奢らせ、紙切れを受け取り、巣穴に貯めるばかりで使わない。バッグの口はいつしか閉まらなくなった。相変わらず金はゴミ拾いで稼ぐ日々であるが、この金も使わなくなった。覚えた味や娯楽を求めて街に出ては、盗み、奪う。少女は少女でいられる時間の半分を、汚い殺しとケチな犯罪に費やした。
マンネリな日々でたった一日だけ、世界が引っくり返るような光景を目の当たりにした。
太陽が欠けていく――クファールで皆既日食が観測された日だ。太陽は昼間に燦然と輝いていて当然のものだ。それが欠けていき、遂には夜にも等しい闇に閉ざされていく。空が黒に閉ざされていく中で、少女の心はさざめき立った。さざめきの形は意味を成し、世界の終わりの予感となった。少女の手では届きようもない、大いなる運行が終焉を迎える。それは、最初の人形を失った日に受けた乱暴が霞む天災であった。少女が恐れて、にもかかわらず胸が高鳴る。
こんなの、誰にも、どうしようもできねえ。じゃあ、仲良く道連れじゃねえか。
結局、少女の期待を裏切って、白昼の夜はすぐに明けた。再び太陽が目も眩む光を取り戻すと、空を見上げていた少女は眩しさに目を閉じ、天を睨みつけた。
「何だよ! 終われよ! 終われよお!」
ゴミに地団駄を踏む。ガサガサと耳障りな音を立て、足の甲に乗ったクズが舞う。自分の本心を認めたくなかった。
啓きゆく天の瞳は語る。
あれだけ形振り構わず生にしがみついておきながら、その実は一人ぼっちのまま終わるのが怖かっただけ。お前は、この世に未練がないことに未練がある。わかっただろう。この世の全てがお前と心中しない限り、お前は永遠に孤独を癒せないのだ。
癇癪のまま暴れた。暴れて、暴れて、暴れ疲れて、息が上がると、少しだけ咳をついた。身体を動かせば腹が減るし、腹が減るなら食い繋がなければならない。食えば死なない。勝てば死なない。死にさえしなければ、俺は独りでも平気だ。平気なんだ。
ある日もまた、依頼が舞いこんだ。
初めて失敗した依頼だった。
妙に咳が続くと思っていたが、標的を始末する直前に、いきなり咳が止まらなくなった。肺に空気が残っていようものなら全て吐いてしまう勢いで、いきなり水底に瞬間移動したかと錯覚するほどの息苦しさに襲われた。間が悪いことに得物を出した瞬間のことで、標的の付き人が認めるや、少女は袋叩きに遭った。得物を持つ手を踏みにじられ、あわや手放すところだった。
ほんの束の間、息が落ち着く。少女は得物をもう片方の手で握り、腕を踏む汚い脚に突き刺した。刺された者はもとより、直前まで勢いづいていた連中も怖気て飛び退く。その隙を逃さず、少女はぜいぜい息を荒げながら、尻尾を巻いて逃げるしかなかった。
意識を取り戻すと、下水道の中で横たわっていた。マンホールから外に出ると夜も更けて、自分がどれだけ気を失っていたかもわからない。ただ、胸に重く溜まるような咳と打撲の痛みだけが、依頼失敗の傷を刻んでいる。重い身体を引き摺って帰路に就く。咳が止まらない。街の誰もが少女をいない者として扱うか、たまに同情するかのように一瞥をくれて、そのまま通りすぎた。
呼吸が限界になる度に建物の影に隠れて、落ち着くのを待つ。建物の関係者と出くわすこともあった。そういう連中は大抵、少女から痛い目に遭った者で、少女が弱っていると見るや、喜んで仕返しをしてきた。ゴミ箱を頭上で返され、気の済むまで蹴られ、笑い者にされた。
悔しかった。因果応報など、知ったことではなかった。唯一、巣穴に戻ることだけを考えるようにした。
巣穴に帰ってから、ゴミと金に埋もれるようにして眠りたかった。しかし、咳は重く、少女に安らぎを許さない。眠れぬまま、巣穴に差す日の出を拝む。
依頼はもう、受けないことにした。誰が来ても居留守を使った。咳が厄介だったが、穴の奥でゴミに頭を突っこんで息を殺してさえいれば、真っ黒な少女は穴蔵の闇に溶け、誰にも視認できなかった。そのせいで症状が重篤になっていくとは思えなかった。
これまで庭どころか我が家のように生活し、むしろ実際我が家であるゴミ山が、まるで別世界に見えた。街中でもリンチされたのだ。少女が弱っているところは誰にも見せられない。ゴミは、住民が去った後の残りしか漁れない。それで大した収穫になるはずもなく、暮らしは急激に困窮し、しかし細々とは杭繋げたので、徒に命が伸びるに伴って体調は更に悪化した。
寝床で横になりながら、パンパンのバッグが目に留まった。そうだ、金だ。依頼人は皆、これを金だと言っていた。一度も試す気が起きなかったのが今となっては不思議なくらいだが、ともあれ金を使えば何でも買える。街に出て――おととい来やがれ。と、言われるのは明らかだった。
「くっ……そお、ぅゴホッ! ゴホッゴホッ! カホッ! ゲェッ!!」
ならば、と閃いた。ゴミ山の住民を捕まえて、代わりに買わせる。中抜きされても構わない。どうせ相場などわからないのだ。この紙切れが役立つ内は使わない手はない。
少女は焦っていた。いよいよ死の間際がチラついて、やっと思いついた買い物代行だ。甘く見ていたのだろう。少女自身がどんな意味で恐れられていたのかを。また、ゴミ山の住民の欲深さと狡猾さを。
金を持っている上に弱っていることが知れ渡り、身ぐるみを剥がされた。少女の肢体はボロ切れのようにされるがままで、大人に押さえつけられて抵抗もできない。巣穴からこれまでの稼ぎを持ち出されるのをただ見守った。そうすれば、男たちが少女の身体の奥の、生まれてから備わっていたであろう、少女が知るには早い財産を奪う行為から、それを上回る空しさと悔しさで気を紛らわせることができた。
再び夜が更けて、咳で気を取り戻した。ゴミの占める野外で、少女は裸で星空を見上げていた。全身が痛い。胸の奥も。腹の奥も。背の奥も。何故か少しだけ、腹の足しになっていた。呆然と眺める夜空は、ゴミ山の化学火災が出す煙で陰り、星々は今にも落涙せんが如く瞬いている。
寒い。
ずる、ずる、と、まるでナメクジのように這って、少女は巣穴に潜った。息は出るばかりで、吸えているのかもわからない。足に力が入らず、意識は朦朧としたままだ。それでも少女には、まだ心の落ち着く場所が、ちゃんと残されていた。
穴の奥にゆったりと背を預け、入り口から差す燐光に目を細める。何も思わない。何故だかそうしていると、安らかだった。外で屍食の鳥たちが鳴いている。
ふと、穴の中をネコが覗いた。ネコは焚き火のような赤毛で、少女の目を通して、命の揺らぎを感知している様子だった。お前、俺を食う気か。嫌だなあ。けど、鳥に食われるよりか、良いかもなあ。
目前で待ち構える無情を、せめて薄幸と思いたかった。どちらにせよ不幸だが、少女には後者の方が上等な気がした。その考えを察知してか、ネコはプイと踵を返し、どこかへと去ってしまった。待って。置いて行かないで。別れの寂しさを表現することすら、もうできなかった。
「も~、待って~、ネコちゃ~ん」
自分の声にしては呑気に響いた。ゴミ山に似合わない浮ついた、芯の抜けた声色だ。声は外から聞こえた。ゴミを踏み上る足音が穴に近づいて来る。ふと、何者かが、あの日に太陽の前を通った月のように、夜の燐光を遮り、過り、また戻った。
背格好からして、外の少女。年かさは、自分と同じか、もっと幼い。
「こんなところにいた~」
咄嗟に目を瞑り、息を殺した。誰だか知らないが、きっと、弱ったことを聞きつけて復讐に来た誰かに違いない。しかし、ゴミ山の連中ならいざ知らず、外から来た人間に、闇に溶けた彼女を見分けることなど――。
こんなところにいた。と、言わなかったか。
「大丈夫よ。そこにいるのは、ちゃんとわかるわ」考えを見透かしたように少女は言う。「怖がらないで。初めまして。私、アリーシャ・サアドゥーンって言うの。貴女、赤猫でしょ?」
赤猫は居留守を決めた。きっと、カマをかけているだけだ。そうに決まっている。
「貴女に仕事を頼みたいの」
赤猫の見立てに反して、その身なりの綺麗な少女、アリーシャは、ゴミにまみれるのも厭わず、ざくざくと穴を降りて来る。「私の家族を殺した奴らを、皆殺しにして」まるで二人の間で話が決まったかのように、年端もいかぬ少女に似合わない取引が進む。
「貴女、赤猫っていうか、黒猫よね」
柔らかな手が、漆黒の肌に触れる。柔らかく、包むように温かい。
「貴女、死ぬの?」
「……死ね」隙間風よりも微かな声で、血を吐くような咳が出た。
「良かった。まだ生きてるわ。神様が貴女を生かしてくれたのね。やっぱり、この出会いは運命なんだわ」
こいつ、頭おかしいのか。間髪入れず、アリーシャはその疑問を潰すように続ける。
「私もね、お胸が悪いの」可愛らしいポシェットから、吸入器を出して見せた。「時々ね、こうやって」息を吐き、吸入器を口に咥え、ボタンを押すと同時に深く吸う。「お薬を吸わないとね、お咳が止まらなくなって、苦しい、苦しい、ってなっちゃうの」
だから、どうしたってんだよ。もう声にも出なかったが、ゴミ溜めの少女は怒りを抱いた。俺に、てめえがどれだけ恵まれているか、見せつけて、満足かよ。
「だから、お胸の悪い子どもの殺し屋さんのことを聞いて、私、運命を試したくなったの」
そんな噂が広がっているとは思えなかった。赤猫は最後の依頼を咳がもとで失敗して以来、表舞台を去ったのだ。流れたとしても些細な憶測、噂の類。だが、それでもアリーシャは確かな情報を掴んだのは、赤猫の目の前に彼女がいることが証明している。
アリーシャが吸入口を少女の方に向けた。闇に一本線を引いて開かれた薄目に、星の光が灯る。
「このお薬、病気に合っていないと効かないの。だからね、貴女が吸ってお胸が楽になれば、それは神様が貴女に生きろ、っておっしゃったからなのよ。そしてね、私の手足になって、悪い奴らを全員ぶっ殺して。それが運命。神様が私の復讐を、聖戦とお認めになった証」
少女は囁いた。静かな穴の底であって、顔を向き合っていても聞こえないほど幽かな声で。アリーシャは少女を優しく抱くようにして、耳を近づけた。
お断りだ。クソガキ。
今更、こんなクソッ垂れな世界で生きたいだなんて思えなかった。常に勝てば死なない。裏を返せば、一度でも負ければ死ぬ。戦いに勝てる力を失くした自分に、この世界で生きる資格など、ある訳がない。
信じられないことを耳にした顔で、アリーシャは赤猫の頭をしゃんと座らせる。目と目を合わせる。
「死んじゃうんだよ?」
もう良い。
「生きるチャンスなんだよ?」
生まれたのが間違いだった。
「貴女なんか比べ物にならないくらい間違ってる奴が、のうのうと生きてるんだよ!? 許せないでしょ!?」
知るか。
つれない返しだけの赤猫に、痺れを切らしたアリーシャは、癇癪のまま唸って赤猫を揺さぶった。
「私が許せないの!」
もっと、強いのに、頼め。
「貴女じゃなきゃヤなの!」
何を、隠してんだ。
駄々をこねる子どもの目が、打つ手を失くした迷子のように歪んだ。死に瀕した瞳が疑念に染まっている。それは、アリーシャの嘘を見破る瞳だった。
そもそも、アリーシャの言い草からして大きな仕事だった。赤猫はそんな殺しは請け負ったことがない。そういうのは、もっと上手い奴に頼むべきだ。経歴がお粗末で、その上死にかけの自分に、アリーシャがこうまで固執する理由がわからなかった。
疑念に眩んだ目を見て、アリーシャは何かを察する様子を見せて俯いた。
「……じゃあ、仕方がないね」
少しだけ残念そうに、それでも、この出会いの喜びに溢れた音色だった。
「だったら、私と貴女の運命は交わらないと神がお決めになっただけのことよ。だけど、できれば貴女には、私と一緒に戦ってほしい」
法螺吹き女。
幾らでも口の回る方が、首を絞められたも同然な方の、泡沫に押し黙った。光の褪せていく目は今にも事切れそうでいながら、アリーシャの全てを見ているような、境地めいたものを宿している。
アリーシャが目を逸らす。
もう、帰れよ。
だが、少女を抱きしめる力が、ほんの少し強くなった。
「本当は……本当のお願いはね」アリーシャはそれっきり、口をつぐんだ。唇を内に巻いて、しわしわになるまで、まるで吐くのを堪えるようだった。視線がせわしなく、涙ぐんだ水面下で動いている。
「本当のこと、言っても良いですか?」禁句を怖い先生に告げなければならないとき、こんな消え入る声になるだろう。赤猫は鳴かなかった。ゴミの下は人の住む世界から隔絶され、静かで、耳には清らな暗闇に包まれている。
「ごめんね。私と同じ、苦しいって子を見て、安心したいの……それに、それにね。私、もう、一人ぼっちだから……」
同じ名前の、家族が欲しい。
温もりと一緒に、震える小さな体が伝わった。抱き寄せて身体が更に近く、胸が鼓動で張り裂けそうになっているのが伝わった。衰弱する鼓動に分けるための早鐘、とは、赤猫の身勝手な思いこみである。
家族? しかし、もう満足に喉も震わせられないにもかかわらず、自然と言葉になった。
「一人は、もうヤなの……」
気づくと、自分を抱く少女は顔を熱くして泣きじゃくっていた。アリーシャの涙が二人の頬の間を伝うほど身を寄せている。きっと、赤猫より赤い顔をしているのだろう。殺し屋の枯れた涙を代わりに流すほどに。赤猫はふと、そういう酔狂なガキの面を拝んでやりたくなった。
気づくと、死にゆく少女は、アリーシャの頭に、枯れ枝のような手を乗せて、撫でていた。驚いたアリーシャがバッと顔を上げる。やはり、流れる血を晒すように赤くしていた。
面白え。乾いた唇が引き攣って、微かに笑んだように見られたかもしれない。
そのまま、吸入器を持つ手に手を添えて、少女は自分の口に何とか誘導する。たとえここで死ぬとしても、何か未練が生まれるのなら――神様が見捨てたような俺には、勿体ない最期だ。
アリーシャは涙を拭いて、洟をすすり、あどけなく微笑んだ。
「赤猫さん、貴女のお名前は?」
少女は首を僅かに横に振った。その意を認めたアリーシャは、少女を赤子のように膝に乗せ、抱きかかえ、乳を与えるように吸入器を差し出した。
「今日から貴女は、優れたる子」
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息を吹き返したのは、衣服を山積みにした鎌倉の中だった。呼吸が回復するにつれて、胸腔と腹腔の上下するスパンが長く、穏やかになっていく。それに合わせて、イムティヤーズの腹の上では、うつ伏せのビスクドールがぷかぷか水面を漂うように動いている。
イムティヤーズは元より気配を殺すのが得意だが、息がどうしようもなく苦しくなると、死に場所を探すネコのように姿を晦ます癖があった。
「ただいま、イムちゃん」
いつの間にか、遊び疲れた子どものように、アリーシャの腕の中に抱かれていた。アリーシャは衣服の山に潜ったらしく、頭に載せた服をマリアベールのようにして、腕の中のイムティヤーズに微笑みを投げている。そして、無意識にイムティヤーズは差し出された吸入器を哺乳瓶のようにして咥え、せっかちにミルクを欲しがる手つきで、自ら口に寄せていた。
「隠れちゃうなんてよっぽど苦しかったんだね。だけど、私には通用しないもんね~。落ちてた糸屑を辿ったらもう、一発よ」
何呼吸かしてから客観的な有り様に気づいて、仄かに頬を染める。羞恥を誤魔化してアリーシャを突き放し、ごしごしと口を拭う。「ちゃんと拭いたもん」とアリーシャはむくれた。
イムティヤーズの肌に衣類がくっついてくる。汗が酷い。人のことは言えないと、内心で自分に呆れた。心の整理をつけるため、一息ついた。
「お帰り、アリーシャ」
血だらけのコサージュが目に飛びこんで、形相に鬼が浮かぶ。
「待って。色々思うかもだけど、まず聞いて」
犬に待てを言い渡す要領だった。怪我のことは後で問い詰めると決めて、イムティヤーズは顎をしゃくり、続きを促す。
「稼ぎを盗まれちゃった♪」
取り返して来て――言い切る前に片手で塞ぎ、頬をブニャッと潰す。潰れた声で「傷に響くからやめて」と懇願されるも何もイムティヤーズに響かない。強めのデコピンを食らわせる。
いいね・ブクマ・評価・応援・ご感想・その他コメント、いつでもお待ちしています。
オラに元気を分けてくれ!