六話
「私は働きたいだけです。伯爵家に戻る気もまったくありません」
言い切ったエリンはダニエルの本心を探ろうと瞳に映る自己像のさらに奥を覗き込む。
(正念場ね)
ここで出て行けと言われたら終わりだ。
窮地に立たされた気になったエリンの身体に緊張が走る。
「戻りたくない事情があるのか」
手首を掴んだままダニエルは静かに問う。
いきなり出ていけとも言われず、怒られもせず、ほっとしたエリンは、素直に頷いた。
「戻る家はありません。私は奴隷の子です、しかし、伯爵の血は引いています。どうか、これでお察しください」
「……」
真顔になるダニエル。
「金貨は渡してあったはずだ、あれを持って出て行けば良かったものを」
「私には行く当てはありません」
そんな選択を考えもしなかったエリンは慄く。
追い出されたら、本当に行く当てがない。
この屋敷で働きたいと切実に願っている思いのたけをきちんと伝えないといけないとエリンは決意する。
「私はダニエル様にお仕えするためにここに来ました」
「仕えるため?」
「はい。ダニエル様は、国を守った英雄です。それだけでなく、長年きっかけがなかったため放置されていた奴隷を一般市民と同等とする方向へ国を動かしました。私もダニエル様の功績の恩恵に預かったものの一人です」
ふいっとダニエルは顔を背け、手をはなした。
「そんなことか」
呟きがエリンの耳に届くと、ダニエルはカトラリーを手に取った。
(食べてくれる。良かった。口にあえばいいけど……)
憧れの人に食べてもらえるのだと改めて気づき、エリンはドキドキしてきた。
ダニエルは、フォークで切り分けた肉を口に運ぶ。
咀嚼し飲み込むと、ナイフとフォークが持つ手が止まった。
(美味しくなかった?)
エリンの心臓がきゅっと締まる。
肉を凝視し、固まっているダニエル。黙って見ているのが耐えられなくなったエリンは、お口にあいませんかと言いたくなるものの、まずいと言われることが怖くて身動きが取れなくなる。
肉を見ていたダニエルは呟く。
「……うまいな」
エリンの目が丸くなる。
(美味しいって言った?)
再びダニエルがカトラリーを扱い、肉を食べ始める。食べる勢いはとまらない。
肉を半分食べ終え、スープを一気に煽ると、空になったスープカップをエリンに突き出し、口元を手の甲で拭った。
「まだあるだろう」
「あっ、はい」
カップを受け取ると、残りの肉を食べ始める。その勢いに呆気にとられながら、エリンは急いでスープをよそって、さし出した。
がつがつと食べ始めたダニエルを見つめ、エリンは胸をなでおろした。
貴族では見られないような行儀の悪い食べっぷりであっても、食べてくれるだけで、エリンは満ち足りる。
『うまいな』
そんな一言がいつまでも胸奥で響き、心身をほんのりと暖かくしてくれた。
翌朝。
早朝から体を鍛えるダニエルのためにエリンは食事を用意していた。丸パンを籠に盛り、ほうれん草とベーコンのキッシュをもりつけた皿を食堂へ運ぶ。
厨房から食堂に入ると同時に、鍛錬を終えたダニエルが食堂へ入ってきた。
二人は目が合って、一瞬動きを止まる。
我に返ったエリンが料理をテーブルに置くと、すかさず、頭を下げた。
「おはようございます。ダニエル様」
「おはよう」
ぼそりと呟くダニエルはエリンを無感情に一瞥し、すぐに椅子に座った。
どかりと荒々しく腰掛ける所作は変わらない。
(前と違う)
どことない違和感を感じ、ダニエルを観察しながら、エリンはキッシュを切り分ける。
鍛錬してきたダニエルから、汗臭さがない。厨房で食べていた時は料理の芳香さえかき消すような臭いを放っていたというのに。
一ピースを皿に盛り付け、ダニエルの前に運ぶエリンは、横目で観察する。
もう一つ変化に気づく。
出会った時から、昨日までたくわえていた無精ひげがきれいに剃られていた。
(体を拭いてきたのかしら。洗面所も綺麗に改装されているものね。前までは、水回りと言えば、厨房しか機能していなかったわけだし。朝の鍛錬で汗を拭く場所も、髭を剃る場所もなかったから、あんな恰好しかできなかっただけなのかも)
大工たちが入ってくれたおかげで、上下水道も最新式のものに整備してもらえていた。
(もっと早く整備してもらっていたら、快適に過ごせたのに)
そんなことを考えながらエリンは、切り分けたキッシュをのせた皿をダニエルの前に置く。
「ほうれん草とベーコンのキッシュです。お飲み物は、珈琲、紅茶、どちらになさいますか」
「紅茶でいい」
皿を凝視したまま呟くダニエル。
「かしこまりました」と下がるエリンは、鍋よりポトフをよそい、運んで後、「では、お茶を淹れてまいります」と丁寧にお辞儀をして去ろうとした。
すると、今まで前をむいていたダニエルが背もたれを押して、急に振り向いた。
眉がつりあがり、怒っているような顔つきに、エリンはドキリとする。なにか不興を買うようなことをしただろうかと不安になった。
「おい、お前。お前の食事はどうするんだ」
「私の」
「あと、名前」
「名前?」
「お前だと呼びにくい」
最初に名乗っていたはずだと思ったものの、主人には口答えしない。長年、伯爵家でそのように躾けられてきた。
「私はエリンです。エリン・ミドルトンと申します」
「ミドルトンは言いにくい。エリンでいいな」
「はい」
「でっ、エリン。食事は?」
「それは私のということでしょうか」
「それ以外、誰がいる」
「私は……、ダニエル様が食べ終えられましたら、残りの料理をいただくつもりです。片づけてから厨房ででも」
ダニエルの眦が歪む。
その威圧感にエリンはたじろぐ。
主人のために用意した料理の残りを使用人が分けて食べるのは伯爵家ではいつものことであった。
貴族の主人たちも、豪勢な料理を楽しみ、食べ残しや、飲み残しは、使用人たちに分け与えられるのが、長年貴族の屋敷で働いてきたエリンの常識であった。
「同じものを食べるのか」
「はい……。ですが、ダニエル様がお嫌なら、そのようなことは致しません」
「違う。そうじゃない」
ふいと前を向いたダニエルが、腕を組んだ。
「後で食べるなら、今、ここで食べても変わらないだろ」
「……」
「お茶を淹れて戻ってきたら、ここですぐに食べろ。その方が早い」
(早い?)
なにが早いのかエリンはよく分からなかった。
しかし、主人の意向に逆らうのはどうかとも考え、まごまごしてしまう。
(ゆっくりお茶を淹れてこようかな)
そんな気持ちを見透かすように、ダニエルが下から睨みつけてきた。
「どうせ、この家には二人しかいないんだ。別々に食べていたら時間の無駄だ」
目を逸らしたダニエルは再び食事に没頭し始める。
「……」
(早く食べ終えて、他の仕事しろということかしら)
エリンは「お茶を淹れてきます」と告げて厨房に下がる。急ぎ、紅茶を淹れ食堂へと戻ると、ダニエルの食事はほぼ終わりかけていた。
食後の紅茶が間に合って良かったと、エリンはほっとする。
黙って紅茶を飲み始めたダニエルを横目に、キッシュを切り分け、皿に寄せたエリンはテーブルの端に座った。
ダニエルが、パンをのせた籠をエリンに寄せてくる。
食べろという意味かと驚くエリンをダニエルは静かに見つめる。
「エリン」
「はい」
「なにがしたいんだ」
「なにをって……」
働かせてほしい。
エリンの希望はそれだけだった。
英雄の妻に収まるほどの価値はないと自認するエリンは、身分相応な立ち位置でいいのでおいてほしいだけであった。
行く当てもない。
伯爵の屋敷の端っこで大人になったエリンは、出入りする業者とのやり取りや屋敷を取りまとめる執事や侍女たちの仕事は理解していても、世の中のことは何も知らない。
さらに、エリンのなかではすっかり、嫁いできたという意識は霧散している。
初対面時から、嫌われていると肌で感じた以上、花嫁として望まれていないことは理解していた。
花嫁は無理でも、役立つ人間であることを示し、屋敷の管理を行う者として雇ってほしい。
その望みは、ダニエルを無条件で尊敬するエリンにとって、とても落ち着く立ち位置であった。
返答を待つダニエルに、エリンは希う。
「どうか、私をここにおいてください。屋敷の管理、食事の用意、洗濯、掃除。奴隷出身の私は、何でもできます。ダニエル様がご不在の時も、屋敷をちゃんと管理してみせます。ですので、どうか私をここで、働かせてください」