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19.七枚目のジャック

 裸電球が全容を照らす。打ちっぱなしのコンクリートの部屋に、木製の拘束椅子が床に固定され、無機質に並んでいる。こもった空気が、どことなく湿っていて、生臭かった。


「ゲストを座らせろ。一ミリたりともケツを浮かせるな」


 ヒツジの皮を脱いだディヤーブががなった。その手の中で、苛立たしくダーツがスピンする。


 警備が命令に従う。反意を示した順にターイウ、ラハイと、年季の入った椅子に投げ出して、乱暴ながら慣れた手際で二人を拘束していく。


「おい、おい! もっと丁寧にしろよ! 荒事に慣れてないんだ! 死んじゃうって!」


 ここに来て急にラハイが暴れる。当然、警備に二、三発、良いのを貰ったが、殴られるや急に素直に縛られた。「……詫びにならないなあ。でも、今はこれしかなくて」と、隣で自暴自棄のターイウに、律儀に数分前の返事をする。


「貴様らもだ、この面汚しども!」


 雷が落ちるとは言いえて妙だ。残響すら催す大声に、ラービフとギヤースが自ら縛られに行く。不意に命惜しさが溢れたか、ギヤースは「若頭、せめてもうラービフの奴は……」と陳情を上げようとするも、警備の拳を項垂れるほど浴びて、後は人形のように座らされた。


 燃え滾る怒りにふいごを踏むかのように、鼻の穴を広げてディヤーブは荒々しく息をしていた。額に浮いた青筋が鎮まるまで深い呼吸を繰り返し、ようやく落ち着いたところで「下がれ」と、ハエを払うように手を振る。


「待て」一人を呼び止める。「カレー野郎の賭け矢(マイスィル)を精算しておけ」


 警備員の片割れラハイのリストバンドを没収し、退室する。残り一人が入口を固める。


 アリーシャは一人、部屋の悪い空気にしかめた顔を、扇子で隠していた。おもむろに扇子をディヤーブは奪い、投げ捨て、宙を舞うそれをダーツで射抜いて、空きの拘束椅子に縫った。


「アリーシャ、俺の、俺の太陽」


 努めて好意を示す言葉を選びながら、ディヤーブは激情を堪えきれず、アリーシャの薄い肩を鷲掴みにして揺らす。


「どうなってる? さっきのゲームは何だ? どうしてこの生っちょろいガキがまだ……俺たちに愚にもつかねえラクダを掴ませた、ドブ浚いの薄汚い詐欺師どもが……!」ダーツがラハイとターイウの頬をかすめ、背もたれに刺さる。「クソッ! ゲームで残らず取り返す算段だろう!?」


 ラハイが腫れた目蓋で目一杯見開いた。俺たちと言ったか? アリーシャも競売に一枚噛んでいる? 出資していたのか、この男に? だから……いや、でも。それなら、最初に出た計画が的中したことに筋が通る。ディヤーブから情報を抜いたか、彼の背後に隠れて観察していたなら、計画を練るのも彼女なら容易だろう。


 強張る剛腕に、細指が柔らかく触れた。冷たい視線をラハイたちへ落とす。


「ディヤーブ様、私だけのご主人様。貴方ともあろうお方が、ただお金を取り戻してご満足なさる? 私の愛するお方は、もっと大きな器こそ相応しゅうございましてよ」


 指が腕を伝い、分厚い胸板を撫でる。頑なだった肉体に、柔軟さが戻りつつあった。


「やられたからといって、ただやり返すだけでは足りません」


「足りない? 足りないだと!?」強張る肉体が女を拒む。小さな肩を掴み、引き離す。「ジャックポットポーカーを何だと思ってんだ!? 巻き上げりゃ巻き上げるだけ、客を招く魔法の喜捨箱だ! その肥やしで足りねえだと!?」


「カジノ館長のご意見としてはまずまず。ですが、貴方はそれだけの御方ではございませんでしょう。その貴方が対等にお相手なさる価値など、彼らが備えているとは思えません」


「どういう、意味だ……?」


 たじろぐディヤーブに、アリーシャが微笑みを寄せる。


「貴方は彼らに情けを与えた。自分たちが一体、どのようなお方を謀ったのか? 己の犯した罪を顧みて、自ら不正に搾取した金銭を返すチャンスをお与えになったのです」


「勝手に決めるな! 俺が命じたのは」


「いい加減にお覚悟なさい!」ほんの一瞬でその魔性を知らしめる嬌笑だった。「ゲームを通じて、結果的に金を返せば、命だけは見逃す? そんなの駄目! 駄目に決まっていましてよ!!」


 気迫にたじろぐディヤーブを、アリーシャは放さない。しかし、荒れた喉を整えて、はしたない振る舞いを恥じもした。


「あのままカジノにチップが渡れば、きっとディヤーブ様はラハイめらをお目溢しになります。それではいけません」


「だから何だってんだ。出し抜いてきた野郎を出し抜いて、大金を掴んだ連中が今頃オケラになっていたはずなんだぞ」


「お優しいのですね。貴方はご家族想いで、契りを交わした者を本当に大切になさってらっしゃいます。お父上にラクダを贈るお話を聞いて私は……」


 肩を掴まれ、ディヤーブから引き剥がされる。アリーシャと鼻先がつくほどに、鬼気迫る。


「親父は関係ねえ!」


「そこな不埒者ほど無関係ではございませんでしょう?」たじろぐ男にたたみかけた。「ディヤーブ様、私の王様。懐の深さは家族に示すものです。ご尊顔に泥を塗った輩には、断固とした処罰がお似合いですわ。でなければ、どうして世に示しがつきましょうか。ラハイめらがのうのうと生きて逃げおおせてご覧なさい。噂が立ちますわ。ディヤーブは甘い。ディヤーブはちょろい。ディヤーブをナメても罪を精算すれば許される。だってディヤーブは自分の手を汚したことがない青二才だから。騙しおおせるまで何度でもやり直せる。自称オオカミ、ただのカモ……とても次期族長に相応しい評判ではございませんわね、可愛い坊や。そんなに人殺しが怖いのですか?」


 不穏な言葉に拘束中の四人がすくむ。


「だからお父上がご指名なさらないのです」背伸びをしてまで、アリーシャは耳元で囁いた。


 たまらずディヤーブが突き放す。


「何様のつもりだ、このアマ!」


 高いヒールで数歩後ずさり、何とか持ち堪えたアリーシャが顔を上げると、ディヤーブの懐から抜いたリボルバーの銃口が睨んでいた。狙いを定めるまでに、流れるように撃鉄を起こし、引き金を握る――


 乾いた破裂音を受けて、アリーシャがビクンと仰け反った。結った髪が解け、艶めく黒髪が振り乱され、ほんの数本の毛と、赤い飛沫を散らす。


 仰向けに倒れる美女を目にして、ラハイは置かれている状況も忘れて慟哭し、無茶苦茶に拘束を解こうと暴れた。


「――ほら、やっぱり、お優しいこと」


 むっくりと、声を淀ませながらだが、アリーシャは起き上がった。弾丸は側頭部をかすめ、コップを逆さにしたような量の血が流れている。目は泳ぎ、首が座らず、足を立てようものならヒールが床を滑る。軽い脳震盪を起こしていた。


 流れる血を指ですくい、紅代わりに唇に引いた。


「お化粧、直したかった、ところですの……」


 倒れた拍子に床にばらまいたポシェットの中身から、白バラのコサージュを掻き寄せる。飾りのリボンを包帯に、コサージュをガーゼに見立て、傷口に当てて止血する。白バラが血を吸って、赤黒いマーブル模様に染まっていく。


 喉が震えるほど息が乱れていた。虚ろで、無様で、それでもなお着飾り、高みに縋る執念は醜く、だがアリーシャは、令嬢の淑やかな笑みは毅然として絶やさなかった。


「こいつらは殺す」ディヤーブが縛られた四名を顎でしゃくる。「だがな、アリーシャ。誰に恥をかかせたか後悔させながら、殺すんだ。俺は最初からそのつもりだった。許してやろうなんざこれっぽっちも思ってねえ! 貴様に言われる前からな!」


 だが、先に確かめることがある。懐からもう一丁、コルトガバメントのセーフティを外し、床に腰を下ろすアリーシャへ構える。代わりにリボルバーはその近くに滑らせた。


「こっちはまだ疑ってんだよアリーシャ。貴様の裏切りを。俺を思っての機転だったと言うなら、アリーシャ。貴様も俺に示して見せろ。最も後悔すべき二人を残して、後は殺せ。残った二人には、命を賭けたゲームで決着させる」


 暗く湿った静けさに満ちていた。オオカミと占い師が睨み合う。今の騒動で、裸電球が揺れて、各人の影がそわそわと成り行きを見守っていた。乱れたアリーシャの呼吸。不意に喘鳴し、慌てて吸入器を咥えた。


 白いプラスチックの吸入口に、生乾きの血のフレークが付着する。


「五発入っている。一発撃って、残り四発だ。好きに使えば良い。ただし、三発使って一人も仕留められなければ……これ以上、言わせるな」


 薬を乗せるガスの音が、やけに響いた。


「そんなことでよろしいのですか」銃把を手繰り寄せる。「これで何が試せると?」


 アリーシャがふらつく脚で立ち上がる。ただでさえ細い脚が頼りない。じっと立っていられず、構えた銃の照準もでらためだ。だが、狙いは確実にラハイへ向いている。


 一瞬の内に困惑、驚愕、抵抗、諦観……ラハイの表情が万華鏡のように変わる。目まぐるしい一日を振り返る。体内のどこかでせき止めていた疲れがどっと全身の細胞と混濁し、項垂れ、肩で一つ笑いのけて、枯れた上目遣いを銃口への返歌にした。


「楽しかったよ、アリーシャ。特に……」この期に及んでラハイの口をついたのは軽口だった。自分でも驚きながら生来の気質に従って口が動く。「……騙されたディーラーの顔なんか傑作だった」隣から抗議が来る。「まあまあ。君のことだ、もっと面白いものを見せてくれるんだろう?」


「いいえ、これにて一巻の終わりです」


 震える照準にもう片手を添えて固定する。撃鉄を起こし、一息にトリガーを引く。ラハイが目を瞑る。裸電球の傘が傾いたような音がした。カチン……。


 再び訪れた静寂を破ったのは、アリーシャからだった。


「あら? あらあら? あらあらあら?」


 トリガーを引く。引く。握る。よっ、はっ、と銃身を構える角度を変え、周りが止めるのを聞き入れず、時々銃口を覗いて、再びトリガーを引く。あの手この手を試しながら思ったような成果が得られず、試しては小首を傾げて「あら?」を増やした。


「何をもたついている」苛立ちを露わに、ディヤーブが自動拳銃を突き出す。


「どうしましょう、ディヤーブ様」振り返り、アリーシャは何度目かの銃口を覗く。


「だから銃口は覗くんじゃあない!」


「でも、弾が出ませんの」


「一発目は撃てたんだぞ! 何をどうすればそうなるんだ!?」


「そうおっしゃっても……どうしましょう。こういうのはさっぱり疎いもので……」うーん、と唸りながら、銃口から目を離さない。「何、かしら……これ……?」


「何だ!? 見せろ!」


「これです。これ」


 ディヤーブがリボルバーに手の届くところまで近づいた瞬間だった。緩やかに角度の変わる銃が口を覗かせた少し向こうで、アリーシャの親指が、シリンダーと撃鉄の間に挟まっていた。気づいたディヤーブが息を呑んだ瞬間、アリーシャは舌を出していた。


 挟まっていた指を抜く。撃鉄が薬莢を叩き、発射された銃弾は、銃を構え直そうとするディヤーブのその肩を穿った。


 大の男の上げる悲鳴を、妖鳥が如き美声が引き裂いた。


「いやあああ!! そんな!! ディヤーブ様!! ディヤーブ様あっあっあっ……!!」


 この場の者たちが見てきたアリーシャからは考えられない悲痛な叫び。意図せず愛する人を害してしまって取り乱す女の、真に迫る縋り方にしか見えなかった。


 警備員とアリーシャが倒れたディヤーブに駆け寄ったのはほぼ同時だった。駆け寄るまでの僅かな間にアリーシャは撃鉄を起こし、しゃがんだどさくさにコルトガバメントを遠くへ滑らせる。ディヤーブの安否を確かめて上体を支える警備員。両手が塞がったそれの額に、アリーシャは硝煙の昇る銃口を添えて、今度は普通に射撃する。


 撃たれた激痛と、炸裂音、他人の血と、失った支え、怒涛の変化を浴びたディヤーブの神経に「あはは」と無神経な嘲笑が障った。


「て、めぇ!」


 涙目の大男に、三発目の玉が振る舞われた。縛られた男たちがこの世の終わりを眺める顔で、一様に股を閉じる。聞くに堪えない絶叫が密室に響く。


「ああ、当たって良かった。的が小さくて」


 手で押さえ、みっともなく丸まって、男でありながら月のものを垂らす源に、足蹴を追い打つ。何もされていないはずの男たちが、想像を絶するはずの苦悶に同調した。


「おめでとうございます。最も後悔すべき二人の一人目はぁ……」ふざけたドラムロールを口ずさむ。「ジャン! 貴方でございま~す!」


 まあ、貴方のお家に限ればですが。雄の宿命に苛まれるあまりに、ディヤーブの耳には一切届いていないようだった。


「皆様、驚かせてすみません。お金も欲しかったのですけれど、実はこちらが本命ですの」


「本命……こっちが、だって?」


 誰もが聴覚を失って固まっている。ただ、ラハイだけが(カナリアは僕だってか)と内心にぼんやり浮かんだ。ぼんやりしている場合ではなかった。


「話が違うぞ!? 僕らに人殺しの片棒担がせたってのかい!?」


 これまで通して飄々としていたラハイが、初めてアリーシャに恰好をつけない本音をぶつける。返すアリーシャも、ただ、これまで見せたこともない悲し気な表情を向け、無理に笑顔に直して誤魔化した。


 そのとき、ドアが開く音に気づいたのはアリーシャだけだった。最後の一発を残した照準を、ドアに合わせる。


「お紅茶をお持ちに上がりました」


 凄惨さに反してほんわかした爺やが入室する。が、それも束の間で、こめかみから血を流すアリーシャと、足元で激痛に耐えるディヤーブを認めると、「何だ、このゴミは。のたうつのか」と血相を変えてツカツカと歩み寄り、激痛の患部へ踵をねじこむ。


 耳障りな絶叫の中、主人と従者だけは日常の一幕であるかのような所作だった。


「全くこのカジノときたら、掃除がなっておりませんな。直ちに処分を」


「結構よ。彼、アートパフォーマーですの」


 アリーシャは爺やからティーセットをトレイごと受け取った。その拍子に足元がふらついて、爺やが咄嗟に肩を支える。


「お痛わしや、アリーシャ様。直ちに処置を」


「ありがとう爺や。ところでよく入れましたわね。警備の方はいらっしゃいませんでしたの?」


「一人しかお見かけしませんでしたな」その手にはカードキーと換金済みのキャッシュカードが十数枚。一方その頃、換金に向かった警備員は、バーカウンターで()()()を飲んで突っ伏していた。


「不用心なことで。アリーシャ様のご采配なら当然とはいえ、まるで歯応えがありませんな」


 受け取ったキャッシュカードに目を通し、満足げにアリーシャが頷く。暗証番号もビニルケースに併記されていた。これならすぐにでも引き出せる。


 爺やが止血用にハンカチを裂こうとするのを止める。


「処置は後にして頂戴。これ(カード)は爺やに預けます。先にラハイ様とターイウ様を解放して差し上げて」


 命令を忠実にこなす爺やにラハイは「彼女、何なんだ」とウンザリ尋ねたが、適当にあしらわれて終わった。命が助かるならターイウはそんなことどうでも良く、泣いて爺やを救い主と崇めてキスまでしようとした。機敏に爺やは回避した。


「残りの方は……まあ、その内に」


 二手に分かれた後、部屋の隅に転がしたコルトガバメントを拾い、リボルバーはポシェットにしまう。ディヤーブの顔が拝める方に立ち、少し距離を置いて、愛玩動物を眺める目で見下ろした。


「何で、どぉしてこんな酷いことお……!」


 声が鼻水と涙に沈んで、ほとんど泣き言だった。粘液に濡れた気管を絞らねば声にもならない。耳障りな騒音を、それでもアリーシャは声と認めた。


「本当に、どうしてでしょう? もっと貴方を泳がせるつもりでしたのに。貴方、何か心当たりは?」


「ふざ……け……!」


 顔を上げると、丁度、眉間に銃口が接吻した。


「ふざけてらっしゃるのは貴方です。ご覧なさい、この髪」愛おしそうにアリーシャは黒髪に触れる。「折角イムちゃんが結ってくれましたのに。それにあの扇子」もはや見るに堪えられない穴が開いた。「イムちゃんが選んでくれた物ですのよ。暑いからって、慣れないのに気を遣って」思い出し萌えが発病しかけて踏み止まる。「どうしてくれましょう」


 アリーシャのコサージュは赤黒く染まり、僅かな白斑を残すのみとなっている。ディヤーブには彼女の言うことが何一つ理解できなかった。


「本当は泡風呂の量なんて、わかっていました」


 何かの聞き間違えか。内容がつるつると滑って入って来ない。ディヤーブの全身で暴れ狂う地獄の苦しみが、アリーシャの話を他愛もないと切り捨てて、ただ、死んでいないだけで、獣にはらわたを食い破られた獲物のようにもがく。


「だけど、私はイムちゃんと一緒にお風呂に入りたかった。だからわざと間違えたの。そうすれば絶対に入ってくれるって知っていたから」


「なん……っで、何を、俺と、何が……!」


「これでわかったでしょう? 正しい運命は決まっているの。だけど、貴方みたいな七枚目のジャック(余計な人間)のせいで歪んでしまう。ファーフーリー? 傘下の氏族から借りた名前に隠れて堅気面かしら、ディヤーブ・アル=バウワーブさん?」


 その名を聞いて、ラハイは耳を疑った。アル=バウワーブ一家と言えば、昨晩襲撃を受けたとかで、実行犯を嗅ぎ回っている最中だと耳にした。クファール中に一気に監視の目が増えたようで、尋ね人予備軍のラハイとしてもやりにくくて仕方がなかったのだ。余計なことを、と独り言ちたものだ。おかげで逃げるのが遅れて、少しばかり様子を見る必要が――


 ――それがなければ、アリーシャと会うことはなかっただろう。


 一瞬、ディヤーブの瞳に理知が戻る。のたうち、足掻き、腕を振る。だが、油断なく一挙手一投足を俯瞰していたアリーシャには届かず、「ステイ!」直前まで眉間と仲良しだった銃が火を噴く。「悪い子(バッボーイ)」ディヤーブが踏ん張った方の脚に命中し、指先一関節分も動けなかった。


「ああ、でも、そんなことはどうでも良いの。歪んだ運命を正すためには、ほんの少し、手を加えるだけで充分。今のみたいに、とっても簡単なのよ」


 族長ディルガームのラクダ好きを知って、レースに入り浸った。そこで息子に近づいた。レースはきな臭く、息子を焚きつけて曰くつきの一頭を落札するよう唆した。自尊心を傷つけて、怒りの矛先を作って御しやすくするために。


 イムティヤーズがアル=バウワーブ一家を襲撃した。一家は正体不明の刺客を探すのに躍起になって戦力を分散させている。カジノで荒事になっても、アリーシャと爺やで対処できるように。


 レースの八百長の実行犯を捕まえて、新しいイカサマに誘った。約束を反故にしてカジノの金を頂戴するために。


 こうしてゆっくり話せる機会を用意するために。


 まさか。ラハイの背筋が凍えた。どこまでが彼女の計算だ? 偶然を多分に含んで……いや、どう転んでも、この結末に収束するよう、手を回していたとすれば……。この街は、彼女の張り巡らせたクモの糸で雁字搦めになっているのではないか。


 あるいは、天より街を俯瞰する、皆既日食の瞳。


「貴方はね、正しい運命の前には、些細な障害なの」


 もう何を言ったところで、ディヤーブは聞き入れそうもない。肩をすくめ、アリーシャは真新しいハンカチを一枚、湯気立つティーポットの中身を浴びせる。それを絞らずそのまま広げて、ディヤーブの顔面に落とす。ぴしゃんと頬を叩くように鳴り、ハンカチは顔面を覆って貼りついた。


「爺や、急いで。ラハイ様にはお見せできませんわ」


 解放されたラハイたちが、爺やに先導されて行く。ラハイ、と呼び止められて振り返る。アリーシャは背を向けたまま、ごめんなさい。と呟いた。足を止めた刹那、胸が引かれる思いが浮かぶラハイだったが、爺やに退室を促され、ついぞその感情の正体は掴めなかった。


「土の上で溺れたご経験は?」


 気を取り直してアリーシャは少しずつ、ハンカチに紅茶を注いだ。ディヤーブの絶叫は喘鳴と混ざり合い、激痛と窒息は純粋な死の色に潰されていく。ハンカチを落とそうと顔を振るが、紅茶を吸った布は貼りついて離れず、絶え間なく注がれる茶が通気を阻む。


「そうそう、貴方にも謝らなければならないことがございます。私、本当はサアドゥーンではございませんの」


 血を失い過ぎたせいか、あまりの激痛のためか、口を塞がれたためか、薄れゆく意識の中で、ディヤーブは天使の内緒話を耳にした。


「この名を牢記なさい。審判の時に私は再び貴方たちの前に現れましょう。私は――」


 全てを聞き届けた瞬間、男の魂は恐れで凍った。ラハイたちが扉を閉める。


「親父いいいぃぃぃ……! あんたの、あんたの子で……だった、ばかりにいぃ……俺、俺は、俺はあああぁぁぁ……!」


 くぐもった悲鳴。掻き消す銃声が跡を継ぐ。紅茶に染まったハンカチに、赤い終わりの印が開くのを、部下二人と屍の一人が見届けた。


「やっと親離れできましたわね。とっても立派ですわよ、私の王様」


 追って沙汰を出します。悪いようには致しません。呆然とするディーラーとサクラが首肯するのを認めてから、アリーシャは爺やたちを追った。

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オラに元気を分けてくれ!

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