2.イムティヤーズ
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雲間から再び月が顔を覗かせると、耳に水飛沫がかかった。大都市クファールの恵みと秩序は貧民窟に及ばず、文明の光が微かに明滅する闇の中で、どこぞの不届き者が盗掘で掘り返した上水道はついさっきの騒ぎで被弾して、噴水のように水柱を立てている。
「陸で溺れたことはあるかよ?」
水の連想でふと思い浮かんだことを、イムティヤーズは地べたに這いつくばる男へ尋ねた。
思ったより派手にやり過ぎた。地面に転がる薬莢と銃器の数はおびただしく、しかしイムティヤーズはかすり傷一つ負っていない。噴水が地面の血飛沫を洗い流していく。この中に彼女の垂れたクソがどれほどあることか。
だから、余計な寄り道も、お嬢様の言葉を借りるなら「運命の前には些細なことなの」だ。
仕事はほとんど済んだ。あとは目の前の取りこぼしを掃除するだけだ。間もなく公安が動くにしても、奴らが車のエンジンをかけている間に問答の一つや二つ余裕でこなしてやれる。その上、トドメだって刺せる。
この程度の遅れなら、正真正銘些細なことだ。お嬢様はイムティヤーズの粗相を気にも留めず、むしろ歓迎するだろう。
蹲踞し、背を屈めて男を覗く。ブラブラと得物をもてあそび、余裕をかます舐め腐った態度。しかしイムティヤーズは抜け目なく、男がどう足掻いても鼻先にすら触らせないだけの距離をしっかり空けていた。
苦悶する男は、脂汗に塗れた顔を上げた。何だ、今、何つった、このアマ。つか、足。俺の足、何で倒れて。女の態度にも自分の有り様にも無性に腹が立った。足裏で土を掴んで立ち上がろうとするが、足首より上が鈍い音を立てて曲がった。激痛が走る。銃弾は骨を抉り、男の怒りがとどめを刺して、折れたのだ。
ふと男は、刺客の背後の物陰で動く白いものを捉えた。髭まで白い老人がトーブをたなびかせ、鉈を振りかざし、真っ直ぐに女の背中に向かって来る。年齢に似合わない意気軒昂な老爺が、今にも襲いかかるところだった。
イムティヤーズは振り返りもせずに、その腹を撃ち抜いた。老爺は得物を落とし、七転八倒する。老い先短いとは思えない生命が足掻き、血反吐をまとった断末魔が路地裏に響く。
「このっ、この悪魔めぇ! 呪われろぉ! 呪われてしまえぇ!」
確かに、イムティヤーズは見かけも悪魔じみていた。ここに倒れている男たちにも引けを取らない高身長で、夜空よりもなお深い黒の肌。そんじょそこらの人間よりも真っ黒だ。スーツを脱げば手の平、足の裏まで黒い。
「鬱陶しいな、次から次に」銃口を再び目の前の男へ。「何だここ。全員お友達か?」
男がナメクジくらいののろさで這ったので、イムティヤーズも合わせて間合いを保つ。男はつんのめり、泥に塗れて、どんどん惨めな姿になろうが気にかけない。なのに老爺が撃たれてから、むしろその怒りは増々盛んに、表情に刻まれていく。
「安心しなよ。ウーバーイーツが宅配で欠品出すと……思うか。思うわな。でもまだ」これ見よがしに銃を振る。「たっぷりあっから」
地獄に堕ちろ……。男の絞り出した慟哭は、消え入るようだった。
「ああ、今の大ヒントだわ。わかった、この辺にいんの全員氏族だろ? 道理でうじゃうじゃ……何だ、つまんねえ。なあ、それよりも続きだ。陸で溺れちまう、クソっ垂れな気分を味わったこと、あるか?」
激痛が男を俯かせ、愚鈍に唸らせる。質問が理解できない。そもそも聞き入れる余裕がない。親父が撃たれた。この女、絶対にぶっ殺す。
そんなことよりもっとクリティカルな事態が脳を占めている。どうして俺が、俺たちが、こんな小娘にやられている?
若頭の号令に応えて、黒服たちはここに集まった。ここに呼ぶ理由はお察しだ。上に知られる前に揉み消したい厄介事があったに違いない。集合場所には、直接その号令を伝えた側近が待っていた。上や他所に気取られないよう、側近を分散配置し、各々示し合わせた集合場所で、通信端末を通じて若頭の命令を伝えようというのだろう。
現地で顔を合わせた連中と事情を探り合うのは当然だった。若頭が金で失敗したとか、愛妾の前で恥をかいたとか、憶測の内でしかない話ばかりが囁かれる。しかし、側近からしても見逃せない話題があったのか「黙ってろ」と釘を刺してきたあたり、若頭の失墜絡みなのは確かなようだ。
全員集合し、間もなくスマホ越しに若頭の話が始まろうかというときだった。全員の注視を集める側近が怪訝を顔に浮かべる。その僅かな違和感に気づく間もなかった。
「ちわー。ウーバーイーツでーす」
気怠そうな声をかけられた。黒服たちの目が一斉に一点へ向く。振り向くと、ライダースーツを着たタッパのある女が気怠げに突っ立っている。背負ったデリバリーリュックを降ろす女の前に、仲間の一人が出て、「取りこみ中だ」と威嚇する。
「多いな……誰? 注文したの」
「俺らじゃねえ。帰れ」
「じゃ誰? そこン家の人、いないの?」
「知るか! 時を改めろって言って……」
胸の前に抱えるリュックの中をガサゴソ探ったまさにその瞬間だった。銃声。バッグが無数の火を噴き、ボロボロになった穴から自動拳銃がまろび出る。女は続けざまに何発か弾き、一発漏らさず黒服に当てた。
「鉛弾をご注文のお客様~」
大立ち回りの銃撃戦中、そんな軽口を耳にした気がする。
結果、路地裏に、黒服の男たちの死屍累々。騒ぎを聞きつけて家々からおっとり刀で乱入してきた氏族の男たちまでも喘いでいる。二本の足で立つのはライダースーツのイムティヤーズただ一人。一本足は電柱とか、植木とか、痛みで泣きべそをかくこの男とか。
車のヘッドライトが川を成す大路。それに比べて、一本入っただけのこの路地裏は怪我人の泣き言で湿っぽい。未舗装の土肌。ここで暮らす者が足跡を刻んでは、雨が流してぬかるみ、熱波が固めるサイクルを繰り返す。その痕跡が錯綜している。雑多で不潔な物で溢れ、ゴミなのか公道を不法占有している私物なのか判別がつかない。ただネズミとゴキブリの群が、我が物顔で全てを漁っていた。イムティヤーズと男たちが殺し合う前までは。
遠くで吠えたてる家犬が、殺し騒ぎの名残を引き継いでいる。
イムティヤーズが一方的に掃除を終えると、小さな生き物たちはおっかなびっくり戻って来て、折り重なって倒れた死体の臭いを嗅いだり、触覚で探ったりした。怪我人の身体にも容赦なく登るが、当然振り落とされた。中には自分の怪我を顧みず、黒服の亡骸から小さな屍食者を必死に払い落とす様子も見えた。
何をやっても無駄だというのに。
今、この場を支配する律はたった一つだ。小さな生き物たちにとって、不意に供された大いなる肉が、恵みになり得るかどうか。
不意に問いかけてきたイムティヤーズをどう解釈するかは、男次第だった。
「陸で、溺れた、経験は?」
ゆっくりと、短く、同義の質問を繰り返す。
陸で溺れると言ったのか。ふざけやがって。だが、ああ――男は予感に囚われる。このクソアマ、答えるまで苦痛を引き延ばせるだけ引き延ばす。
「……んなマヌケ、世界中見回しても、お前だけだ」
「おー、すげ。半分当てやがった」
「……なん……」男の左手に激痛が弾ける。手の甲から鉛弾が貫通した。喉を雑巾のように絞って悶絶する。
「大の大人が喚くなよ、みっともねえ。それと、質問をちゃんと聞きましょう。ンなこともできねえのかよ、ガキか。もうできるよな? 身に染みてわかったろ? 次は撃たれないで済むと良いな?」
再三、再四の質問をする。同じセリフの繰り返しに飽きてきたイムティヤーズは、すい、と銃口を背後でのたうつ老爺に向けた。
「こっ、のおぉ……っ! クソアマがぁッ!!」
自分に向けられた殺意が肉親へ向けられた途端、男の中の何かが切れた。思考が加速し、目玉がきょろきょろ動き出す。何だ。何なんだこの女。仲間は皆殺し。親父や氏族連中、兄弟分は半殺しだ。どうして俺たちがこんな目に。俺たちがてめえに何したってんだよ。そもそも何でいきなり襲撃してきた。……まさか、質問か? さっきからほざいてやがる、イカレた質問のために? ふざけんじゃねえぞ。イカレ女め。
いわれのない災難でも怒りは湧く。男の頭に血が上り、上った分だけ傷から流した。血を失ったショックから今や男は蒼白で、気づかない内に悪寒に震えていた。意識が朦朧とする。思ったことが口をつく。
「あ、ああ……! 陸だろ、陸ってあれだろ。溺れる……あるぜェ……幾らでも。あんた、よく見りゃ……」ライダースーツのなだらかな曲線に合わせて眼が動く。年頃の雌豹が、歪んだ願望を叶えに、路地裏に狩りに降りた。「死にかけの男と乱交してえか、恥知らずの売女が。ヘヘッ。溺れさせてくれる、ってか? それとも溺れてえのはそっちか? どっちでも構わねえ、ヤるなら早く頼むぜ」
この売女を罵るのは爽快だった。イカレた性的趣向が図星なのか、閉口しているだけなのか、いずれにせよなお愉快だ。口撃なら弾をこめて引き金を引く手間も省ける。口が回るにつれて痛みが遠退き、おちょくるのが快感になっていく。
「な、痛くて堪らねんだ。見てくれ」風穴の開いた手をかざす。「こんなに腫れちまって……垂れてきちまった。舐めてくれよぉ……」
「息が臭えぞ」
イムティヤーズは老爺に向けた銃口を下げる。自動拳銃に装着した消音装置から、細い煙が上っている。男は反射的に引きつった笑みを浮かべた。
しゃぶりやがれ――
それが男の最後の理性だった。
「ウンザリだ」
あたかも何の脈絡もないように男の胸部に二か所、穴が開く。きっちり両の肺腑に穴が開き、男は吐血した。血液がゴボゴボと、溺れたように泡立つ。「少しはわかったか」間を置いて三発目、音もなく射出された弾丸は衝撃波をまとい、脳へ伝播して組織をミンチにし、貫通した向こう側から流出する。
男が身を投げた音に日和見してネズミが逃げて、安全と見るやまた餌にありついた。ゴキブリは全く動じない。
息の切れていたはずの老爺が、訳のわからない譫言を叫んで、今しがた逝った黒服に覆い被さった。
どいつもこいつも、死ねば同じ。動かなくなるだけ。耳元で泣こうが喚こうが聞いちゃいねえ。だからムカつく。先立つ阿呆にくれてやる涙はその実、てめえのためでしかねえ。それに気づかず慈善家ぶっているヤツらの一人が今、すぐ傍にうずくまっている。
引き金から指を離し、イムティヤーズは銃身を噴水にさらす。銃身はジュッと音を立てて、夜闇に蒸気が溶ける。しょぼい狼煙だ。熱気が気管に染みて、喉がかすれた。馴染みの感覚だ。呼吸の狂い始め。
腰のホルスターに銃を納め、代わりに革のポシェットから吸入器を取り、口に咥える。ボタンを押すのに合わせて、ガスの噴射音を肺に送る。
吸入にはコツが要る。ボタンを押すのと呼吸は同時に、数秒間は息を吐くのを我慢しなければ、満足な薬効は得られない。たったそれだけで、薬が呼吸を自由にしてくれる。
腐敗した生ゴミ、醸された糞尿、生ぬるい夜風。砂レンガ造りの家屋に細長く囲まれた星明りが、しみったれた裏道の臭気に淀む。
一仕事終えた後の一服も、いつも同じだ。車が、人が、野良が、一日動いて尻からひり出した、芳しい香り。反吐が出るほどの郷愁を誘う香り。
剣吞な気配に身を潜めていた住民たちの目が、二つ、四つと、各家の隙間から胡乱な眼差しを向けている。暗い窓越しに、老婆が受話器相手に涙で声を詰まらせながら何やら訴えている。
(潮時か)
再び噴水を失敬して返り血を軽く洗い流す。表通りへ向かいながら、イムティヤーズは携帯端末を懐から出した。「メッセージ。アリーシャへ」音声入力でメッセージアプリを起動する。「片づいた。今帰る」
「逃げるなぁ! 卑怯者ぉ!」
メッセージが余計な雑音も拾ったので、老爺も同じ場所へ送ってやった。冷ましたばかりなのに火を噴かせてしまった銃身と、通り過ぎた噴水を見比べて、再びホルスターにしまう。
靴の踏む感触が固いものに変わった。表通りへの出口は細く、明るい。外灯が、横切るゴミ収集車を照らす。
再び同じメッセージを吹きこもうとして、思い留まった。
「メッセージ破棄」イムティヤーズは「片づいた。寄り道して帰る」と改めて、一息に送信を命令する。これも「運命の前には些細なこと」だ。
出口近く、ビルの壁を蹴り跳び、高所のエアコンの室外機上に預けたリュックを掻っ攫い、得物を仕舞う。街の灯りに躍り出ると、雑踏と建造物群の全てを黄金に染めていた。
イムティヤーズは真っ直ぐ路肩へ向かう。足を止めると同時に、ヘッドライトの川から一台、艶めく黒のスーパースポーツバイク一台が外れて、颯爽と風を残して路肩に停車した。
みすぼらしい格好の青年がしがみついている。高級な車体に比べ、偽ブランドロゴをプリントした穴だらけのシャツとズボン、互い違いのオンボロブーツ&シューズといったなりが、見るからに不釣り合いだった。
青い顔で震える青年は、すがるようにイムティヤーズを見上げる。
彼を見舞ったことのあらましは、容易に想像できた。
数刻前、イムティヤーズがバイクを停めて仕事に向かった後、この青年が盗みを働いた。イグニッションに細工をして、そのまま走り去る腹積もりだったのだろう。この辺りではよくあるしのぎだ。
だが、このバイクだけはよした方が良い。イグニッションはもとより至るところにフェイクを仕込んでおり、多少心得がある程度では絶対に盗めない。下手にこのバイクを弄ろうものなら、自動運転が起動して、事が済むまで街中で映画ばりのアクションをする羽目になる。しかも無給ときた。
好意的に解釈するならば駐禁対策。ただ無人のバイクが独りでに走るのは悪目立ちするので、慈善家を募らねばならないだけで。それがイムティヤーズの仕事上がりまで続くのだ。
左右から車の激流のうねる赤信号に突っ込んだり、タンクローリーだの長距離トラックだのの下をくぐったり、あるいは雑踏をフルアクセルで縫う羽目に遭った青年とバイクの姿が脳裡に浮かぶ。
青年に抱いた万感の念が口をつく。
「ぁンだ、テメ?」
足蹴にして座席を空ける。チンケなコソ泥に抱く情など、百万集めたところでゴミはゴミだ。
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オラに元気を分けてくれ!