十話
「アメリア……」
疲れ切っていたエリンは呆けた顔で、堂々と立つ姉妹の名を、息吐くように呼んだ。
数か月前に別れたばかりなのに、何年も顔を見ていない錯覚を覚える。
アメリアは怒ったような顔で、両の拳を当てた腰を屈曲させ、エリンの顔を覗き込む。
周囲に聞こえないよう、アメリアは囁く。
「良い御身分になったものね。王の兄の花嫁ですか、元奴隷上がりが」
「花嫁って……」
「王様が紹介したのよ。会場中を包んだ拍手と賛辞は聞いているでしょう」
立っているだけがやっとであったエリンは、そこまで覚えていなかった。
どこか、他人事の儀式を、幽霊のように傍観していたようにしか感じられておらず、そこに自分の紹介があったことさえ気づいていなかった。
「奴隷上がりの最下層の平民に嫁ぐのなんて嫌だったけど、彼が王の兄なら話は別よ。ねえ、今からでも、辞退しなさいよ。私が代わるわ。私だって、ミドルトン伯爵家の者よ。条件は同じ、それどころか、生粋の伯爵家の息女は私、あなたじゃないのよ」
アメリアが人差し指をエリンの胸に突きつける。
「王族の間に立つあなたなんて、貧相もいいところよ。顔色が悪いと思っていたけど、まさか記憶がないとは思っていなかったわ。身分が違いすぎて、場違いすぎて、拒否反応でも示していたのではない?あなたには過ぎた立場なのよ。奴隷出身のあなたなんて、使用人として雑用係をしている方が落ち着くはずよ。あなたにはあなたの立場があるの、その辺をわきまえているなら。その立場、私に譲りなさいよ」
黙って聞いていたエリンは奥歯を噛んだ。
使用人としてダニエルの傍にいたい。
エリンはそう思っていた。
エリンはずっとダニエルの傍で、彼の世話をやいてきた。
食事を作り、一緒に食べて、彼の部屋を掃除し、彼の服を洗濯する。
使用人としては当たり前のことをしただけだ。
ダニエルを尊敬するエリンは、それだけで心の底から幸せだと思っていた。
でもそこに、別の花嫁が割り込んでくる。
その想像がエリンの身体を駆け巡った瞬間、悪寒とともに、怒りがわいた。
言い知れない憤怒が身体を焼く。
すると、アメリアの言葉すべてに反発心を覚えた。
今のエリンの主人はダニエルだ。
だから腹が立ったのか。
すぐさまエリンの心がそれを否定する。
ダニエルの横に別の女性が立つ。
そのダニエルとその女性に仕えるエリン。
そんな未来が脳裏をかすめた瞬間、吹き出した怒りがその映像を叩き割った。
(ダニエル様の傍にいるのは私!)
エリンは自身を指さすアメリアの手を払い、睨みつけた。
「嫌です」
飼い犬に噛みつかれたアメリアは、眉間に皺を寄せた。
「あなた、誰にものを言っていると思っているの、そんなことを言って……」
「言って、なんなんだ」
アメリアの台詞に、男性が言葉を被せてきた。
アメリアは黙り、エリンはアメリアの肩越しに、ダニエルを見た。
「俺の婚約者に何用かな、ご令嬢」
エリンの目の前でアメリアの表情が豹変する。愛らしい笑顔を浮かべ、ひらりと蝶のように翻った。
「ダニエル様、お初にお目にかかります。私、ミドルトン伯爵の息女アメリアでございます」
「エリンの姉妹か」
美しいカーテシーで挨拶したアメリアが、ダニエルの頬に挨拶のキスをしようと身を乗り出したところで、ダニエルがアメリアの肩に触れ、押しとどめる。
「失礼。我が婚約者の前なので、お控え願いたい」
「ただの挨拶ですわ。この程度のこと、気にするような者はおりませんわよ」
「ああ、かもな。俺も奴隷あがりなもので、こういう過剰なスキンシップは好まないだけだ」
ダニエルはアメリアの顔も見ずに、エリンに手を差し出した。
「立てるか?弟に了承も得てきた。帰るぞ」
「いいのですか?」
「俺もお前と一緒だ。こういう場は慣れない」
エリンがダニエルの手を取ろうとした時、横からアメリアが顔を出し、ダニエルの腕を引いた。
エリンの手が止まり、ダニエルは口内で舌打ちした。
「ダニエル様。エリンは不慣れなのです。彼女は生まれながらの生粋の奴隷であり、このような場にはどうやっても慣れませんわ。ですが、ダニエル様は幼少期はこちらで過ごし、不運にも北へと追いやられた御身。今は慣れなくとも、生まれ持った高貴な血筋により、きっとすぐに慣れていきますとも。そうなれば、生まれながらの奴隷の娘が、あなた様の隣にいては足手まとい。私のような……」
滔々と語るアメリアが絡みつく腕をダニエルが勢いよく振り上げた。
アメリアがよろめき、後ろへ数歩後退する。
ダニエルは何事もなかったかのように腕を降ろし、再度エリンに手を差し伸べる。
「俺の手を取れ、エリン。俺の婚約者はお前だ」
静かであっても強い意思が込められた声音に誘われ手を取ると、ダニエルはぐいっとエリンを引き上げた。
急に立たされよろめくエリンを、ダニエルはもう片方の手をエリンの腰に添えて、支え切った。
抱き寄せられたエリンの頬が自然とダニエルの胸につく。
ダニエルは静かにアメリアに告げた。
「アメリア嬢。もしミドルトン伯爵家がエリンではなく、アメリア嬢を出してきたら、あなたは選ばれていなかった。
俺の伴侶は、打診された時点で、もう決まっていたのだ」
ダニエルはアメリアを一瞥する。
その眼光に気圧されるとアメリアはそれ以上なにも言えなくなる。
屈んだダニエルはエリンのひざ下に手を差し入れるなり、横抱きにして持ち上げた。
慌ててエリンはダニエルにしがみつく。
「いくぞ」
「あっ、歩けますよ」
「それだと遅い」
ヒールのある靴は慣れず、もう足はとても疲れていた。見透かされたようで、エリンはなにも言えなくなる。
歩き出したダニエルは、アメリアどころか、会場にいる誰一人、眼中にないとばかりに、闊歩し、ホールを後にした。
廊下に出ても、まだ降ろさないダニエルに、とうとうエリンが悲鳴をあげる。
「もう、いいです。降ろしてください。ここまでくれば、誰も追いかけてこないでしょう。私、一人で歩けますから」
「……、またいなくなったら困る」
「いなくなりません」
「俺の傍にいろと言っていたのに、いなくなった」
「それは……」
反論できなくなったエリン。
ダニエルは眉を顰めた。
「いや、悪い。俺が気づかなかった。足が疲れていたことも、人がたくさんいる場に気遅れしていたことも、十分な配慮に欠けていた」
「そんなことはないです。私も、言いつけを守らず、離れてしまって申し訳ありません」
「……」
「……」
二人は沈黙する。
言葉を交わすことなく歩き続け、正門近くで待っていた馬車に乗りこんだ。
馬車が走り出す。
横抱きで運ばれていたエリンの頭のなかでは、ダニエルがアメリアに最後に告げた一言がずっと反響し続けていた。
『もしミドルトン伯爵家がエリンではなく、アメリア嬢を出してきたら、あなたは選ばれていなかった。
俺の伴侶は、打診された時点で、もう決まっていたのだ』
その言葉の真意は何か。
まるで、最初から、エリンでなければ、ダニエルの婚約者に選ばなかったという意味に聞こえてしまう。
「ダニエル様」
「なんだ」
「アメリア様に最後に告げた意味は……」
「あれか、あれは弟から聞いた」
「王様から?」
「ああ。俺の婚約者を選ぶ際、弟はいくつかの貴族に打診していた。数多く打診する表向きの理由は奴隷出身の俺への嫁ぎ先に娘を出したがらない家が多いと予想されるからというもの。
しかし、本当の理由は、隠さねばならない娘がいる家に打診していたということだ」
他の貴族の家々にもこんな立場の娘がいるのかとエリンは驚くばかりであった。
「表に出せない、不貞のうえに産まれた年頃の娘がいる家ってことさ」
「それって、屋敷の有様を見ても帰らない者が必要だったということですか」
エリンとダニエルの視線が交差する。
「それもあるだろうが。
父の手によって逃がされた俺と母は、かつてあの屋敷でひっそりと暮らしていたんだよ。
当時の俺と母の暮らしぶりを再現できる娘を選んだんだろうな、あの狡猾な弟は!」