二話
アメリアから下げ渡されたおさがりの衣装を身に着けたエリンは、伯爵家の馬車に揺られていた。
車窓から赤らんできた空を見ている。
向かう先は、平民出の聖騎士ダニエル・スネルのお屋敷。
彼の屋敷は貴族街の端にかまえる豪商の家々が並ぶ、下層の平民から見れば高級な住宅街の隅にある。
(一体、どんな人なのかしら)
英雄の経歴を反芻するエリンの胸に期待が膨らむ。
※
英雄と呼ばれる聖騎士ダニエル・スネルは魔獣が生息する北の山脈地帯を守る砦に奴隷として入り、下働きから出世していった経歴を持つ。
グリズリーからドラゴンまで、彼が一人で狩れない上位の魔獣がいなくなった頃、隣国との間に戦争が勃発した。
昔から東の鉱山の権利をめぐって争いが絶えなかった地域があり、火種はつねに燻っていたものの、隣国が鉱山を占領しようと国境沿いの村を焼き払ったことで事が大きくなった。
村一つ消されて、隣国に取り込まれたとなれば、国も黙ってはいられない。
そして、北の砦で名を轟かせたダニエルが駆り出された。
一騎当千。
魔獣相手に鍛えられた剣技を用いて、隣国との戦争は数か月で決着し、開戦一年後には停戦協定が結ばれる。鉱山の利権も国が独占することとなった。
隣国に対しても名が知れ渡ったことで、国はダニエルを英雄と称し囲い込むことにした。
二年前に奴隷制が廃止されたのも、彼の功績があってのこと。
今までも、奴隷制に対し、異論を唱える勢力があったが、なあなあに事が流れていたのだ。
奴隷出身であるダニエルを出世させるという裏の名目を隠しつつ、国はかねてから議論されていた奴隷制を見直して、今に至る。
※
(すごい人よね)
経歴を詳しく知ったエリンはダニエルを崇拝する。
奴隷でありながら、実力で道を切り開いたこと。
その実力を認められて、長年問題視されていた制度を変えてしまったこと。
どう考えても、尊敬しかできなかった。
同じ奴隷であってもエリンの人生では伯爵家の下働きで終わり、国を動かすことなど出来なかっただろう。
そんな世界を動かした人に嫁ぐことができる。実感はわかなかった。
無理やり刺さりこんだ結婚であり、アメリアから貴族の結婚とはこういうものだという概要を教わっていても、生来沁みついた使用人気質が邪魔し、貴族の妻という生活に臨場感を持てないでいた。
ただ一つ。
エリンの胸を強く打ったのは、彼がもたらした世界を変えたという事実だけ。
(すごいことだわ。どんな人であろうとも、すべてをかけて仕えよう。嫁ぐわけだから、ちょっと違うか。どんな容姿でも、どんな人物でも、尊敬しつくしていこう)
嫁ぐというより、新しい主人を得たという喜びでエリンの心は躍っていた。
車窓から見える街並みが変わり始める。
貴族街の中心部より、小ぶりな屋敷が増える。
庭が狭くなり、ところどころ整備されていない土地も見られ、建物がまばらになり、どこか閑散としている雰囲気が漂い出す。
外に出たことがあまりないエリンは少し怖くなる。
程なく、小さな屋敷の前に馬車は止まった。
馬車を降りたエリンは、寂れた屋敷に息をのんだ。そこはとても人が住んでいる雰囲気がない、廃墟のような家であった。
(雨漏り、しそう)
第一印象がそうであるように、壁の塗装は剥がれ落ち、ベランダも手すりが朽ちている。
(こんな屋敷でどうやって暮しているのかしら……)
びっくりしていると大きな旅行鞄二つ分の荷物を御者が降ろした。立ち止まっていても仕方ないと、御者と一緒に玄関まで荷物を運ぶ。
玄関扉を二回叩いた。横にベルを鳴らす紐があり、引くと、がらんごろんと耳障りな音が鳴る。
ベルの音が溶けきり、無音になる。
しかし、誰も出てこない。
もう一度紐を引こうとしたところで、ぎっと内側から扉が開いた。軋む音もまた耳障りだった。
「誰だ、こんなあばら家になんの用だよ」
のっそりと現れたのは、無精ひげを生やした眠そうな男だった。赤らんだ顔からは酒の臭いがプンプンする。
御者はエリンの横でぎょっとする。彼の顔には、ここは貴族の邸宅ではないのかという疑いが貼り付いていた。
貴族の令嬢であれば、泡をふいて倒れ、とんぼ返りしそうなところだが、元奴隷の、付け焼刃で令嬢のふりをするエリンには、そんな酔っ払う男の姿は見慣れたものだった。
年末年始など、無礼講時には、使用人や奴隷たちで屋敷の片隅で宴会を行う。その時に、主人から差し入れられる安酒を浴びるように飲む男達の様子を片目で見ながら育ってきた。
エリンはアメリアから教わったカーテシーを披露し、挨拶する。
「お初にお目にかかります。私は、エリン・ミドルトン。ミドルトン伯爵家より、ダニエル様に嫁ぎに来た者です」
エリンのはっきりした声音に瞠目した男は、にやりと笑う。
「今日か、お嬢ちゃんが来るのは」
「エリンと申します。あなたは、ダニエル様でしょうか、それとも?」
酔っぱらいは扉をあけ放ち、扉の横に肩をつけて腕を組んだ。
「そう、俺がこの屋敷の主人、ダニエルだよ」
ダニエルが横に避けたことで、室内が見えた。
広間があり、階段があるものの、途中から薄暗くよく見えない。
階段の塗装は落ち、床板も所々割れている。
壊れた家をなおせない貧乏貴族だってこんな家には住んでいられないだろうと思うほどの荒れ果てようだ。
御者は仰天して、持っていた鞄を地面に落とす。
驚きはしたものの、エリンは冷静に何か事情があるのだろうと、ダニエルを見た。
薄笑いを浮かべるダニエルは、エリンを試すように言った。
「入るか?帰るか?」
不遜な態度は、『この屋敷の内部を見ただろう、帰るなら今のうちだぞ』と言っているかのようであった。
「入りますが、なにか」
意に介さないエリンは、堂々としたものだ。
酔っぱらいダニエルはエリンに近づく。
へらへらとした顔を近づける。強い酒の臭いがした。
「帰らないのか。今のうちだぞ、こんな雨漏りしそうな屋敷で、どうやって暮らすというんだ?貴族のお嬢様が暮らせるような家じゃあないだろう」
「そうですね。まずは掃除をして、家の不具合を確認しましょう」
「それまでどうする?寝床だってろくなもんじゃないと想像できるだろう」
「寒さと雨をしのげればなんとかなります。ダニエル様がこのお屋敷に住まわれるなら、業者を呼んで家をなおす見積もりを取りましょう。でなければ、もっと小ぶりの家でいいので、買い替えをしてはいかがでしょうか」
冷静な返答をするエリンにダニエルが笑い出す。
「おもしれえ。こんな現状を見て、逃げ帰るかと思ったら、提案かよ。入るなら入ればいい。だが、言っておく。ここに快適な暮らしはない。使用人一人いないからな。水くみだって、料理だって、洗濯だって自分でしなくちゃならないんだ」
どうだと言わんばかりのダニエルだが、エリンはびくともしない。
エリンはそのすべてを毎日やってきている。料理だって、料理人の下働きとして手伝ってきていた。
アメリアならば逃げ帰っているところだろうが、エリンからしてみれば、そのぐらいのことは何でもない。
「分かりました。すべて自分でこなせばいいのですね」
ダニエルが眉を顰める。おそらく、これでとんぼ返りするだろうとでも思っていたのだろう。
彼の反応を気にせず、エリンは御者に顔を向ける。
「私はここで大丈夫です」
エリンを子どもの頃から知る御者は少し心配そうな顔をしたが、これ以上何もできることはないと、ダニエルとエリンに挨拶し、去っていった。
エリンは残された重い荷物を室内へ運び入れる。
重さによろけながらエリンが床に二つの荷物を置ききるまで待ったダニエルが扉を閉めた。
「かせ。そんなにふらついていたら、時間がいくらあっても足りない。案内する」
両手に鞄をそれぞれ持つと奥へ歩き出すダニエルを、エリンは追う。
前方を見据えるダニエルは、エリンを見ないようにして話し出す。
「ここにはなにもない。快適な暮らしも、心地よい寝床も。
俺はすぐに北の砦に戻り、東の鉱山地帯に出張ることになる。心地悪ければ、さっさと消えろ」
口調や態度から、エリンは歓迎されていないと肌で感じる。
「俺は厨房と従業員用の部屋を使っている。ここは寝て、食べられればいい。部屋はいくつもある、勝手に使え。帰りたくなったら、断りなく出てけ」
言い終わると同時に、ある扉を開く。
そこは厨房だった。
あまり片付いておらず、隅には蜘蛛の巣が張っている。料理器具はそろっているが、ぱっと見食材はない。
短期間しか暮らしていないので、必要最低限の食料しか置いていないと、エリンは瞬時に理解した。
案内するダニエルは無言で扉を閉め、また歩き出す。
近場の扉を示し、「ここで寝ている」と呟き、通り過ぎ、隣の扉を開けた。
「使え。ここが嫌なら、適当に好きな部屋に自分で移動しろ」
ダニエルは荷物を置き、踵を返す。
エリンのことなど知らないとばかりに、出て行った。
ぽつんと残されたエリンは、(結婚とか、婚約とか、嫁ぐとか。それ以前の問題じゃない?)と唖然とする。
開け放たれた扉から、寂しい風が吹き抜けていった。