後日譚①:使用人気質が抜けない婚約者の変わらない日常
真夜中、すべての仕事を終えたエリンがダニエルの寝室の扉を軽く叩いた。
一歩後ろに下がり、屋敷の主人が出てくるのを待つ。
程なく扉が開き、ダニエルが顔を出した。
寝間着に着替えていない姿を見て、(やっぱり)と思ったエリンが単刀直入に問うた。
「ダニエル様、今晩はお出かけになりますか」
「あっ、ああ」
渋い顔をするダニエルが、歯切れ悪く答える。
エリンには、黙って出かけようとしているのを気づかれてしまい、きまり悪く感じているように見えた。
屋敷の主にそんな思いをさせてはいけないと、エリンは気を遣う。
「今夜お出かけになりますと、明日の朝食時間はいかがしますか。少し遅らせた方がよろしいでしょうか」
「……、いや、時間はそのままで」
どんなに遅くなっても、目覚めの時間は変わらない。エリンは分かっていて問うていた。
「かしこまりました。ではダニエル様、お気をつけていってらっしゃいませ。私は先に休ませてもらいます」
エリンは深く頭を下げ、隣の部屋に移動しようとする。
「えっ、エリン」
ダニエルが、少し高い声で呼び止めた。
「いっ、いいのか、俺が出かけても」
「?。このお屋敷はダニエル様のお屋敷です、屋敷の主が自由にされるのは当然ではございませんか」
「うっ……、そうだな」
「はい。今宵も、王様がお待ちなのでしょう」
「……、まあな」
姉妹とはもう会うこともないと予想できるエリンからしてみたら、月に数回でも兄弟と会っているダニエルが少し羨ましくあった。姉妹に会いたいわけではなく、離れて育っていても心が通じている兄弟のように見えるからだ。本音を隠し、エリンは平静を装う。
「戸締りだけはよろしくお願い致します」
「……」
ダニエルは視線を逸らす。
「……行ってくる」
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
軽く会釈したエリンが、隣の部屋の扉に手をかける。
するりと扉の向こうにエリンが消えようとした時、逸らしていた視線をばっとダニエルはエリンに向けた。
「エリン」
動きを止めたエリンに、口元を真一文字に結んだダニエルが告げる。
「おっ……」
「おっ?」
「おやすみ、エリン」
「おやすみなさいませ」
再び会釈し、エリンは自室へと消えていった。
廊下に残されたダニエルは、大きなため息を吐いて、座り込んだ。
※
酒を呷ったダニエルが、どんと盃をテーブルに叩きつける。
ここは兄弟がいつも待ち合わせる平民が利用する酒場。
二人掛けのテーブル席に向き合って座っていた。
平民に扮した王が苦笑する。
「関係は変りばえないと……」
「なんで、分かる」
「顔にも書いているが、態度にも出ている」
「うるさい」
睨むダニエルに、王は「怖い怖い」とうそぶいて見せる。
「なぜだ、なぜ、エリンと俺の日常はなにも変わらないんだ」
「だから前から言っているじゃないか。使用人を雇えばいいと。メイドと料理人、執事、庭師を揃えれば、エリン嬢も否応なく自覚を持つはずだろう」
「……、分かっているが。エリンとの二人暮らしが、心地いんだ。誰にも邪魔されない、二人だけの時間が……」
エリンのことを語っているからか、アルコールのせいか、はたまた、両方か。ダニエルの頬がほんのりと朱に染まる。
「料理もうまいし。料理人を雇ったら、エリンの手料理をなかなか食べれなくなるだろう。あれは惜しい」
「へえ、そんなに美味しいのか」
ニヤニヤからかうような顔の王にも、ダニエルは真顔に応える。
「美味い。出来立てのスープも、肉の焼き加減も俺の好みを把握して、絶妙だ」
「なら、掃除はどうだ。掃除専用のメイドを雇えばいいじゃないか」
「屋敷は広いが、使っている範囲は狭い。エリンは毎日楽しそうに掃除をしている。仕事を取り上げるのは、なんとなく、気が引ける」
「洗濯もあるんじゃないか」
「クリーニングも利用しているし、大人二人暮らしなら、雇うほどの量が出ない」
「庭師は?」
「それぐらいなら、俺もできる。それなりに鍛錬にもなる。身体を動かすからな」
「執事は?」
「メイドも庭師もいないのに、まとめ役がいても仕方ないだろう。なにより、エリンが、業者への対応もすべてこなし、生き生きと働いている」
「……」
真顔のままダニエルは、両手で抱えた盃をじっと見ている。
王は(やれやれ)と天井へと視線を流す。
(あの兄がねえ)
魔獣も、敵兵も、ものともしない者が、婚約者一人に、まるで十代の少年のように初心い反応を見せている。
(要は誰にも邪魔されたくないんだな)
笑い出しそうになるのを必死でこらえながら、王は言った。
「そういえば、私からなにも贈っていなかったよな」
「贈る? なにをだ」
「婚約祝いの品だよ」
「なにを言っている、色々俺はもらっているぞ」
「違う、違う。あれは国を通している。私個人からの品だ。そうだな、せっかくの兄の祝いだ。とっておきのワインを贈ろう」
妙に楽しそうな弟を訝りながら、兄は弟の申し出を受け入れた。
※
その頃。
自室で寝間着に着替え、ベッドにもぐりこんだエリンは、ほくほく満足していた。
(今日も、ダニエル様におやすみを言って寝れるわ)
婚約者になっても、まだ屋敷に使用人を雇っていない状況であり、エリンの生活は以前とほとんど変わらない。
ダニエルの隣に部屋を用意し、毎晩、寝る前に「おやすみ」と挨拶を交わせるようになったのが一番の違いだった。
エリンからしてみれば、それだけで十分満足だった。
(明日も、朝早いダニエル様のために、栄養ある食事を用意しなくちゃ)
毎晩、エリンは満ち足りて入眠する。
ダニエルに奉仕できるだけで、日々充実し、満足感に浸ることができた。
婚約者としてどこか間違っているとしても、平民のエリンからしてみれば、主人にお仕えできるだけで十分であったのだ。
明日、もう一つ後日譚追加します。