後日譚③:胃袋を掴み返してくる婚約者が天使に見える甘い朝
気だるいエリンは、寝返りを打つ気にもなれず、手の甲を額に押し当て、ため息を吐いた。
(うっ……、動けない)
眼球だけ動かして、窓辺に目をやる。
日は高く昇り、カーテンから陽光が透けて見えた。
ここはダニエルの寝室。
目覚めたのは、婚約者である彼のベッドの上。
かあっと体中が熱くなって、両手で顔を覆い、エリンは身もだえる。
かといって、気だるい体を動かす気になれず、掛布のなかでもぞもぞするばかりであった。
婚約者であると否応なく知らしめられて数日。
未だ、朝の目覚めは慣れなかった。
さらに信じがたいことに、毎朝ダニエルはいない。
(なんでダニエル様って起きれるの?夜だって、遅いはずよね、寝てるの?睡眠が不足していて、どうしてあんなに動けるの?)
それ以上に困った問題が起きていた。
(仕事が出来ない……)
ここ数日、掃除は手抜き、料理も十分に作れていない。
いつもそれなりに奇麗にしている屋敷だから、数日なら変化は見られないとしても、一週間も経てば、掃除が行き届いていないことが目に見えてくるだろう。
窓の桟や部屋の隅にほこりがたまり、蜘蛛の巣まで張ったとなれば、エリンのプライドが許さない。
気持ちは前を向こうとするのに、身体は動かない。
動かない理由を考えると、羞恥で心が苛まれた。
かといって、身体を左右に振り子のように動かすには、重たい気だるさと微かな痛みが残っている。
「……、もうやだぁ」
ダニエルに抱き込まれれば、彼を敬愛するエリンは、逃れようがない。誰にも彼の横に立ってほしくないと思うのと、彼を敬愛することは繋がっても、ダニエルが向けてくる愛を受け止めることには、まだまだ心構えが足りていなかったのだった。
いたたまれないエリンがベッドの上に体を起こす。身を包むガウンの首元を整える。
軽いため息が漏れる。扉が開く音が重なった。
エリンがぱっと振り向くと、笑顔を振りまくダニエルが装飾性の高い配膳カートを押して入ってきた。
「起きたか?」
「はい。おはようございます」
気恥ずかしくて、エリンはそっと視線を外してしまう。
ダニエルはそんな初々しい反応を見せる婚約者を微笑ましく思い、目を細めた。
「おはよう、エリン。今日も朝食を作ってきたよ」
数日前の夜、『明日の朝食は俺が用意するからな。気にせず、朝寝坊しろよ』と言った通り、ダニエルは翌日、朝食を作ってくれた。
ぐったりしたエリンは太陽が高く昇るまで起きることができず、昼近くまで眠っていた。
慌てて目覚めると、傍らでダニエルがゆったりと椅子に腰かけ、本を読んでいる。
「おはよう」
甘い声音の挨拶に、エリンはただただ恥ずかしかった。寝顔をずっと見られていたのかと思うと、それもまた耐えがたかった。
さらに驚いたのは、ダニエルが食事を作れることだ。
奴隷落ちした当初の暮らしでは、保護者の騎士が働き、ダニエルが食事を作る係になっていた。幼少期から王宮で味覚を鍛えられていたダニエルである。料理を作ってみると、腕前はぐんぐん上がっていったのだそうだ。
果物の盛り合わせとサンドイッチという冷えても美味しく食べられる料理に、紅茶に果汁を混ぜた甘いドリンクを添えられた初日。
気遣いを感じさせる料理でありながら、味も格別に美味しい料理に、エリンは、ただただ、恐縮するばかりであった。
今日もまた、ダニエルはクリームシチューとパンを運んできた。果物とゆで卵に、紅茶も添えられている。
配膳カートから、サイドテーブルに料理を並べるダニエルをエリンは見上げた。
「申し訳ございません。朝食も準備できず……」
「気にするな、このぐらいなんてこともない」
ダニエルは意気揚々と準備をし、ベッドサイドに座る。
「お腹が空いただろう」
そういうなり、ダニエルはスープ皿を持ち上げ、膝にのせる。スプーンを手にすると、それをエリンに渡すかと思いきや、自らスープをすくい始めた。
慌てたのはエリンだ。
「いいです。もう、今日は一人で食べれます」
すかさず、エリンは手を伸ばし、ダニエルの腕を掴もうとする。「おっと」という掛け声とともに、高く掲げ上げられた皿に手は届かない。
「遠慮するなよ」
「私は大人です。子どもじゃないんです、一人でできます」
「気にしなくていい。これは俺がしたくて、しているんだ。主人の言うことは聞くんだろう、エリン」
使用人気質であるエリンの内面を逆手にとってダニエルはからかう。
困り果てるエリンは、泣きそうな顔になる。
「一人で食べれるんです、お皿とスプーンください、お願いします」
「二人だけなんだから、気にするなよ」
「でも……」
涙目で訴えるエリンの淡く色づく唇が非難めいた言葉を紡ごうとするのを、ダニエルは自らの唇で軽く塞ぐ。
押し当てられた唇から伝わるぬくもりに、エリンが目を丸くした。
触れ合いが遠のく時、エリンの口が、でもに続くはずだった非難を紡ぎかける。
震えるエリンの唇を、ぺろりと舐めて、ダニエルはエリンの言葉を封じた。
そこまでされては、顔を真っ赤に染めるエリンは声も出ない。
「さあ、冷めないうちに食べてくれよ」
観念したエリンは、ダニエルの差し出すスプーンを受け入れた。細かく刻まれ、よく煮込まれた野菜が入ったスープは甘い。
(……美味しい)
ダニエルが作った料理だからか、はたまた、野菜が甘いのか。
上目遣いにダニエルを見ると、エリンが食べたのが嬉しいのか、ほんのりとほほを赤らめて微笑んだ。
そんな彼の周りに輝く星が煌めいて見える。
幻の輝きにエリンは、心臓は鷲掴みされてしまう。
「美味いか」
「……はい」
「そうか。エリンが、美味しいと言ってくれるのは、何よりうれしいな」
はにかんで、またスプーンを差し出すダニエル。
エリンは彼に、伯爵家で見た天使の絵画を重ね見てしまう。
使用人として主人に尽くす経験はあっても、尽くしてもらう経験のないエリンからしてみると、ダニエルの行為は、天使が具現した行いのように見えた。
(ああ、もう、十倍増しでダニエル様が輝いて見えちゃう!!)
婚約者の無自覚な優しさが、エリンにはどうしようもないうえに、今まで感じたこともない甘い苦悩をもたらすのだった。
【おまけ】
食後。
恥ずかしがりながら紅茶を飲むエリンの姿を見つめるダニエルが提案する。
「そろそろ、メイドを雇うか」
「でも、二人で暮らすだけなら……」
私だけでも十分できますと言いかけた唇を、ダニエルが人差し指で抑える。
「料理は俺もエリンもできるだろう。必要なのは、掃除や洗濯をしてくれるメイドだ。まとめ役の執事はいらなくても、庭師も週に一度くらい来てもらっても良さそうだな。メイドだって、通いでいいしな」
「待ってください。私、できますよ。今までだって、切り盛りしてきたじゃないですか」
仕事を奪われる不安に襲われ、エリンは訴える。
「エリン」
名を呼びながら、ダニエルはエリンの顔を覗き込む。
「掃除や洗濯、庭の整備は人に任せられる。
でも、俺に甘やかされるのは、エリンにしかできない仕事だろう」
エリン目線の後日譚です。主人公は彼女だからね。
ダニエルが変われば、彼女も変わるもの。
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