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10.ラハイという男

  ● ○


 インドから波任せで来た、人懐っこい好青年。名はラハイ。


 ラハイはほとんど着の身着のままでふらっとクファールに居ついたかと思えば、いつの間にか庶民生活にすっかり馴染んでいた。妙に挨拶が好きで、誰彼構わず声をかけるものだから、顔見知りはどんどん増えた。反面、特に付き合いが良い訳でもなく、かと言ってあくどい噂も立たないものだから、人となりが謎のまま顔ばかり売れた。人々がラハイについて知っていることなど、簡単な来歴と、第一印象と、ラハイという名前、精々そんなところだった。


 それは昨日までの話。ラハイは住む世界を一夜にして変えてみせた。


 手塩にかけて育てた特別なラクダが、レースで一位の栄冠に輝いたのだ。


 自分のラクダだ。勿論、そいつに賭けた。チケットの払い戻し金も相当な額だったが、ラクダ自体の価値は驚くなかれ、買い値の三百倍ときた。特大のジュラルミンケースを担ぐ重みと比べれば、財布の隙間を全部埋める程度の配当など、端金に過ぎない。


 今やラハイはすっかりラクダ長者である。クファールの酷暑にも、スパイスの少ない食事にも、目口に入って鬱陶しかった砂埃にでさえ、異国情緒(エキゾチズム)を見出せるだけ心は大らかになっていた。


 しかし、悦に浸るばかりではいられない。ネットには既に彼のインタビュー配信に先立って、レースの中継に映った彼の映像が出回っていた。つまり、こうして呑気に市場をふらついている間にも、金目当ての無頼な輩がラハイの足取りを探っていることも意味している。


 第二の故郷とも言えるクファールの市場だが、今日を最後にお別れだ。思い出に残るスペシャルな去り際を演出したい。眠りにつく直前にそう思い立ってから、ずっと悪戯心がワクワクしっ放しで仕方がない。


 賑わいで熱気が渦巻く市場を、人を掻き分けてラハイは進む。何人か顔見知りとばったり会ったが、「よう」と声をかけたところで誰もラハイには気づかず、背後とラハイに怪訝な視線を往復させるだけですれ違っていく。


 住む世界が変わる、ってのは寂しいねえ。灼熱の大地、いつもの熱風が少し冷めて吹く。純白の中折れ帽を逃さないように、つばを下げる。


 やがてラハイは目当ての店の前に着いた。まず目につくのが店先で焼く名物のケバブ。仕入れた肉の分だけ肉塊を並べたのがいっそ壮観で、まるでパルテノン神殿だ。「俺はここにケバブ神殿を建てた。つまり神官だ。神官だから誰よりも偉い」と店主が言ったかどうかはともかく、我が物顔で路上を占有するテラス席にパラソルまでつけ、野菜や果物の売り場まで出すふてぶてしさは、根も葉もないところからそんな噂を呼んで然るべき様相だった。


 肉の焼ける音、市場の喧噪、それを上回る店主のがなり声が「ケバブ」をカバディのリズムで唱え、道行く胃袋たちを呼んでいる。元気な飯屋だ。飯屋が元気だと、飯を超えて元気をこしらえて、客の腹までこしらえてみせる。だからここは、ラハイの行きつけになった。


「とっつぁん」客引きで耳を聾する店主へ、ラハイは気安く声をかけた。店主は急に緊張した面持ちで揉み手を作り「へ、あいや、旦那様、こんなところで、どのようなご用件で?」


 がなり声が急に猫撫で声に変わり、ラハイは思わず噴き出した。無理もない。外見も習慣もここの生活に馴染んでいたラハイが、いきなり白揃えのスーツで小ざっぱりしたのだ。髪もヒゲも伸ばし放題だったのを整えて、自分でも見違えたと惚れ惚れ自惚れている。


 ラハイが黙っているせいで、店主が何か粗相をしてしまったのではないかと気が気でない様子だった。


「いや、何でも。ひゃー、今日はこんなんばっかかよ」中折れ帽とサングラスを外して見せる。「僕だよ、とっつぁん」


 茶目っ気たっぷりなウインクに、店主は次ぐ言葉が中々浮かばなかった。


「旦那……いや、お前、ラハイか!」


「ハッハー!」指を鳴らし、そのまま差す。「驚いたろ、とっつぁん?」今日から僕ぁ王者(ラージャ)だ。と決める暇はなかった。


「馬鹿たれ! 早よ上がれ!」店主は有無を言わさずラハイを半ば羽交い絞めにし、グイグイと店の奥へ奥へと追い立てる。「鞄は俺が持ってやら!」


 お調子者っぽく振舞っていたラハイもこの勢いに面食らってしまったが、「いやいやいや全財産(コレだけ)はダメだって!」と何とか言えた。


「だったら急げい!」


 来る日も来る日も肉を捌いてきた剛腕に尻を叩かれる。用意していた台本が崩れ、順番が狂っていく中、やっと適当な一文が口をつく。


「あのね、ケバブね、端から端まで……」


「ああ! ああ! 幾らでも焼く!」


「……あ、じゃあ、ラクダのコブってある?」


「そんないっぺんに言うな! オラッ、上がれ!」


 おかしい。すごい贅沢をして驚かせるつもりだったのに。心なしか、いつものがなり声に喜色が混ざっている。ドン、バシ、と背中やら腰やらを叩かれる王者ラハイは内心「僕ぁ、家畜じゃねンだけどな」と困惑した。


 奥の階段に導かれるまま、上階へ。途中、店主の家族や従業員たちが挨拶を投げてくれた。が、何故だろう。とてもにこやかで、「ラハイったら男前になって! 見てあの格好!」とか「やっぱりそうよ!」とか「きゃー!」とか、かみすばしい。


「そ、そう! ほら、女将さんは気づいてるよ、とっつぁん! 今日の僕さあ! この格好! 何か気づかねーか、って?」


「あーあーわーってるわーってる! 無駄口叩いてねえで、ちったあ急げや!」


「ひょっとしてもうニュース見た?」


 にわかに店主が踊り場で止まると、ラハイをぐるんと回れ右させた。ギョッとした店主の顔が視界一杯に迫る。


「そんなお相手を待たせるたぁ何事だ!」唾の飛沫がかかった。


「ペッペ! (きたね)えなあ!」


 心当たりがない、とは思ったが、“そんな”とはどんな? に思い至る間もなく、店主にスーツの裾を掴まれる。日々大挙して押し寄せる腹ペコどもをぶちのめすため、大量の食材を捌いてきた剛腕が、ほんの小さなスーツのシワを伸ばすために振るわれる。裾を伸ばす度にバツン! バツン! と空気の破裂音がホールに響く。


「ちょちょちょちょっとぉ!?」店主から裾を奪い返す。「さっきっから手荒くなぁい!?」


「これで良し」シワ一つないスーツに満足する店主。


「良し、じゃねえのよ。とっつぁん、僕ぁただね」


 一山当てたから。が遮られ、二階へ向けて背中を叩き飛ばされた。


「バルコニー席でお待ちだ! こっからは自分の足で行きな!」


 そう言い捨てて、店主は持ち場に戻る。ラハイが呼び止めたところで聞く耳を持つ気配がない。色々腑に落ちないながら、仕方なく言われた通りの席へ向かう。


 途中、「ラハイ!」と、逆に店主が呼び止めて「頑張んな!」と含み笑いし、一人だけ満足して去って行った。


(頑張んなも何も、頑張った後なんだよなあ)


 首を傾げながら、まだ客もまばらな二階席の合間を行く。薄暗い室内から、まばゆいバルコニーへ踏み出す。手庇で目を守りつつ右、左と探ると、客は一人だけだった。


 バルコニーの縁側にしな垂れて、階下の人の往来を観察している。砂色のショールと赤いパーティドレスの隙間から見える背筋のライン。品のなさそうな女だ。


(こいつかあ……“お相手”)


 着飾った女が男を待つ。当の男は店の常連で、普段からは想像もつかない小奇麗な格好で現れる。とっつぁんじゃなくても勘違いすらあな。で、その勘違いもニュースになると聞いちゃあ、ああ言うわな。


 太陽を小さな雲が遮った。


 誰だか知らねえが、よくも俺のお楽しみを邪魔してくれたな。一発バサッと襟を正して気合いを入れる。ガツンと言ってやるぜ。ウイングチップの踵をわざとらしく鳴らしながら前へ踏み出し、女の背中へ呼びかける。


「あんたか? 俺を待ってる奴……」ってのは。と言葉を継ぐまでが永遠の彼方に遠ざかった。小さな雲の切れ間から、太陽が女だけを照らす。声に気づいた女が、おもむろに振り向く。色づく世界に現れた二つの眼に吸いこまれそうだ。大粒の黒真珠を彷彿とさせる瞳。波打ち際で磨かれたかのようなそれが、真夏の日差しを乗せた視線を射返す。釘づけ、いやラハイはこの子に串刺しだ。あどけなさを残しながら大人の自覚で装った相貌からは西洋情緒(オクシデンタリズム)を感じつつも、ラハイにも馴染のある東洋情緒(オリエンタリズム)をも呼び起こした。異郷の地にて近寄りがたく情熱を誘い、しかし故郷の残り香を漂わせている。血の坩堝の女とでも言おうか。同胞の血の気配に半生の記憶を呼び起こされた。突然だがラハイが大人の自覚を持ったときの話をしよう。何も一回じゃない。自分は大人だと思うきっかけは何度もあった。父の屋台を引いたときもそうだし、父から料理を教わったときもそうだ。母から兄弟のお守りを任されて一日世話に走ったときもそうだし、なけなしの小遣いを溜めてサリーを贈ろうとしても結局足りず、同じ生地のスカーフをプレゼントしたときは……まあ無力な子どもだと思い知った割合の方が大きいが、大人の自覚を育むには欠かせない経験だった。成長とは、やりたいことを叶える努力だ。その努力の向く先はつまり、大人になること。そして大人になるとは段階を踏むだけじゃ済まない。母と結婚するつもりだった頃には、あろうことか実の父に向かって「ママと()()()してよ」と言い放った。父から大目玉を食らうのは当然で、小さな頭では理屈も理解できなかったものだから、悔しくて一晩泣き明かしたものだ。そうやって痛い目を見て、前進と後退を繰り返し、少しずつ丁度良い立ち位置を覚えていくことが大人なのだ。今はどうだ。大金を手にして浮かれて、クファールの友人たちを驚かせることばかり考えていた。まるで浮かれたガキだ。自分の幸福を自慢したいだけで、誰のためにもなっちゃいない。この人を一目見て、その驕りから目が覚めた。この人に向かって「よくも俺様の成金気分に水を差してくれたな」などと口が裂けてもほざけるものか。水は水でも彼女が差してくれたのは恵みの水なのだ。金が何だ。砂漠の真ん中でいつでも水が買えるものか。茫漠と広がる砂丘で本当に必要なのは違う。どんなレースも勝てる秘密のラクダ? それともランプの魔人? 開けゴマの呪文? どれでもない。オアシスーーつまり恵みの水だ。ナツメヤシが林立し、サボテンが実り、色とりどりの花と青空、その美しさと豊かさに潤いを与える水源を見つけられるかどうかが、人生の価値を左右する。ラハイの世界の果て、東の終わり、西の始まり、その境界にて遂に真のオアシスを発見した。オアシスはその境界に相応しい姿でラハイを待っていたのだ。生涯初めて、また生涯最後の女に巡り会えた高揚が胸を占める。勿論、これまで出会ったその他大勢が女とも呼べない人たちだったとは少しも思わない。幼心に本気で結婚すると信じていた子だっていたし、冒険心を確かめ合うように唇を重ねたこともある。まあそのときは二人して吐く真似をして笑うだけのマセきれないガキだったが、そういう恋愛を試行錯誤する微笑ましい営みをガキの一言でなかったことにするのは、ラハイにはできなかった。その内にラハイも年相応に恋を覚えるようになり、しかし小さな頃と同じようにはいかない。夢中になった美女といえば銀幕の中の人ばかり。そう、映画スターだ。目の前の彼女を凌駕する器量良しはボリウッドに大勢いる。しかし、一条の光芒に示された乙女は銀幕の夢などではなく、ラハイが赴いた異国、ここクファールで出会った生身の一人である。初対面にもかかわらず、このお嬢さんはまるで、ラハイ個人の思い出を共にした相手――母であり、幼馴染であり、映画スターである――に重なって見えて仕方がなかった。ラハイの記憶するシーン全てに彼女の美貌が、シーンに相応しい歳の姿で現れたのだ。記憶に残る人々の顔を縦横に呼び起こして、比べずにはいられない。人ならざる美、かつてラハイが思い描かなかった美、畏れ多い美。そんな人間がいるとすれば、それこそ映画の中だろう。人伝に評判を聞いて、鑑賞して、ようやく知れる未知の世界にしかいない。それが今、いきなり目の前に化身している。それともここが映画のスクリーンに投影された泡沫の夢であろうか。そうか、ならばミュージカルだ。歯が浮くようなヒンディー・ポップの流れる中、主役の男女が距離を確かめ合う。道行く連中の誰も彼もよ、踊って二人を祝福しておくれ。ありったけの楽器を集めて奏でておくれ。無ければそこらの物を叩いて拍を刻め。激しいステップで飛沫を上げて、(ホーリー)祭りの如く鮮やかに色粉よ飛び交え。うわっ、どうしよう。彼女が微笑んだ。立ち上がってこっちに来る。「……って……のは」


 彼女が手を差し伸べる。乾いた風の便りか、花弁がどこからか迷いこむ。ショールが風に踊る。ラハイのスーツが翻る。ラハイは知っていた。これ、映画で見た。ダンスシーンが始まるヤツだ。


「待ち伏せのご無礼をお詫び申し上げます。ラハイ様ですね。アリーシャ・サアドゥーンと申します」


 ラハイが呆けている内に、差し伸べられた手がもう一歩前進する。普通に握手を求められていた。そうだった。ダンスが始まる前は大体、ヒロインとワンエピソードを挟んでいた。


「あ、ええ、はい。いかにも。私がラハイでありまするが」何テンパってんだ。咳払いを一つ。握手を返す直前に気づく。「あーっと、ごめん。口を塞いだ手だ」引っこめる代わりに帽子を脱ぎ、胸に当てて頭を下げる。「握手はフィンガーボウルの後でも?」


「ええ。構いませんわ」


 ふと、アリーシャの笑顔から作り物っぽさが薄らいだ。立ち話は何だと、勧められるままラハイは同席した。ジュラルミンケースと中折れ帽は隣の席に置く。


「君とは会ったことがある」


 席に着くなり言ったラハイに、アリーシャは目を丸めた。「えっ……と」と目が泳ぐ。言葉に窮しているらしい。何だ、この子も緊張しているのか。ラハイは肩の力を抜く。


「僕らが生まれる前、魂が地上へ旅立つ場所で」


 拍子抜けし、アリーシャは堪らず苦笑した。「何かと思えば……冗談がお上手ですのね」


「冗談じゃない。本当さ」


「でも私、貴方のフルネームも知りませんのよ?」


「ラハイ・チャンドラグプタ=パータリプトラ」


 いよいよ堪らず、アリーシャは肩で笑った。


「何? 疑ってるの? 本名だよ?」


「いえ、いえ……失礼しました」笑い涙を長いまつ毛からすくうアリーシャ。「それから、お詫びすることがもう一つあります」


「ん、何だろ?」


「偽名を使いました。私、サアドゥーンではございません。本当はアリーシャ“ヒュッレム”ハセキ=スルタンと申しますの」


 今度はラハイが笑う番だった。


「お嬢さん、そりゃ、スレイマン一世の寵姫に向けた尊称だよ」


「偉大なるマウリヤの王者(ラージャ)陛下、お近づきになれて光栄にございますわ」


 二人の談笑は、物陰から覗く店主らから見て、良い雰囲気だった。「あんたは料理!」女給諸姉が小声で店主の尻を叩く。店主は渋々、しかしラハイに免じて機嫌を直し、階下へ降りて行く。

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オラに元気を分けてくれ!

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